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鞄に放り込んだ資料に隈なく目を通しながら、重松はぶつくさと呟いていた。
「警部、よう車で文字なんか読んで酔いませんなぁ」
「三半規管が強いんや」
「それ、村上に関する情報でしょう?」
佐久間が横目で重松の手元を一瞥する。ちょうど赤信号に捕まったところだ。
「とりあえず、被害者の事は頭に叩き込んどかんなあかんからな。管理官は被害者両名に共通点は見当たらんと言うとったけど……思いがけん所に共通点があるかも知れんからなぁ」
夏の陽射しがフロントガラス越しに照りつけ、白い紙がますます光を反射する。重松は目を細めながら、もう何周も村上や高峰のプロフィールに目を通している。
「何か目ぼしい事は分かりましたか?」
「村上は堺市の中百舌鳥町に住んどった。高峰は堺市の浅香や。どっちも比較的北部やな」
「と言ってもそれだけやと何とも言えませんなぁ……」
「そうなんや……。なんぼ同じ市に住んでたって、他に共通点は見当たらんのや」
落胆を表そうと、首を大きくもたげる。佐久間は車線変更に夢中で重松の好演には無関心なようだ。
「全く見当もつかんのですか?」
「歳からして全然ちゃうからなぁ……。村上は二十八、高峰は五十や」
「五十か……そう言うたら妻子持ちの建設会社の社員でしたな」
「安月給やけど妻子と慎ましく暮らしてた高峰に比べて、村上は若い頃はワルやったみたいやな」
「そうらしいですな……。あの写真も金髪にピアスでしたからな」
重松は村上の顔写真を脳裏に思い浮かべた。思春期にグレて非行に走った青年という印象そのままの容貌であった。
「三年前まで暴走族に在籍してたんでしたっけ?」
「ああ、そうや。今では悪さからは足を洗てコンビニで夜勤のアルバイトをしとった……」
丁度左手にコンビニの看板が見える。
「見た目はまだまだ不良ですけどね」
佐久間が鼻を鳴らす。
「ピアスもえらいジャラジャラした物付けとったし、この資料によれば、右の太腿には龍の入れ墨が入っとって、左腕には刃物で切られた古傷が残っとったらしいわ……まぁ他の族と喧嘩でもしたんやろな。おまけに窃盗と道交法違反で前科二犯や」
「札付きですなぁ。まぁ前科二犯くらいなら可愛いもんかも知れんけど」
佐久間の言う通り、暴走族に所属していた過去から考えれば、まだマシな経歴だろう。だからこそ、きちんと足を洗って今はコンビニで働けているのだろうが……
二人を乗せたセダンはスムーズに走っていたが、再び赤信号で止まった。
「族絡みの犯行……っちゅうのは考えられませんか?」
「村上と族の繋がりは今ではもう無いみたいやしなぁ……。それに、高峰は暴走族とは無縁の人生や」
互いに口を噤んでしまい、重い沈黙が車内を流れる。二人の被害者の共通点を探る事は予想以上に困難だと痛感したのだ。
「――もし無差別やったら、えらい騒ぎになる」
重松はアイドリング音に掻き消される程の声でぼやいていた。
豊中警察署に到着すると、二人は高峰秀之遺棄事件の捜査本部の中心人物であった二人の刑事達と落ち合った。府警本部からわざわざ迎えが来たとのことで、彼らは大層強張った表情を見せていた。
背の高い方が鈴木刑事。低い方が前嶋刑事だと自己紹介された。
「そないに硬うならんと。早く事件の話を聞きたいと思て所轄までお出迎えに来たんや」
冗談とも本気とも取れる調子に鈴木と前嶋は困惑している。だがそんな事は御構いなしに、重松は駐車場に停めたセダンを指差した。
「早速行きましょか。車の中で三年前の事件について詳しく聞かせて欲しいよって」
と、踵を返した重松の小柄な背中を見つめながら、鈴木と前嶋は顔を見合わせている。
「警部はスイッチが入ったら猪突猛進ですから……。すんませんなぁ」
佐久間は腰を低く構えつつ、鈴木と前嶋をエスコートするように重松の歩んだ軌跡をなぞって追いかけた。
「三年前の九月でした。高峰は普段通りに退社して車で自宅マンションに帰宅しました」
「ええと、確かマンションの駐車場に高峰の車が停まっとったんでしたな?」
重松は助手席から首を斜め後方に捻り、後部座席の鈴木の方を確かめる。鈴木はコクリと頷く。
「はい。ですがその日、彼が自室まで帰る事はありませんでした……」
「今回の村上と同じように、スタンガンか何かで気絶させて拉致したんやろうな」
「そんなところやと思います。当初は失踪事件として小さく扱われただけでした……」
「しゃあないわなぁ……。行方不明者は山ほど発生しとるんやから」
静かな沈黙が車内を支配する。
重松の言う通り、日本国内の警察では年間十万件前後の行方不明者の捜索願が受理されているのだ。その内大阪府内に限っても、一万人弱が毎年行方不明になっている。
だが、単なる失踪事件と考えられていた行方不明者が、殺人事件に巻き込まれていたと判明すれば、マスコミや世論から激しく非難される事は避けられない――鈴木や前嶋もまた、そのようなバッシングを受けた当事者なのだ。
「あの時はマスコミにえらい叩かれました。捜索願が出された五日後に、豊中の倉庫で遺棄された上に、灯油かけられて燃やされたんですから……」
「被害者の身元が割れたのは免許証の入った小銭入れが、現場に落ちとったからやと聞きましたけど?」
佐久間が心なしか大きめな声でそのように問うたことを、重松は不思議に感じなかった。重松自身もその点を不可解に思っているからだ。
「ええ。遺体は灯油かけられて人目の無い所で燃やされたせいで、骨が灰になるほどでしたから……」
「それが無かったら、身元は割れてなかったはず……北区の事件みたいに?」
「そうです。検視官もこれだけ燃えてたらDNAの採取は難しいと言うてましたわ。その上、財布も盗られてましたから」
佐久間が地鳴りのような呻き声を喉の奥で鳴らし、ハンドルから左手を離してこめかみの辺りを押さえた。
「変な犯人ですなぁ……。そこまでして身元隠そうとしとるのに、小銭入れ落とすようなポカやらかしとるし」
「佐久間君、やっぱりそこは気になるよなぁ?」
前列で意思疎通をし合う二人をよそに、後部座席の二人はまだ全貌が飲み込めていない。
「昨日の事件と北区の事件も、財布が盗られてたんですか?」
生唾を飲み込んだ後、そう質問したのは前嶋だった。
「そうや。灯油かけて燃やした上に、財布も抜いてる。身元を隠したいからやと考えるのが普通や……。犯人は被害者を拉致した後、すぐに遺棄しとらへんのも、出来るだけ身元がバレるのを防ぐためやろう」
重松が人差し指を立てながら徐ろに語る様子に、二人の刑事はまじまじと見入っている。
前嶋が再び唾を嚥下すると、喉仏が大きく上下する様が重松にもよく分かった。
「にも関わらず、決定的な身分証明書である免許証が入った小銭入れを見落とすと思えるか?」
「そら確かに妙ですなぁ……。かなりガサツな犯人なんでしょうか?」
「犯人の性格のせいか、それとも他に理由があるんか……。そらまだ分からんなぁ」
重松はいたずらな笑みを浮かべる。
重松がそれ以上言葉を発しようとしないのを確認して、鈴木は少し低いトーンで説明を再開する。
「身元はすぐに分かりましたから、高峰の周辺を徹底的に洗いました。ところが……これと言った成果はありませんでした」
鈴木が口角を吊り上げて顔を顰める。
「現場になった資材会社は、倒産寸前の小さな会社で、倉庫言うても鍵もろくな物ちゃいましたし簡単に忍び込めました」
「資材会社の関係者は?」
「洗いましたけど、アリバイがあったり、そもそも高峰との繋がりが全くありません」
予想通りの答えに、落胆などする余地は無かった。
「高峰の事を詳しく教えて欲しいなぁ。趣味とか人となりとか」
「趣味ですか……」
鈴木は黒い鞄に詰め込んできたファイルを乱雑に漁る。豊中署の捜査本部で作られた捜査資料だ。
「ええっと、家族の話では仕事中心の人間やったけど、旅行は好きやったらしいです」
捜査に関わっていたなら、その程度の事はそらで答えて欲しかったが、彼らの意欲を削ぐような事はしたくなかったので、重松は黙っていた。
「家族関係は良好やったんか?」
「そうらしいですわ。仕事でも特に問題も起こす事なく、妻子も満足してたみたいです」
「ほんだら、職場でも評判は良かったみたいやなぁ」
「ええ、彼の悪い話は聞きませんでした」
「なるほど……。他にはどうやろ? 趣味とか性格とか。今回の被害者の村上は昔暴走族に居たらしいけど」
「暴走族? 高峰は前科も無いし、特にワルはやってなかったみたいです」
今朝の捜査会議でも永野がそう述べていた。やはり落胆など微塵も感じない。
「派手好きな面はあったみたいですがね」
前嶋が申し訳なさそうに腰を折りながら告げる。
「派手好き?」
「暴走族とか、そないなレベルやありませんけど、服装とか割と派手な物が好きやったと奥さんが言うてました。旅行で海外なんかに出掛けたら、用途の分からん派手な民芸品買うてきたり……」
その話を耳にして、鈴木も聞いた内容を思い出そうとしているようだ。まるで船出を見送るように遠くを見つめる。
「そう言うたらそんな事も聞きましたなぁ……。昔、車をちょっと改造して、奥さんに怒られたっちゅう話もありましたわ」
「ほう、車を?」
「ええ。前科はありませんけど、そう言う意味では軽くやんちゃな男やったんかも知れません」
重松はやんちゃと言うよりも寧ろ、剽軽で悪ノリをするタイプをイメージした。人当たりの良さそうな彼の見た目がそのように柔らかく捉えさせるのかも知れない。
「せやけど、それだけやと何とも言えませんな。職場も家族も遺棄された資材会社も無関係そうですし……」
佐久間がシートに小太りの背中を埋めながら漏らす。
「関係性はこれから明らかになるかも知れんから、まだ落ち込むんは早いで……まぁ、望み薄やけどな」
重松も佐久間に倣うように体重をシートに委ねた。腕組みをして考え込む。
気付けば前方には大阪府警本部の殊勝な官舎が、視界の大部分を支配していた。