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ホワイトボードには予め、昨日泉南市の廃ホテルで起こったという事件の概要や関係者の顔写真などが書き込まれている。
「早速だが、昨日二十三時頃、泉南市南部の旧泉南クラウンホテルで遺体遺棄事案が発生した」
永野は言葉は標準語を選んでいるが、所々に関西弁のイントネーションを隠せていない。
広くなった額は朝一番だというのに脂が浮いて、照明の光を反射している。大きな事件の指揮を任されたからではなく、この男はいつも脂症なのだ。どんぐりのように首元から胴まで丸々として、ベルトには有り余った贅肉がでっぷりと乗っている。
永野が分厚いレンズの眼鏡の向こうで狡猾そうな目を忙しなく動かしながら、ホワイトボードや手元の資料に基づいて述べた事件のあらましを、重松は頭の中ですぐに反芻していた――
昨日、八月十九日の二十三時頃、大阪府警泉南警察署に通報があった。
肝試しにやって来た廃ホテルで怪しげな人影を発見し、どうやらその人物は死体を捨てにやって来たようだ、と言った内容だった。
通報を受けて、まず機動捜査隊と泉南警察署刑事課の警察官が現場に急行。エレベーターホールらしき場所で、男の遺体を発見した。
通報者は地元に住む四人組の大学生で、懐中電灯を所持していたものの、肝試しの雰囲気を出すために灯りは暗めにしていた事と、当初その人影を幽霊だと勘違いし怖気付いていた事……この二点の要因のせいで、犯人の顔はおろか身体的特徴まで全く分からなかったという。
そして、この事案が単なる遺体遺棄事件として扱われなかったのは、遺体に灯油がかかっていたせいだ。
大阪府内では三年前の二〇〇七年九月に豊中市で、そして今年三月に大阪市北区で、既に殺害した遺体を遺棄する際に灯油をかけて遺体を焼損させる例があったのだ。この二件と今回の事件はいずれも犯人が未だ捕まっておらず、灯油をかけて遺体を焼くという点以外にも手口も似通っている部分が多いことから、同一犯の可能性が極めて高いと考えられる――
金髪にピアスをした痩せ型の男が写真の中で薄ら笑いを浮かべている。
今回の被害者である村上勇太の顔写真だ。年齢はまだ二十八歳だったという。
その隣には人当たりの良さそうな中年男性の写真。
こちらは豊中市で遺棄された高峰秀之だ。地元の公立高校を出て建設会社に就職し、妻子をもうけて、ごく平凡な生活を送っていた。
北区の事件は身元不明のままである。
永野は黒いハンカチで額の汗を拭ってから、一度大きく息を吐いて再び資料を読み上げ始める。
「さて、手口が似通っているということだが、具体的には次の通りだ。一つ目は殺害及び遺棄方法。身元の割れている二件とも被害者を拉致した後、数日経過してから遺棄している。しかも夜、人気のない場所を選んで遺棄している」
永野はホワイトボードの方に向き直った。
「高峰秀之は資材会社の倉庫で、北区の事件は公衆トイレの個室だった」
重松はメモを取らずに小さく頷きながら聞き入っていた。メモは自分が取らなくても、部下達が取っているだろう。
「豊中の事件では……高峰秀之は仕事から自らの車で帰宅し、自宅マンションの駐車場に車を停めている。よって犯人は駐車場で待ち伏せし、被害者が車から降りたところを拉致したと考えられる。今回の事件は……村上勇太は堺市で一人暮らしをしており、どうやら自宅で拉致されたらしい。発見された遺体にはスタンガンの跡が残っていたから、村上を訪ね、玄関から出たところをいきなり気絶させたと考えられる」
今時はその気になれば何でも手に入る世の中だ。スタンガンくらい容易に入手したことだろう。
重松はこっそりと苦笑していた……
「因みに村上の遺体には首に索条痕があったため、殺害方法は絞殺。村上が消息不明になったのは四日前で、死亡推定時刻もほぼ同時期だった。高峰は遺棄される六日前に消息を絶ち、これも死亡推定時刻とほぼ合致した」
すると、江口が素早く右手を突き上げた。永野は億劫そうに首を捻って江口の方に視線を送り、発言を促した。
「すると、犯人は被害者を拉致した後すぐに殺害しているという事ですね?」
「そうだな。基本的に何日も生かしてはいないのは間違いない」
「では犯人は被害者を監禁したり、生かしたままいたぶる事に重きを置いていた訳ではないのですね? 犯罪嗜好癖による犯行の線は薄いですね」
江口は納得した顔で着席した。この若さで、率先して質問を飛ばせる度胸には重松も舌を巻くしかなかった。
「まぁ、殺しを愉しむタイプでは無さそうだが、遺棄の際に必ず遺体を焼こうとしていることは気にかかる。サイコキラー的な要素がない訳ではないから、視界を狭めないように……」
と、前垣が横槍を入れる。彼も捜査本部副部長として慎重になっているようだ。
「……二つ目だが、さっきの話でも出たが、高峰・村上両名とも堺市に居住していた。だが、遺棄された場所は堺市外の場所である」
――と言っても、堺市は大きな政令指定都市だ。被害者二人の生活圏が全く一緒だった訳ではないだろう。
「三つ目は三件とも被害者の財布が無くなっていたことだ。但し、金目当ての犯行にしては手が混みすぎている上に、高峰・村上共に決して裕福だった訳ではない……。家族や知人の証言でも、財布の中に大金が入っていたとは思えないとのことだ」
すかさず前垣が自分のマイクを取り上げる。
「念のために言っておくが、燃えて焼失した訳ではない。今回の村上の燃やされていない遺体だけでなく、高峰に関しても、彼は金具の付いた財布を所持していたにも関わらず、燃え残った金具部分が発見されていない事から、遺体からは抜かれていたと考えられる」
今度は重松自身が挙手した。のろのろと立ち上がる。
「すんません……財布の事なんですけどね、犯人は被害者の身元を隠したかったんやないんですか? 仏さんを焼いたことも含めて考えたら、まず遺体の指紋とか、DNAとか、そういうとこから身元が割れるのを恐れた。やけどそれだけでは足らんから、財布も抜いた。財布言うたら大抵免許証とか保険証を入れとる人がいますから……」
永野は冷たい目をしたまま、マイクを握った。
「その可能性は真っ先に考えられました。ところが、そもそも何故高峰の身元が割れたかと言うたら、遺体が焼かれた資材会社の倉庫の敷地の中に高峰の免許証が落ちとったんや。恐らく遺体を運ぶ最中に落ちたんやろう……」
重松の関西弁に釣られたのか普段通りの関西弁が混じっている。永野の眼鏡が曇りだしたのが一目瞭然だ。長時間立ち話をして体温が上昇しているのだろう。
「免許証が落ちとった?」
「厳密には免許証が入った小銭入れが落ちとった。家族の話では、彼はいつも免許証は小銭入れに入れてたらしい」
「なるほど、もし犯人が被害者の身元を隠すために財布を抜いてたんやとしたら、その中に免許証が無いことになんかすぐ気ぃ付いて、他を探した筈やのにっちゅう事か……」
半ば独り言のように呟く重松に対し、永野はやや苛立った素振りを見せた。
「質問はそれだけで?」
「ああ、すんません……。そやったら遺体を焼いた理由はどうでしょう?」
「それは身元を隠すため以外には、今の所分かっていない。犯人にとって特別な意味があったのかもしれんし……」
「分かりました。ありがとうございます」
重松が座ると、永野は咳払いを数度してハンカチで脂と汗を拭き取る。
――捜査会議はその後も粛々と進んだが、村上と高峰の二人には面識も無く、堺市居住という事以外に共通点は見当たらなかった。
更に北区の事件に関しても、村上若しくは高峰の交友関係等から被害者の身元を割り出そうとしているが、それらしい人物は現状では浮かんでいないという情報が加わっただけだった……
指揮官である永野は、重松に対し現場の指揮を取ることを命じた。
捜査一課の管理官は複数の事件の指揮を受け持っている。各現場にまで出るのは難しい。すると警視である永野の次に、捜査本部で階級が上なのは警部である重松であるので、必然的にこうなるのだ。
「よっしゃ、皆ちゃんと話は聞いとったな?」
重松は手元の資料に目を落としながら江口、美由希、佐久間の面々を見渡す。
「もちろんですよ。江口君ほど張り切ってなかったけど……」
佐久間が白い歯をみせながら、わざとらしく頭を掻く。
「とりあえず、江口君と勝野君の二人に頼みたい事がある」
「何でしょう?」
「今の所大阪府内での連続殺人っちゅう事になっとるけど、もしかしたら府外でも同じような事件が起こってるかも知れん」
美由希が髪を揺らしながら大きくかぶりを振る。
「今回の三件と似たような手口で遺体を遺棄して焼いた事件を探したら良いんですね?」
「そうや。まず近畿に絞って探してくれ。過去何年か……せやなぁ、五年くらいに遡って」
「分かりました、終われば全国に広げてみます」
「俺は佐久間君と一緒に豊中署まで行ってくる。北区の方は身元が割れてへんから、まず身元の割り出しを他の捜査員に任せとくわ」
美由希と江口は弾かれたように会議室を飛び出して行った。美由希と佐久間を一緒に組ませなかったのは、捜査中に私情が挟まるといけないという重松なりの配慮だった。
「佐久間君、ほんなら行こか。そろそろ道も空きだす頃やろ」
「向こうから捜査本部に来てくれへんのですか? 元々は豊中署に捜査本部があったんでしょ?」
「この捜査本部の設置が決まったんは今朝や。俺も出勤中にこっちに来てくれて電話貰ただけやからな……。せやから、まだ合流出来てないんや」
佐久間は眉間に皺を寄せて苦笑した。事件に関係する所轄の刑事も捜査本部に派遣されるのだが、今回はそれが遅れているという事だ。
「向こうから合流するのを待つより、こっちから迎えに行くつもりですな?」
「そうや、善は急げっちゅうやろ? こっちに向かう車の中で早よ事件の話を聞きたいんや。もうアポは取ったから!」
「もう、警部も何やかんや言うて、江口君以上に張り切ってるやないですか」
その言葉が耳を通り抜けるよりも前に、重松は会議室の扉に向かって足を踏み出している。佐久間も慌てて背中を追っていた。