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灰の中  作者: 茜坂 健
二〇一〇年八月二十日 金曜日 午前
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 宮田修治みやたしゅうじは普段と何ら変わりない手順で、洗面所の鏡の中に映る自分の鏡像と向き合っていた。

 水垢の汚れ一つない、金属特有の光沢を放つ蛇口の、水色の標章で示された側のハンドルを捻る。両手をお椀のようにして水をすくい、溜まった水道水で顔を洗う。その後は歯ブラシを手に歯を磨く。

 小皺の目立つ目尻、やや窪んだ濁った眼球、色の悪い唇で覆われた口の中に歯磨き粉を含んだ容貌は、殺人鬼と言うには余りにも平凡な男の顔だった……

 歯磨きを終えると、キッチンの冷蔵庫からペットボトルの野菜ジュースを取り出してコップに注ぎ、空の胃に一気に流し込む。コップの内側を赤い液体がぎこちなく流れ落ちる。

 昨日の夜に軽く食事を摂って以来の胃への刺激。今まで無意識のどこかに置いておいた空腹感がさざなみのように押し寄せて来た。



 ――昨日、八月十九日。夜十八時頃に自分で湯がいたうどんを食べた。その後にやらなければならない「処理」を見据えて、軽めの食事にしたのだ。

 二十二時頃に全ての準備を完了して自宅を出発した。

 車に積んだのは、まだ数回しか履いていない靴、軍手、小さなショルダーバッグ、ポケットティッシュ、懐中電灯、寝袋……もちろんその中には男の亡骸が収まっている。

 そしてライターと、水筒に入れた灯油――全てを灰に帰すための重要なピースだ。

 泉南市南部の和泉山脈の麓に到着したのは二十二時四十分頃。和泉山脈は高々と聳える山麓ではなく、低い山が連なっている。

 目指したのは泉南クラウンホテルだ。但し、このホテルは既に廃ホテルになっている。近くのゴルフ場が寂れてしまい、その煽りを食った形だったらしいが、宮田にとってそんな事はどうでも良かった。

 ホテルに近付け過ぎると、目撃された時に厄介なことになる……かと言って離れ過ぎると、重い寝袋を長距離に渡って担がなければならなくなる。

 事前に地図を見てある程度シミュレーションしていた適当な所で車を停め、緑の寝袋をトランクから引き摺り出した。死体の無機質な感触が寝袋越しに宮田の腕や肩に伝わってくる。

 体力に自信がある訳ではない。机の前で勉強ばかりしてきたような人生だったからやむを得ないが……

 だが時間をかける訳にはいかなかった。二十三時頃に山麓の廃ホテルに人気ひとけなどある筈はないのだが、だからと言って悠長なことはしていられないのだ。

 懐中電灯で進路を照らしながら、かつてホテルのエントランスであったであろう場所に辿り着くと、宮田は一度寝袋を床に落とした。その行為の意味は、ただ単に疲れたからに過ぎない。

 膝に手をつき、肩で息をすると、空虚な空間に自らの吐息が何倍にも反響しているかのように感じられた。何処からか夏の虫の鳴き声も鼓膜を震わせる。

 夏の夜――それは宮田にとって忌々しい記憶だった。

 何年にも渡ってこのような罪を塗り重ねさせている黒い記憶を振り払うべく、宮田は再び寝袋を担ぎ上げた。

 奥の方にエレベーターホールを見つけた。今は微動だにしない鉄の扉が夜の闇の中で黒々しく並び立っている。

 扉の前で寝袋のファスナーを下ろし、埃の積もった大理石風の床に死体を乱暴に転がした。生気のない蒼白の細面が目の前に横たわる。

 金髪にピアスの今時らしい若者だ。――もはやこれ以上歳を取ることは出来ないが……。タイトめな衣服を着用したその男の躯体の形状が、暗闇に浮かび上がる。見た目以上に小柄な若者だという事が良く分かる。

 宮田は持参したティッシュペーパーを周囲にばら撒き、ショルダーバッグから水筒を取り出した。何の変哲も無い安物だ。灯油を死体にかけるためキャップを外す。ツンと鼻を突く臭いが辺りに漂う。

 そのまま水筒を傾け、転がる死体に灯油を滴らせる……

 水筒の中身を全て――そして特にある部分に入念に――死体にかけ切り、ライターでティッシュペーパーに火を放てば万事予定通りだった。

 しかしエレベーターホールの更に奥に、大きな口を開けた階段の上から、ゆらゆらと灯りが覗いたのだ。それに気付き、作業を中断し物陰に身を隠そうとした……

 だが、それよりも早く階段の下に数人の人影が躍り出たのだ。彼等の内二人が懐中電灯を構えているようだった。

 宮田は犯行が露見する事を恐れた。その時点で半分は覚悟したが、彼等は金切り声を上げて壁際へと後退った。時期が時期だけに宮田にも即座に理解出来た。彼等は廃ホテルに面白半分で肝試しに来たのだ。

 どうやら「処理」中のシルエットを心霊の類だと思って恐れおののいているらしい。

 まだ彼等の持つ灯りは自分を照らしてはいない。彼等が見たのはシルエットに過ぎない。頭の中で様々な行動パターンを逡巡したが、結局すぐに逃亡する事を選択した。

 必死の思いで車まで駆けたが、追っ手は無かった。幸か不幸か、向こうは向こうでこの世の物ではない物を見てしまったと、腰を抜かしているようだった。



 食パンと出来合いのサラダをあらかた食べ終わった頃には、空腹は収まっていた……

 朝からテレビでは『廃ホテルで死体発見!』と大々的に伝えている。肝試しの連中は逃亡した人影に不審感を抱き、辺りを探索した結果、そこに臥せっている死体を発見したらしい。

 逃亡した人物は影しか見えず、特徴も分からなかったとの報道だ。とりあえず昨日のミスで正体が明らかになる事はなかったらしい……

 だが、胸を撫で下ろすという心境にはなれなかった。「処理」をする事が出来なかったからだ。

 眉間を刺すような痛みが襲って来る。黒い記憶を灰に埋める事は出来なかった……

 自分のやっている事は復讐などという高尚な行為でも、正義の鉄槌を下すという廉潔な行為でもない。それは重々承知の上だ。

だが、蘇る黒い記憶を灰の中に葬り去るために、止める事は出来ない。

 宮田の顔に苦悶の色が浮かんだ。

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