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灰の中  作者: 茜坂 健
二〇一〇年八月二十二日 日曜日 午前
18/31

 指定された喫茶店は大通りに面した大きな採光窓があり、心を和ませるような柔らかな陽光が店内を包み込んでいる。

 柴崎が一番奥のテーブルに座っているのを視認し、近付いてきたウェイトレスに対してそのテーブルを指差して示した。

「あの人と待ち合わせをしてるんや。アイスコーヒーを二つ頂戴」

 ぶっきらぼうにそう告げると、他のテーブルには目もくれずに柴崎の向かいに腰を下ろす。美由希もウェイトレスに愛想笑いを投げかけてから、重松の後を追って隣に着席した。

「わざわざすいません」

 腰が低いのは昨日と変わらなかったが、今日は瞳に真っ直ぐな力がこもっている。

 何かを洗いざらい吐き出そうという、一種の決意が読み取れた。取り調べの末に観念した被疑者のそれに酷似している。

 重松は刑事として何度もそのような瞳を見てきたが、あくまでも酷似であって同様でないのは、疲れ切って憔悴していないからだろう。

「警部さんの電話番号は専務に教えてもらいました。専務には名刺を渡しておられたでしょう? 思い出したことがあるから、話をしたいと言って教えてもらったんです」

 自分の電話番号をいかにして入手したかという物語は、重松にとって魅力的な話ではなかった。すぐに本題に入ろうと考えた。

「仕事でこちらへ来ているそうですな?」

「ええ。本当にたまたま、今日大阪に来ることになりまして。これは神の思し召しと言うか……やっぱり嘘はいけないと思いまして」

 今まで取り調べた幾多の被疑者も、これくらい平易に口を割ってくれれば、刑事人生の何パーセントかは楽になっていただろうと、稚拙な発想だと思いつつも考えてしまう。重松は意識を柴崎の話に集中させた。

「嘘をついてはったんですか?」

「ええ……昨日咄嗟に嘘をついてしまいまして。ですけど、その後から罪悪感というか、いけないと思いまして」

「ほんで、その嘘というのは?」

 核心に迫ろうと柴崎の舌の根を掴むほどの気概だったが、アイスコーヒーを運んできたウェイトレスによって、勢いは遮られた。

 もどかしく思いながらも、アイスコーヒーを受け取ると、一口もつけずに柴崎を据えるような目で見つめる。

「……堺市とか橋本市について、何か知ってることはないかと訊かれたでしょう? 橋本市については本当に何も知りません。でも……」

「堺市については何か知ってるんですな?」

 ここにきて柴崎に躊躇いの色が差し込んだが、喉を鳴らして生唾を飲み込むと、意を決したように口を開いた。

「実は矢沢さん、堺市に頻繁に行ってました。大阪市辺りに仕事で行く時には堺市に寄ってたんです」

「寄ってた? また何で?」

 重松は目を丸くした。

「実は矢沢さんは堺市で愛人を作ってたんです。愛人と言っても、身体だけの関係ですけど……」

「それは興味深い話ですなぁ。それまたどういう経緯で?」

「仕事で遠出すると、時間が予定より早く済んだりすることがあるわけです。何年か前に矢沢さんが堺市に仕事で行った時、一時間ほど余裕が出来たもんで、風俗店に入ったらしいんです。夜やったから呼び込みに引っ掛かったとか言ってましたけど……」

 重松の瞼がピクリと震える。だが口は真一文字に結んだままで、柴崎に食いかかろうかというほど前のめりになっている。

「その風俗店の風俗嬢と愛人関係に?」

「矢沢さんがその風俗嬢のことを随分気に入って、大阪市辺りに仕事で行く度に同じ風俗店に行って、指名してたみたいです。そんなことを繰り返してるうちに、お店じゃなくて個人的に会うようになったらしいです」

 柴崎が自分で注文したカフェオレをストローで半分ほど啜る。目一杯入れられた氷同士が荒波に揺られてカラカラと音を鳴らしている。

「と言っても、相手は風俗嬢ですからさっきも言ったように身体だけの関係で、奥さんと別れる気とかも無かったみたいです」

「不倫には変わりないですけどな」

 重松は渋い笑みを浮かべる。しかし柴崎は歯磨きをする時のようにぎこちなく笑っていた。

「ただの不倫じゃなくて、仕事の途中で風俗店に行ってたのが始まりですから、当然会社のお偉いさんには内緒でした。だから昨日言えなかったんです……隣に専務がいましたから」

「ほう。でも矢沢さんは殺されたわけやし、喋ってしもても良かったのに」

「そのことなんですが……矢沢さんだけじゃなくて、他にも矢沢さんにその風俗店を紹介されて、大阪に行った時にこっそり通ってる同僚がいるもんで……」

 全てを察した重松は右手を広げて話の続きを制した。柴崎の顔の前で、手相がはっきりと見えるかというほどの距離に重松の掌が聳え立っている。

「なるほどなるほど、そういうことですか……よう分かりました。別にあの専務さんにチクったりはしません。せやけど、捜査の過程でその情報がマスコミとかに漏れて公になるかもしれへんので、その時は堪忍してください」

「えっ。マスコミに漏れるかもしれないんですか?」

 柴崎は露骨に眉尻を下げて困惑を主張する。

「それほど重要な話やったっちゅうことですわ。柴崎さんは、その風俗店には?」

「言いにくいですけど、僕も行ったことがあります」

「それやったらその風俗店の名前と連絡先、知ってはりますな?」

「名前は覚えてますけど、連絡先は……。ちょっと同僚にメールして訊いてみます」

 柴崎の狼狽の色が激化しているのを見て、重松は妙な罪悪感に捕らわれた。別に柴崎が悪事を働いたわけでもあるまい。そもそも柴崎が既婚者かどうかすら知らない上に、例え既婚者であったとしても不倫は刑事事件ではないし、職務中に風俗店に行ったこともまた然りだ。

「そないに慌てんでええですよ。別にあなたのしたことを私らが非難するつもりはありませんから」

 聞こえていない筈もなかったが、柴崎はずっと俯いたまま携帯電話のメールを打ち込んでいる。ボタンを押す度に奏でられる、軽快な電子音までもが錯乱しているように重松には聞こえた。

 メールを送信し終えると、果てしなく続く無間地獄のような時が暫く刻まれた。一秒が普段の何十倍も遅く感じられた。

 ――ちょうど三人全員の飲み物が無くなった頃、柴崎の携帯電話が震えた。途端に一秒は何十倍も速くなる。

「あっ、メール来ました」

 柴崎が画面を重松に見せると、手帳に番号を殴り書きした。

「柴崎さん、時間はまだ大丈夫ですか?」

「えっ、ええ……まだ余裕はありますけど……」

「ほんならちょっと待っとって下さい」

 重松は美由希に目配せをして、連れ立って店の外に出た。外開きの玄関扉は夏の空気圧に押し負かされたのか、跳ね返すように重く退出に抗っていた。

「勝野君、すぐに江口君に連絡してくれ。風俗店っちゅう言葉聞いた時に、ピーンと来たわ」

「風俗店なら服脱ぎますもんね」

「すぐにその風俗店に向うて、被害者らが来店してなかったか確認してもろてくれ。写真を持ってな。予約の時とかに偽名使う客も多いやろからな」

 多くを語らずとも美由希も同じことを察していた。

 その風俗店に被害者達が来店したことがあれば、間違いなく犯人はその風俗店の関係者に違いない。直接客の裸体を目の当たりにする風俗嬢……もしくは風俗嬢達から話を聞いた経営者や従業員……

 様々な展開が頭の中を駆け巡る。

 美由希が江口に連絡を取り終わるのを重松はラークをふかしながら眺めていた。もう犯人に足枷を掛けた気になっていたのだ。

「警部の仰る通りに指示しました。柴崎さんにはもう帰ってもらいますか?」

「……まぁ一応もうちょっと話しとこか。他にも色んな観点から話聞いた方がええやろう」

 再び玄関扉を開けた時のカウベルの音が心地良かった。

 柴崎は不安そうな面持ちで、こつこつと机を人差し指で叩いている。初対面の頃より小柄になったような気がした。

「すんません、待たせて。もうちょっと話をさせてもろてよろしいですかな?」

「ええ。まだ時間はありますけど……」

 重松は腰掛けると、氷が溶けた水を飲んだ。暑さのせいで少し外に出ただけで喉が水分を欲するのだ。薄いコーヒーの風味が舌の表面に拡がり、鼻を抜けていく。

「堺市の風俗店で作ったっちゅう愛人はどんな人か知っとりますか?」

「さぁ……詳しい事は言ってくれませんでしたから。名前も源氏名ですしね」

「ほんなら、連絡先も知らはらんのですか?」

「ええ」

 柴崎は相変わらず不安そうな面持ちのままだ。

「その店は会員制ですか?」

 この質問には明確な意図があった。

 会員制の店なら、会員証を発行していることが多い。財布に入れていたとしたら、犯人が財布を盗った理由も分かるのだ。

「え? そうですけど」

「せやったら、会員証もあったんちゃいますか?」

 果たして重松が何を探ろうとしているのか、柴崎は解せぬまま、得体の知れないものにはらわたを抉られているような表情を浮かべている。

「会員証は確かにありました」

「矢沢さんはそれを財布に入れとったんとちゃいますか?」

「あぁ、矢沢さんは奥さんにバレたらいけないと言って、会員証は捨てたらしいですよ。身体の関係を持てる相手が出来たから、もうその風俗に通うつもりは無かったらしいです」

 重松の眉間に深い縦皺が走った。

「そしたら、事件当時にはもう財布の中に会員証は入ってなかったんですか?」

「はい、その筈ですけど……」

 重松の怒っていた肩が、空気を抜かれたように萎む。期待外れの答えだった。

「ほんなら領収書とかは?」

「風俗店て領収書は希望しないと渡してきませんからね。奥さんに隠してた矢沢さんが貰ってたとは思いませんけど」

 柴崎の見立ては的を射ている。

 犯人に掛けた足枷が忽ち霧のように消え去ってしまう。財布を遺体から抜いた理由は謎のままだ。

「そうですか……。矢沢さんは堺市で、その風俗以外にどこかに寄っとったとか、そういうことはありませんか?」

「他の所ですか? そうですねぇ……別に毎回寄ってた所はありませんよ」

「毎回やのうても構いません。一度だけでもどこかに寄ったとか、誰かと会うたとか」

 重松は藁をも掴む思いだった。対する柴崎は目を泳がせて記憶の糸を手繰り寄せている。目の焦点が定まった時、徐に口を開く。

「そういえば……一回病院に行ったとか」

「病院?」

 重松は隣の美由希の顔色を伺った。美由希は口を半開きにして、鋭い目で重松を見返す。

「矢沢さんは堺市で病院に行ったことがあるんですか?」

「愛人と身体を交えて、腰を痛めたことがあったんです」

 柴崎は目を細めて苦笑する。今日初めて、柴崎の人間らしい笑顔を見た気がした。

「腰を痛めて、病院に行ったんですな?」

「ええ。仕事中の怪我なら、会社に言えば保険が下りるかもしれないですが、いかんせん仕事の合間に不倫してたせいでの怪我ですからね。自費で治療費を払ったらしいので、専務は当然知りません」

 もう一度美由希の方を見やると、美由希の頬は紅潮して冬の朝の少女のようだった。

 美由希も自分と同じ推測を脳内で繰り広げていると、重松は確信した。

「その病院はなんちゅう病院か分かりますか?」

「いやぁ……病院の名前までは……。まぁ腰を痛めたわけですから、整形外科あたりだとは思いますけど」

「堺市の整形外科か……」

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