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灰の中  作者: 茜坂 健
二〇一〇年八月二十一日 土曜日
15/31

 あの男の太腿には確かに漆黒の刻印が刻まれていた――

 ベットに大の字に寝転がった宮田の脳裏に、消えることのない黒い記憶がフラッシュバックする。宮田は誰もいない部屋の中で獣の咆哮をあげていた。



 一九七二年。宮田修治はまだ六歳だった。

 父親は修治が産まれてすぐに癌に侵されて命を落としたという。決して裕福でない母子家庭であったが、母はいつも修治に対し、持てる限りの愛情をかけてくれていた。

 物心がついた頃には父親がおらず、祖父母や親戚も遠くに住んでいた。そんな環境の中で育った修治にとって、母はただ一人の肉親と言っても良かった。

 大阪市東住吉区。近鉄針中野駅近くの古びた平屋が修治の育った家だった。

 当時も今も、あの界隈は低層の民家が点描画のように密に建ち並び、雑多で込み入った下町である。

 夏の蒸し暑い夜だった。数日後には近所で夏祭りが控えているということで、いつもは空虚な街並みも、どこか賑やかしい雰囲気をまとっていた。

 夏だというのに白くかさついて皮が硬くなっていた母の右手が、小さな修治の左手を包み込む。修治の掌は夜気の湿り気をそのまま閉じ込めたように汗ばんでいた。

 夕食時、西の空が茜に染まりきった頃、母と二人で近所の青果店へと野菜を買いに出かけた。母は夕食のそうめんを少しでも豪華にしようと、きゅうりの細切りやトマトを添えて冷やし中華風にしようと考えたのだ。

 目当ての品を購入し、帰路に着く二人は夏祭りの話ばかり延々と繰り返していた――少なくとも当時六歳だった修治には、その時間が無限に続くほどに長く感じていた。

「――今年はこんだけ暑いから、金魚すくいの金魚さんもバテてるかもなぁ」

 記憶の中で最期に残っている母の声は、そんな些細なことを話していた。

 いつの間にか日は沈み、街灯もない静かで簡素な道路は手探りで進まねばならぬほど闇に支配されていた。

 道路の左側を並んで歩いていた二人の脇を、埃を被った白いライトバンが通り過ぎようとした。だが、そのライトバンは一向に速度を上げず、喧しいエンジン音が修治の鼓膜を劈く。

「えっ!」

 修治が驚嘆の声を上げた。当然まだ声変わりもしていない青くさい一声だった。

 修治の瞳に映ったのは、ライトバンの助手席のドアが開き、恰幅の良い色黒の男が母の細腕を掴み上げている光景だった。

 母は顔を歪めながら足をばたつかせて抗っていたものの、運転席からもう一本の腕が伸びている。熊の脚のように毛深い腕だった。

「おい、黙れ。声を出すな」

 その男の低い声は重機の振動音を思わせた。母の口元は手で覆われている。

 目の前で確かに起こっている出来事が、すぐには飲み込めなかった。ただ身を屈めて震えていると、助手席の男が修治の小さな身体をいとも簡単に持ち上げた。

 母の身体はライトバンの後部座席に放り出された。修治はそれを助手席に押さえつけられた状態で眺めているしかなかった。岩壁のような大男に完全に身動きを封じられていたのだ。

 ――運転席の男は母の身ぐるみを剥がしていく。母は相変わらず口を塞がれているために声を発することも出来ないようだったが、その頬を涙が伝っていることは間違いなかった。

 なんせ暑い夏だ。軽装だったことが災いして、すぐに大部分の肌を露出されられていた。もちろん局部もだ。

 母の裸体は毎日のように風呂で見ていたとはいえ、見知らぬ男に無理くり剥がされたその白い肌や黒く茂る陰毛は、異質なものに映った。

 修治もまた溢れ出る涙を止めることは出来なかった。

 六歳の少年にとって、レイプという行為がどのような意味を持つのかなど正確に認識出来る筈は無かったが、ほんの数センチ前で繰り広げられている光景が、母や自分自身にとって悪夢の光景であることだけは心臓をチクチクと刺すような痛みで分かったのだ。

 母の身体を撫で回した男は、自らの腰のベルトを緩め始めた。その間も空いた片方の手で乳房をまさぐられていた。

 男がズボンを下ろした時、筋肉の盛り上がった太腿に刻まれていた真っ黒な入れ墨が修治の目に焼き付いた。

 その男が母を姦淫し終わると、修治を押さえ付けていた男と交代しようとした――だがその時、母はほんの僅かに残されていた体力を振り絞り、我が子を守ろうとしたのだ。

 男が助手席にのしかかろうとしたタイミングで、母は男の腕にしがみついた。子供だけは無事に還してくれ――もはや言葉も発せない母の赤く腫れ上がった目がそう訴えていた。

 しがみつかれたせいで、男の上体が一瞬後ろに仰け反った。しかしその刹那、鈍い音と短い悲鳴が車内に響いた。

 もう一人の男が母の頬を殴り飛ばしたのだ。後部座席のシートが軋む音と共に、細い身体は無抵抗となる。もう抗う力など残っていなかったようだ。

 にも関わらず男は何度も執拗に殴り続けた。自らの力を誇示するかのように……その男には腰に入れ墨が入っていた。

 ――その後繰り広げられた惨劇は地獄絵図のようだった。最終的に母と修治は車内から放り出され、走り去っていくライトバンを追うことも出来なかった。

 恥部を晒け出し、もう虫の息となっている母をその場に置いて修治は自宅まで駆けた。

 携帯電話など無い当時、救急車や警察を呼ぼうにも自宅の電話まで走らなければどうにもならなかった。すぐ近くの民家の人に助けを求めればともよぎったが、ボロボロになった母を誰にも見られたくはなかったのだ。



 それからというもの、宮田の人生は針の筵で転がるような苦痛に満ちていた。

 何発も顔面を殴打された母は病院に運ばれた頃にはもう手遅れだった。青と赤に染まった母の顔は見るに耐えない物になっており、あの日の病院の鼻を突く薬品の匂いと冷たい床の色を宮田は今でも克明に記憶している。

 それから暫くの間、東住吉署の刑事達から何度も何度も話を聞かれたが、男達の顔は印象に残っていなかった。

 ただ、一人は太腿に、もう一人は腰に入れ墨があったことだけは、何度も彼らに訴えた。刑事達は哀れみと同情の目を向けてはくれたが犯人を突き止めてはくれなかった。

 育ての母を亡くした宮田は三重の名張の祖父母に引き取られた。既に還暦が近かった祖父母も宮田のことをそれこそ寿命をすり減らしてでも養ってくれた。

 だが宮田にとって母に代わる愛情というものは存在しない。待っていたのは抜け殻のような思春期。レイプという行為の意味を知れば知るほど魂が搾り取られるようだった。

 あれから三十八年の時が過ぎ、母を殺した男達に法の鉄槌を下すことはもはや不可能だ。

 針中野で近所に住んでいた人達も、当時の学校の友達も、東住吉署の刑事達も、あの事件のことなど誰も覚えていまい。この世でただ一人、自分だけが黒い記憶に苦しめられている……

「ううっ……」

 胸を抉られるような吐き気に襲われる。近くに置いてあったペットボトルの水を喉を鳴らして飲み込んだ。

 本当に誰も覚えていないのだろうか……

 宮田の脳裏に一人の刑事の顔が浮かび上がった。東住吉署の刑事の内、最も若かった男だ。

 確か名前は根本ねもとと言った。彼は特に自分に慈悲をかけてくれた。時には彼一人で名張まで会いに来てくれたこともあった。

 何故彼がそこまであの事件に入れ込んでいたのか? 宮田はその理由は訊かなかったが、時折彼の顔を思い出すのだ。

 宮田の心が言いようのない郷愁に覆われる。何故か根本を思い出す度、黒い記憶が少し晴れるのだ。

 宮田はペットボトルの底に残った水を一気に飲み干した。

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