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見た目は土壁塗りで二階建てのどこにでもありそうな民家だった。
大通りから一本奥まった所で、同様の見た目の一軒家が五件ほど並んでいる。
矢沢と彫られた表札を確認してから美由希がチャイムを鳴らした。
既に二時半を回っていたが、この世界全体が蒸し上げられているような熱気が、空から地から身を蝕む。土曜日の昼下がりなら、連絡無しで訪ねても在宅しているだろうと踏んでいた。
その予想が裏切られることはなかった。インターホンに備え付けられたスピーカーから機械越しでくぐもった女性の声が聞こえた。
「あ、突然申し訳ありません。大阪府警の勝野と言います……」
美由希が素性と用件を伝えると、スピーカーが切れた。慌ただしく玄関に向かうスリッパの音が聞こえてくるようだった。
玄関扉が開くと夫人は眉をひそめて怪訝そうにしている。内側のドアチェーンは繋がったままだ。重松は苦笑した。
「どうも、我々はこういう者です。大阪から来ました」
重松が警察手帳を開く。美由希も倣って警察手帳を掲げている。
「本当に?」
「ええ……驚かれるのも分かります。何で今更、しかも大阪府警が? っちゅうとこでしょ?」
「はぁ……まぁ」
「実は大阪で保さんと同じ様な殺され方された人がたくさんおりまして、保さんも同じ犯人に殺されたかもしれへんっちゅうことで捜査してます」
話の内容か、それとも重松の関西弁か、夫人はまだ懐疑の念を捨ててはいないようだが、それでも硬い作り笑いを浮かべてドアを開けた。
彼女は真須美という名前だと教えてくれた。
「大阪の事件って、もしかして今ニュースでやってる事件ですか?」
「そうです。拉致して殺した後、遺棄して遺体を燃やすっちゅう事件です」
「ああ、そうなんですか……。ニュースを見て、夫と似たようなことされてるなって思ってたんですけど」
真須美が口を開く度に、彫刻刀で刻まれたようにはっきりしたほうれい線が強調される。
「似たような手口ですから、我々としても同一犯やと思うてます。そこでなんぼか話を聞かせて欲しいんですけどね……」
「構いませんよ。でも、特に取り立てて話すことはもう……」
「いやいや、何も真新しいことを教えてくれと言うてる訳やありません。旦那さんのことを何でも、どんな些細なことでもええから教えて欲しいだけです」
「どんなことでもって、例えばどういうことをお話ししたらいいんでしょう?」
きつめのパーマがかかった黒髪の真須美は、どこかサバサバとしている印象だった。
「そうですなぁ。そしたらずばり、旦那さんの性格はどんな感じでしたか?」
「性格はとにかく平凡て感じでしたねぇ……。尖ったところもなく、クセのない性格って言ったらいいんでしょうか」
重松の隣では美由希が熱心にペンを走らせてメモを取っている。
「尖ったところもなくっちゅうことは、真面目で優等生タイプやったと考えてよろしいんですか?」
「優等生タイプか……。そういう言い方やとちょっと違うかもしれません」
「というと?」
「トラックの運転手って割とこう……悪そうな人も多いじゃないですか? いかついというか、ガラの悪いというか」
先程柴崎に会ったばかりとはいえ、トラックの運転手という人種は重松にとって特別馴染み深い訳でもなかった。時折捜査の中でそういった人物に聞き込みをすることもある。皆がそういう訳でもないが、確かに一部ではそのような傾向はあるのかもしれない、と内心で思っていた。
「確かにそうかもしれませんな」
「そういう中で溶け込んで普通になるっていうか……分かりますか? 言ってること?」
「はあはあ、何となく分かりますわ。偏差値の低い荒れた高校やと、さすがに飲酒とか喫煙とかしたら不良やとレッテルを貼られるやろうけど、授業中静かにせんことぐらいでは不真面目とも思われへんって感じですな?」
重松は我ながら的を射た素晴らしい喩えだと内心ほくそ笑んでいた。
「そんな感じだと思います……」
「ちょっとやんちゃな感じですな」
「良かったら夫の写真でもお見せしましょうか?」
顔色を伺うように上目遣いで真須美が訊いた。
「ああ、そうですな。見せてもらえますか?」
真須美は玄関から一旦姿を消した。軒下でも夏の暑さは和らぐことはない。重松はハンカチで額や首の汗を拭った。
数分経過してから、扉が開いた。今度はドアチェーンは掛けられていない。
真須美が持って来た小さな木目調の額に入った写真には、真須美と坊主頭で黒く日に焼けた少年、そして両耳の上を短く刈り込んだ髪型でスポーツ用と見られるサングラスをかけた中年の男――矢沢保が写っていた。大きなグラウンドを背景に、少年が泥まみれの野球のユニフォームを着ていることから、差し詰め野球部の息子の試合後に撮った記念写真だろうと予測がついた。
「これはいつ頃の写真ですか?」
「亡くなる一年前です。息子が中学校で硬式野球のクラブチームに入りましたんで、夫と一緒に練習試合を観に行ったんです」
矢沢はいかにもスポーティーで活動的な印象だった。当時の年齢は五十一歳の筈だったがもっと若く見える。
「他にも何枚か持って来ました……」
真須美が数枚の裸の写真をトランプの手札のように扇状に広げて重松の胸の前に差し出した。
「ああ、すんません」
右手で手刀を切って受け取る。一枚ずつ軽く流すように見ていった。印象はどれも同じだった。
礼を言って返そうとした時、最後の一枚が重松の目にとまった。
それは矢沢が長短様々な材木を前に、捻ったタオルを頭に巻いて日曜大工に励んでいる写真だった。今日と同じような、炎天下の夏の日に撮られたらしく、矢沢は真っ黒なランニングシャツに迷彩柄の半ズボンで作業している。
「ん? ちょっと待って下さい……」
重松はその写真に顔を限りなく近付けた。そんな様子を真須美や美由希が目を点にして傍観している。
「勝野君、これ。この腰の所をよう見てくれ」
重松が指差したのは、カメラの反対側を向いて屈み込む矢沢の腰の背中側。ちょうどズボンのベルトの辺りだった。
屈み込んでいるためにシャツの裾が捲れ上がって肌が露出している。
「んん? あっ、何か黒いシミみたいな物がズボンから……」
食い入るような美由希に重松は不敵に見える笑みを見せた。
「それは入れ墨や」
「入れ墨? それって、確か村上にも……」
「そうや。村上の太腿には龍の入れ墨があったって、最初の捜査会議で聞いたやろ?」
何が起こっているのか飲み込めていない真須美は重松と美由希の顔を交互に見回した。
「奥さん、旦那さんは腰のこの部分に入れ墨を入れとったんやないですか?」
重松は真須美に背中を向け、腰の辺りを指差した。
「え、ええ。かなり昔に入れたみたいですけど、確かにありました」
大きな稲妻が脳天に落ちたような手応えが身体を走り抜けた。
ガラの悪い武原は入れ墨があっても無理はない。
高峰に関して重松は剽軽で悪ノリをするタイプだとイメージを持っていた。しかも彼は海外によく行くという。海外ならタトゥーを入れてくれる店も珍しくはない。
アルバムに収録されていた写真。高峰は個室に付いているタイプの風呂にばかり入っていた。そう、タトゥーが入っているから公衆浴場には行かなかったのだ。
「入れ墨の柄はどんなんでしたか?」
「ドクロマークみたいな、骸骨の絵でした。と言っても、小さい物だったから普通にしてればズボンに隠れて全く見えませんでしたけど」
「柄は重要ちゃうっちゅうことか……」
重松は写真を真須美に押し付けるように返すと、すぐに不器用な手つきで携帯電話を取り出した。
羅列された名前の一つを消すと、江口は小さく息を吐いた。ちょうど目に入った自動販売機でペットボトルの麦茶を購入しようと、小銭入れから数枚の小銭をその機械に飲み込ませた。しかしながら、目当ての麦茶のボタンに「売切」の文字が表示される。
やむを得ず同じメーカーの緑茶のボタンを押すと、呆気なく商品が吐き出された。江口は一息で半分近くを飲み干した。
蓋を閉めるている最中に、ポケットの中の携帯電話が鳴った。江口はペットボトルを小脇に抱えて電話に出る。
「もしもし……ああ、警部ですか。はい、はい……ええっ! 共通点が分かった?」
脇に抱えたペットボトルは、既に露をふんだんにまとっている。水色の半袖シャツの袖口が水分を含み出したが、江口はそのことに一切気付かなかった。
通話が終わると江口は小走りに駆け出した。向かった先は二瓶典和の住んでいたというアパートだった。
――山梨の矢沢の自宅で妻から見せてもらった写真から、彼の腰に入れ墨が入っていたという事実が判明した。
その後武原の友人に尋ねると、武原にも太腿の裏側に入れ墨があったと言うのだ。
さらに高峰の妻に確認したところ、やはり高峰秀之にも入れ墨があったという。
彼は海外旅行に行った際、タトゥーショップで腰の辺りにタトゥーを入れてもらったのだという。妻はいい歳をしてタトゥーなどを身体に刻んだ夫のことを恥ずかしく思い、余り口にしなかったのだという……
一方で村上・高峰・武原・矢沢の四人はいずれも入れ墨を入れていたが、その柄はまちまちで共通していなかった。だが入れていた場所はみな腰から太腿にかけてであり、皆それを隠して生活していた。犯人が拘ったのは柄ではなく場所や、それを隠しているということだったのだろう。
このような重松からの連絡を受け、江口の脳裏に真っ先に浮かんだのは今日の午前中に当たった二瓶だった。
耳障りな甲高い音を立てながら階段を登ると、同じようにチャイムを鳴らした。
女は再び現れた江口の顔を見るなり、唇を突き出して不満げな表情を浮かべる。
「何? また来たの?」
「一つだけ聞きたいことがあるんです」
「なら早くしてもらえる? さっき夜の仕事してるって言ったやろ? もうすぐ支度せなあかんから」
そう言われるまで江口はもう四時前になっていることに気付かなかった。
「典和さんはロックバンドが好きって言うてましたよね?」
「うん、さっき見せたやろ?」
江口は二瓶の人となりを聞く中で、彼が所謂ビジュアル系のロックバンドのファンだったと言う事実を知ったのだ。その時女に見せてもらったのが、二瓶が集めていた件のロックバンドのポスターや卓上カレンダーだった。
江口が思い出したのは、そのロックバンドのメンバーの腕に入れ墨が入っていたことだった。二の腕をくるりと腕輪のように黒いラインと英字で彩っていたのだ。
「あのロックバンド、腕に入れ墨が入ってましたけど、もしかして典和さんも?」
「入れ墨? ああ、あったあった。あのバンドの真似やろ」
女はくだらなそうに肉に囲まれた細い目で自分の爪を眺めている。
「どこに入れてました?」
「太腿」
極めて端的な回答だったが、それで十分だった。
「そうですか……捜索願出した時にそういう身体的特徴も訊かれませんでした?」
「ん? ああ、でも身長とか髪型とかしか思いつかんかったから」
この女は二瓶を本気で見つけて欲しいなどと思っていなかったらしい。
午前中に来た時に聞いた話によれば、二人が同棲を始めた頃からこの二人の稼ぎの中心は女の方だったと言う。二瓶が居なくなり女は捜索願を出したが、見つからないならそれで構わないと思っていたと真顔で語っていた。女にとって二瓶はその程度の男だったのだろうが、もっと真摯に捜そうとしてくれていれば、入れ墨の情報は早くに浮かび上がっていたかもしれない。
二瓶が恐らく殺されているであろうと伝えても、女は外国のニュースでも聞くように無頓着だった……