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灰の中  作者: 茜坂 健
二〇一〇年八月二十一日 土曜日
11/31

「あー、苦い。目覚ましにはちょうどええ苦さや」

「佐久間さん、何ですかそれ? 嫌味ですか?」

「そんなことあらへん。江口っちゃんの淹れてくれるコーヒーは朝一にはぴったりや」

 江口が唇を尖らせながら自分のコーヒーにミルクとスティックシュガーを注ぎ、スプーンでかき混ぜる。土曜日の朝だけあって、大阪府警本部の庁舎内も閑散とした独特の雰囲気が漂っている。

「江口君、俺にもコーヒー淹れてくれへんか?」

 重松が部屋に入るなり、右手を挙げて注文する。江口は二つ返事で新しいカップにコーヒーを淹れ始めた。

「土曜やったら電車が空いてて楽やわ。空調も快適やし」

 重松が目を細めて笑いながら自分の席にどっかりと腰掛ける。

「そもそも土日に馬車馬のように働かんで済む方が楽やと思いますけどね」

 と、佐久間が後頭部を掻きむしりながらコーヒーを啜る。細かなフケが宙を舞う。

「それは刑事である俺らには無理な話やで。何なら佐久間君を総務部にでも推薦しとこか?」

「よして下さいよ、警部。僕にはちまちました事務より、ホシを追うてる方が性に合うてます」

 重松は軽口を叩きながら、美由希の姿が見えないことに気付いた。

「あれ? 勝野君は?」

「勝野さんなら早出で調べてますよ、類似の事件」

 江口がコーヒーを重松に出した。湯気がまとわりついてくる。

 重松は時計に目をやった。当然、針は重松の認識と大差ない時間を指している。

「こんな早うにか……。頑張るなぁ」

「そらそうでしょう。昨日も散々テレビで言うてましたよ。『何故今になってようやく連続殺人だと判明したのか?』とか、『殺人鬼を野放しにしていた警察の責任は重い』とか……」

「あんまりテレビとか見ん方がええで江口君。見たって叩かれてるだけやから」

 江口が眉尻や目尻を下げて、悲哀のこもった笑いを作った。その表情も様になっている。

 まだ熱いコーヒーを音を立てて啜っているうちに、他の捜査員も次第に集まって来た。重松は既に今日が土曜日だということは忘れていた。

 ――この日もまずは指揮官である永野が現れ、朝の会議を行った。と言っても、実際は重松の指揮の下で捜査を進めることを確認しただけだ。

 それを受けて重松が捜査員達に指示をしようとしたまさにその時、会議室の扉が乱暴に開かれた。

「あ、すいません!」

 血相を変えてそこに現れたのは美由希だ。余り眠っていないのか目の下に隈が浮かんでいる。

「会議中に失礼します」

「勝野君、わざわざ会議に顔を出してくれんでも、作業に集中してくれて良かったのに」

「いや、見つかったんです。山梨で」

「え? 山梨?」

 重松は一瞬美由希が何を言っているのか分からなかった。山梨という単語は徐々に唾液とともに飲み込めてきた。

「……同じような事件が山梨でも起こってたんか?」

「そうです。三年前に甲府市の児童公園で遺体が燃やされる事件が起こってました。拉致後数日経って遺棄されたのも、灯油をかけられて燃やされたのも、一致します。しかも身元は割れてます」

 重松の視界の端に永野の肥えた巨体が映り込んだ。永野が美由希の元に駆け寄ったのだ。

「それは間違いないんやな」

 後ろで見ていた重松にも永野の荒い鼻息が聞こえてきそうだった。

「はい。山梨県警に連絡を取って確認しましたから」

「よーし、重松、聞いたな? それも今回の連続殺人の一つと見て間違いないやろ」

「はい、管理官。ほんなら、今からやる事を指示するからよう聞いといてくれ」

 重松は仕切り直しとばかりに捜査員達を見回した。たった今新たな情報が入ってきたばかりで、彼らは昂ぶっているようだ。

「俺と勝野君で山梨まで行ってくる。その間、江口君始め昨日堺の警察署に行った面子で、リストアップした人物の中から一連の事件の被害者になっていると考えられる人物を洗い出してくれ」

 その他も基本的には昨日同様だった。鈴木と前嶋には高峰の周辺の聞き込みの継続を命じ、その他の捜査員に武原や村上の周辺の聞き込みを指示した。

「最後に佐久間君やけど、勝野君の作業を引き継いで調べてくれ。ノウハウは勝野君から教えてもろたらええ」

 美由希はすぐに佐久間に指南を始めた。捜査員達も散り散りに会議室から飛び出して行く。

 永野は餌を平らげた後の猪のように満足げな表情をしている。

 佐久間が部屋を出ると、会議室には永野、美由希、重松の三人になった。

「重松、勝野、しっかりやれよ。ただでさえ世間から便所のハエみたいに叩かれとんのやから」

「ええ、もちろん」

 永野が部屋を出て行くと重松はホワイトボードに歩み寄った。

「山梨に行く前に、聞いとかんなあかんなぁ……。その事件が発生したのは三年前のいつや?」

「はい。二〇〇七年の十一月です」

「ちゅうことは、高峰秀之の二ヶ月後か……」

 ホワイトボードのマーカーを取り上げると、二〇〇七・九と書かれた左隣に筆を入れ始めた。ペン先が動くのに合わせて、静寂が支配する部屋の中に摩擦音が鳴り響く。重松はこの音があまり好きではなかった。

「身元も割れてる言うたな?」

「はい。名前は矢沢保やざわたもつ。歳は五十二歳で、甲府市内に在住してました」

「そうか……甲府に住んでた男が甲府で遺棄されたんか。そんな事件が大阪府警で浮かび上がるとはなぁ」

「でも、非常に似てます。児童公園言うても夜遅くで、人気のないトイレの裏で遺棄されたので目撃者は無し。灯油のせいで骨が灰になるほど燃えたらしいです」

「それでも身元が割れたんやろ?」

「どうも所持品から分かったらしいですけど、そこまでは訊けてません。今から行って詳しく訊きましょう……。後、財布です」

 重松の目がカッと見開かれた。

「やっぱり財布が盗られてたんか?」

「そうみたいです。まぁこれに関しては燃えて消失しただけやとも考えられてて、当時の捜査もそこから意見が分かれてたみたいですけど……」

「いや、この流れからしたら盗られとったと見て間違いないやろう」

 美由希が口を真一文字に結んで、首を縦に振っている。右手でメモを取った手帳をパタリと閉じた。

「よっしゃ、ほんなら行こか、山梨まで長旅やけど」

「総務に行って車借りてきます」

 と、言い残し美由希がいなくなると重松はラークを咥えた。

 目を瞑って一度大きく吸い込む。吐き出す時に瞼を上げると、ホワイトボードに並んだ八つの日時が目に入った。

 二〇〇六年九月から二〇一〇年八月までの四年に渡る歳月がその白い長方形の枠の中に収まっていた。

 四年前から燻り始めたどす黒い煙が次第に紅蓮の業火へと姿を変え、揺らめき拡がりながら辺りを灰で埋めて行く。そんなイメージが脳内を占拠した。

 重松は短くなった煙草の先端が鼠色の灰へと変容していく様をじっくりと眺めていた。

「――これ以上人間を灰にはさせん」

 いつも持ち歩いている携帯灰皿の中で吸い殻をすり潰した。



 美由希のハンドルさばきは滑らかで乗り心地が良かった。一昔前なら免許を持っている女性というのはそこまで多くなかったが、今は多くの女性が車を運転するようになった。

 重松にとっては、そのようなことを考え耽っている自分が昭和の置物のように感じられた。

「せやけど、山梨まで五時間半か……。着く頃には昼過ぎるなぁ」

「そうですね。向こうで話聞いて帰って来たら夜ですよ」

 往復で約十一時間かけて出向くだけの価値ある話を聞ければそれで構わない……。眉間に皺を寄せながらも重松はそう考えていた。



 江口は堺市北区の金岡という地域を歩いていた。日差しに照らされたアスファルトの熱が、革靴越しに足の裏に伝わってくるようだった。

 昨日リストアップした「被害者候補」の中からそれらしい人物を洗い出す作業には六人の人員が割かれている。昨日は個別行動などしなかったが、今日は最初からそれぞれ一人で行動している。

 最年少の江口自身が提案してそうすることになったのだ。

 理由はただ一つ、少しでも時間を無駄にしたくないからだ。単純明快だが、だからこそ勇気のいる決断だった。通常このような現場での捜査は複数人の組になってするものだ。歳上の刑事達が賛同してくれたのも、皆同じ思いを抱いていたからだろう。――今朝美由希が必死の剣幕で山梨の件を見つけた時の様子が、江口を始め皆の心に火を点けたと言っても過言ではなかった。

 美由希の他人に対してストレートに伝わってくる感情表現が、一役買っていた。

「ええと……」

 江口は今年三月に大阪市北区の公衆トイレで遺棄された遺体の身元の割り出しを担当していた。

 黒革の手帳には数人の人物の名前がしたためられている。その中で一番上に挙げられた名前は横線を引いて消されている。今日一番最初に当たった人物だったが空振りだった。その人物は遺棄の四日前に捜索願が出されていた男だった。

 調べてみれば捜索願を出した家族が理由を知っていたのだ。息子は交際相手との結婚を何度も反対され、最終的に家出をしたのだ。要するに駆け落ちだ。家族はそのことは知っていたが、話すと警察が真剣に捜してくれないと思い隠していたのだという。

 今ワイドショーを賑わせている連続殺人の被害者の候補だと話せば、露骨に狼狽しながら、実は駆け落ちだったと話してくれた。

 二番目の人物の名前は消していないが、捜索願を出した唯一の家族が病気で死亡しており、そもそも関係者と連絡を取れなかった。

 時刻はもう午前十一時を回っている。このような空振りが続くのではないか……という不安もあるにはあったが、そんな事をいくら考えても捜査は進展しない。江口は不安を振り払ってこの金岡に来ていた。

二瓶典和にへいのりかずか……」

 江口が呟いたのは三番目にリストアップされた男の名だった。情報は限られているが、分かっていることは三十七歳で独身であり、捜索願を出したのは当時同居していた女だったということ。そして住所はここ金岡だった。

 大きな公園の雑多な緑を横目に見ながら国道を東向きに歩む。真正面の位置に鉄道の高架が見えた。

 地図で住所を確認しながら辿り着いたのが、見るからに築年数の嵩んでいそうな二階建てのアパートだった。同居人だった女が移り住んでいなかったら、今もここに住んでいる筈だ。

 実は江口は少し期待をしていた――この金岡という地域は高峰の住んでいた浅香や村上の住んでいた中百舌鳥と距離的に近い所に位置しているのだ。

 メモによれば二瓶の部屋は二階の角部屋だった。赤茶色に錆び付いた階段を登り、一番奥の部屋へ行くと表札は出ていない。しかし、郵便ポストに今日の新聞の朝刊が届いていることから、この部屋に住人はいるようだ。江口はチャイムを鳴らした。

 扉の向こうから重そうな足音が近付いて来ると、暫く間があってから鍵が開けられた。

「はい?」

「朝からすいません。大阪府警の者です」

 頬に小さなニキビが目立つ小太りの女は江口が提示した警察手帳を訝しげに眺めた。

「警察? もしかして典和のこと?」

 女は肉つきの良い指で、薄茶色に染めたロングヘアーを溶かしながら尋ねた。

 二瓶と同居していたという事は、そういった関係だった筈だがその割には女は若く見えた。化粧を全くしていないからかもしれない。

「ええ。実は二瓶典和さんが、連続殺人事件の被害者になっているかもしれないんです」

 女は大して驚きを見せず、野良猫のように気怠そうなあくびをした。

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