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満員電車の人いきれをかいくぐるうちに、重松猛男の寝ぼけ眼はすっかり覚醒していた。
大阪市営地下鉄の谷町四丁目。構内を人波に乗りながら暫く歩み、地上に出る。四方から身体を圧迫するような、夏の朝特有の空気を纏いつつ、大阪府警本部の建物が今日も確かに聳えている。
その佇まいも、齢四十六になる重松にとっては、既に見慣れたコンクリートの塊に過ぎなかった。
まだ仕事場に辿り着いてすらいないにも関わらず、ストライプのシャツの首元に汗が滲んでいる。
痩身の重松は襟と首回りの隙間からハンカチを突っ込み、汗を拭う。次いで額の汗も同様に拭い、薄くなりつつある頭頂部は軽く触れるだけしておく。激しく擦るとせっかく撫でつけた頭髪が乱れてしまうからだ。
府警本部の廊下にも熱を持った空気が淀んでいる。ついつい目的地へ向かう足取りが早まるのが分かった。
『大阪府内連続殺人遺棄・遺体焼損事件捜査本部』と書かれた仰々しい看板が掲げられた部屋から、見覚えのないスーツ姿の男が出て来て、重松とすれ違う。恐らく所轄から派遣された捜査員だろう。重松がその部屋のドアノブを捻ると、既に十人程の人員が集められていた。
一歩足を踏み入れようとした矢先に、一人の男と目が合った。
「重松警部、おはようございます。コーヒー淹れますわ」
「ああ、すまんな」
やや小太り気味でスポーツ刈りの佐久間耕平が、のんびりした足取りで真新しいポットの元へと歩を進める。重松の所属する捜査一課強行犯三係に設置されたポットは、湯を排出する度に壊れてしまいそうなほど年季が入っているが、この部屋の物は最近新調されたのだろう。
だが特別コーヒー通でもない重松にとっては、羨ましいとかそういった類の感情は湧いてこない。
「えらい厄介そうな事件が起こりましたねぇ」
佐久間は適当な長机に腰を下ろした重松の前に、コーヒーを差し出す。漆黒の液体は蛍光灯の安っぽい光を反射している。
「そうやなぁ。連続殺人ちゃうかってことで、マスコミも騒いどるで。二件目の時は身元が割れんって事ですぐに熱が冷めたのに……」
「しゃあないですよ。身元が分からんだら報道のしようもありませんし……」
佐久間は重松の向かいの席に腰を下ろし、無精髭が目立つ顎を動かして自分の分のコーヒーを一口啜った。
「身元が分かってても、犯人が突き止められへんだらすぐに報道は止みますよ。新しいニュースは次々に出て来るし……おはようございます」
「勝野君か。おはよう」
グレーのパンツスーツに襟の大きな白いシャツの勝野美由希が重松の隣の椅子をやや乱雑に引いて、腰掛けた。二十八歳だが色白の顔には化粧っ気がなく、ショートボブの髪型と相まって幼げな印象を受ける。
自分の隣に座った美由希をさり気なく一瞥した佐久間が、そわそわしているのを重松は見逃さなかった。
佐久間が密かに美由希に想いを寄せていることを、重松はとうの昔から勘付いている。佐久間も二十七歳と一つ下なだけだから、お似合いではあるが、部下のプライベートには干渉しないようにしているのだ。
「でっかいヤマになりそうやなぁ……」
重松は側頭部を大袈裟に掻きむしった。頭頂部と違って、まだ毛髪が豊富に茂っているからこちらは安心だ。
眉間に皺を寄せていると、青年が大股に近付いて来た。
「江口君、今日も相変わらずのイケメンぶりやなぁ」
「何言うてるんですか、警部。彼女もおらん人間にイケメンやなんて」
「イケメンに彼女の有無なんか関係ないやろ」
江口伸介は捜査一課の期待のホープだ。ノンキャリ組ではあるが非常に優秀で、二十四歳にしてもう巡査部長への昇任試験をパスしている。彼より歳上の佐久間や美由希はまだ巡査なのだから、如何に秀でた人物か窺い知れる。
「ここ、失礼します」
軽く右手で手刀を切って、佐久間の隣に着席する。その様もスマートで無駄がない。学生時代は陸上競技をやっていて体力には自信あり。鼻が高く、彫りの深いモデル風の顔立ち。水色を好み、今日も薄い水色のシャツを着用している。
「よっしゃ、勢揃いやな」
佐久間、美由希、江口の三人は重松の腹心の部下なのだ。
「やけど、豊中の事件と北区の事件はやっぱり連続殺人やったんやなぁ。ほんで今回で三件目か……」
佐久間が手元のコーヒーカップに視線を下ろしながら、口を開く。
「お宮入りしかけてたんやから、寧ろラッキーでしょう。北区の方は身元すら割れてないんですから」
「僕もそう思います。せっかくやから、ホシを明るみに晒したりましょう」
「江口君は情熱家やなぁ」
などと言葉を交わしているうちに、会話を遮る大きな音が会議室に響き渡った。その音は天井に取り付けられた無機質なスピーカーから届いていることはすぐに分かった。
会議室の一番前の机に鎮座する、捜査本部の副本部長である前垣敬吾捜査一課長の咳払いの音だ。その咳払いは「今から捜査会議を始めるから前に注目しろよ」というニュアンスである事も、重松達は理解している。
「間もなく、捜査本部長である三瀬府警本部長がいらっしゃる」
白髪混じりの小男が、大きなシミのある頬を揺らしながら簡潔にマイクに向かって話しかけた。
重松をはじめとする捜査員達の間に、冷水に手を触れたような締まった緊張感が走ったのは、大阪府警のトップが御臨場するとのアナウンスのせいである。
――タイミングを見計らったかのように、観音開きの入り口の扉をノックする音が響く。
扉の向こうから現れたのは、嵩高い髪の毛を綺麗に七三に分け、銀縁の眼鏡の奥に大きな眼球を覗かせる三瀬亮蔵警視監だ。
大阪府警本部長――日本国内第二の大都市大阪を管轄する大阪府警の最高位。捜査員達は椅子から跳ねあげられたように立ち上がると、姿勢を正し直立する。
だが、その儀式じみた歓迎が三瀬は嫌いだった。府警本部長でありながら、地位や権威を振りかざすのは性に合わないと思っている。警察官になりたての、お偉いさんとか階級とかと言った役所臭い柵を知らぬ頃の正義感を、まだ捨ててはいない。
「えー、捜査員の諸君。まずは着席してくれ」
捜査員達は頭を下げ、次々と腰を下ろす。
「今回『大阪府内連続殺人遺棄・遺体焼損事件捜査本部』を大阪府警本部内に設置することとなった。昨夜の泉南市の廃ホテルでの事件は……三年前の豊中・今年の三月の大阪市北区の事件と同一犯の可能性が極めて高いとの結論に至り、各所轄に設置されていた捜査本部を一本化することとなった。詳しい捜査会議は、これから永野管理官の指揮の元始めていって貰うが、連続殺人となればマスコミも騒ぐ……。しかも、無差別の可能性もある。捜査員各自、緊張感を持って捜査に当たって頂きたい」
隣の永野一夫警視に対し、話は以上だと目配せをして肩の力を抜く。
捜査本部長とは言え、実質の指揮官は捜査一課の管理官である永野になる。自分や前垣はあくまでも肩書きだけの存在だと自認しているから、挨拶も手短に済ませた。
三瀬から順を譲られた永野は、目の前のマイクを取り上げると、唇を舐めてから言葉を発し始める……