セクション01:恐怖の記憶
少女はロバを駆り、地平線の果てまで続くサヘルを孤独に駆けていた。
彼女は焦っていた。
今までした事もないほどひたすらに、ロバの速度を上げ続ける。
もっと速く、もっと速く。
褐色の肌は汗まみれで、目元から伸びる緑のフェイスペイントは涙のようにも見える。
そんな少女の後を、何かが追いかけてくる。
羽音に気付き、振り返る少女。
追いかけてきたソレは、地を這うように飛んでいた。
見た事もない巨大な怪物。
鳥でもない。
虫でもない。
薄茶色のその体は、全て鋼でできている。
足もなければ、口もない。
目らしきものはあるが、生命は感じられない。
やかましい羽音を立てながら背で回っているのは、風車のような翼。
しかも透明な頭部の中には、兜らしきものを被った人間が3人乗っているのだ。
このサヘルにいるどの生物にも該当しない姿形を持つ異形。
それだけでわかる。
アレは、自分1人――いや、人の身で戦って勝てる相手ではない。
普通の動物ならば、がんばって戦えるだろう。
だがアレは、あまりにも生物から逸脱しすぎていて、本当に生物なのかどうかさえ理解不能。
それを人間が乗り回しているという事実も、理解を超えている。
故に、怪物以外の何物でもない。
故に、恐怖以外の何物でもない――
怪物の先端にある細長いものが、こちらに向けられた。
殺意を感じた少女は、とっさにロバを転進させる。
直後、ぱぱぱぱ、と響く凄まじい音。
一撃で人間を木端微塵にする吹き矢が、少女とロバの周りに降り注ぎ、地を貫いた。
人知を超えたソレに驚いたロバは足を止め、悲鳴を上げながら2本足で立ち上がってしまう。
振り落とされそうになりながらも何とかなだめようとした少女であったが、彼女にもまた吹き矢は容赦なく飛んできた。
「――っ!?」
頭に走る、熱い痛み。
何か大切なものが、壊れた感覚。
直後、少女の体はロバから転げ落ちた。
「ああああああああああああっ!」
倒れ込んだ少女は、左頭部を手で押さえながらしばしもだえた。
左手で感じる、ねっとりと温かい血の感触。
血は止まる気配がなく、どろどろと頬にも垂れてくる。
そんな中、すぐ隣で自分が乗っていたロバが肉塊となってはしたなく散乱し、赤い池を作り出していたのを見てしまった。
背筋が凍りつく。
一歩間違えれば、自分もああなっていたかもしれないと思うと。
だが、その幸運はほんの一時のもの。
忌まわしい羽音は、まだ響いている。
じりじりと宙に浮遊したまま迫ってくる怪物は、再び吹き矢を向けてくる。
次はお前がこうなる番だ、すぐ後を追わせてやる、とでも言うように。
「あ――」
言葉が出ない。
体が動かない。
もう逃げられないと悟ってしまったからか。
もうあと僅かの命だと気付いてしまったからか。
それとも、頭がぼんやりとし始めたからか。
ふと、怪物の乗り手と目が合う。
彼は追い詰めた獲物を見て、不気味に口元を釣り上げていた。
誰か、助けて。
その願いは、誰もいないサヘルの真ん中で届く事はない。
間もなく殺されて木端微塵となる恐怖に身を震わせながら、少女は目を閉じた――
直後、爆発が起きた。
熱風に晒された感覚で、少女は目を開く。
怪物は、いつの間にか炎に包まれていた。
そのまま力を失い、地面に落下に転倒。
乾いた音を立てながら次々と飛んでくる破片で、とっさに腕を顔の前にかざす。
あまりにも呆気なさすぎる、怪物の最期。
何が起きたのかわからずにいると、ふと空から耳をつんざく爆音が響いた。
今まで聞いた事もない、空を強引に裂くような爆音。
それに驚きながらも、少女は顔を上げた。
地上とは裏腹に、透き通った青い空。
そこに、空気を切り裂いて飛ぶ銀色の何かがいた。
「……!」
その姿に、少女は息を呑んだ。
鳥ではない。
あんなきれいな三角形をした小さい翼を持つ鳥など、見た事がない。
鋭い尾羽と相まって、まるで矢のような姿。
先程の怪物と同じく足も口も見当たらないが、その姿にはどこか不思議な美しさがあった。
背の透明な部分には人が乗っている。
やはり兜のようなものを被っていて素顔は見えないが、首に巻いた緑色のスカーフが印象的だった。
その視線に、敵意は感じない。
彼は、自分を助けてくれたのだ。
「あ……」
言葉が出ない。
気が付くと少女は、自分を気遣うように周りながら飛ぶ銀翼に、手を伸ばしていた。
あなたは誰、とその手で問いかけながら――
暗転。




