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全てが曖昧な世界で、僕らは曖昧なままで

作者: 秋月雅哉

夕方の部活の時間。第一女子更衣室は今日も賑やかに運動部の面々が着替えに使っている。

私、久遠梓も柔道部所属の証であり稽古着でもある柔道着に着替えている真っ最中だ。

「そういえばこの間さーパチンコ台を拾ったんだよね」

「なんでそんなもの拾うの」

「いや、柔道に詳しかったからつい。雑霊が憑いてるやつなんだけど口は悪いけどいいや

つだよ?今専属コーチやってもらってるんだ」

他の世界や過去や未来はどうだか知らないがこの世界の今という時間には幽霊というもの

はさして珍しくない。

見るのに霊感は多少いるが持っていない人のほうが珍しいくらいだし雑霊がものに宿って

いるならものによるが光や音、ラジオのようなものなら周波数をジャックして音声に変換

することもできるので基本的に意思の疎通には困らない。

見えない人にはその辺を漂っている浮遊霊もその辺に取り憑いたまま動けなくなっている

地縛霊ももしかするとその人についているかもしれない背後霊も関係ない。

ただ「幽霊がさー」などと日常的に話す人々の話についていけずに気まずい思いをすると

か質の悪い悪霊に偶然目をつけられて大けがをしたりするけど原因は不明、という奇怪な

思いはたまにするらしい。

治療師ヒーラーの先生は霊につけられた傷なら無料で綺麗に治してくれるしこれは霊

の仕業ですよ、って教えてくれてそこで納得する人もいるけれどたまに科学技術を使った

医者ドクターにかかってその医者が悪質だったりするとぼったくりで料金を取られた

り、という二次災害はあるらしいからやっぱり霊の姿は見えた方がいいのかもしれない。

まぁ、原因不明の大けがをしたら普通は治療師に見てもらうんだけどね、見えない人でも

悪霊の仕業だろうって見当はつけるし。

でも見える人でも見えない人でも「霊なんていない」と強硬に主張する人はいる。

見えない人がそう主張するならともかく明らかに見えていると雰囲気で丸分かりの人が見

えているものをいないと主張するところはいささか滑稽だ。

「ハッ、雑霊の専属コーチだって。ばっかじゃないの」

あとは……うん、まぁ。存在は認めてるけど雑霊や浮遊霊とかを自分より下位の存在とし

てみるコイツとか。

「うっせーよ君妻、てめぇにゃ関係ネェだろうが!」

君妻香織とは所属している柔道部でも有名な、いわゆる犬猿の仲という間柄だ。

鉢合わせれば大概向こうは絡んでくるしあたしも喧嘩は漏れなく高値で買うタイプだから

口喧嘩は基本的に絶えない。

「ふざけないでよ、関係ないわけないじゃない。雑霊がアンタに取り憑いて私たちに害を

加えない可能性がないわけじゃないでしょ。関係おおありよ」

「おあいにく様。消滅寸前で物に移る霊力も残ってない雑霊なんだからあたしを乗っ取る

こともパチンコ台から球弾き飛ばしてアンタを怪我させることもできないっつーの。せい

ぜい安心してください、弱虫野郎様?」

嫌味を込めてそう返せば香織が顔に朱色を昇らせる。

「そんなおいぼれにコーチを頼むとか貴方もつくづく劣等生なのね。あきれたわ。もう少

しましな、せめて生きているコーチを雇ったらどうなの?……あぁ、ごめんなさい。貧乏

人には専属コーチなんて雇えないかしら」

「人の事情にクチバシ突っ込むとかお嬢様扱いしてるアンタの家の人の教育方針を疑うわ。

割と本気で。貧乏で何が悪いんだよ、全部自分より下の存在だと思い込んでる馬鹿な成金

娘よりマシな感性持ってる分むしろ幸せだっつーの」

「貴方!失礼にもほどがあるわよ!私が礼儀知らずだとでもいいたいの!?」

「実際礼儀知らずだろうが、人のことを貧乏人扱いしやがって。自分は金持ってるからっ

ていい気になるんじゃねぇよ」

「逆切れもいいところだわ…こんな人と一緒に勉学と部活動に励まなくてはいけないなん

てやっぱり転校を考えようかしら。…いえ、ここよりいい環境の学校なんてそうないわね。

どうして貴方のような貧乏人が学費が高くて通えることが栄誉と言われる超名門校にいる

のかはなはだ疑問だし非常に不愉快だしまったくもって理解不能だわ」

裏口入学できるお金もないでしょう、試験官に媚でも売ったの?と嘲笑する香織の言葉は

あたしからしたらむしろそっちの方が逆切れだと思う。

「スポーツ推薦枠は実力がなきゃいくら媚売っても取れないっての。奨学金だって学力が

ないと認められないんだからアンタみたいな親の七光りで在籍してる奴と一緒にしないで

くんない?媚売って成績に色つけてもらってんのはそっちだろ」

「なんですって!聞き捨てならないわよ久遠!」

「それはこっちのセリフだ君妻!いっつもいっつも突っかかってきやがって、鬱陶しいん

だよこのクソアマ!」

「なんて口の悪い…貴方はやっぱりこの学園にはふさわしくないわ!」

ヒステリックに君妻が叫ぶ。

「別にアンタに認めてもらいたくて学生やってるわけじゃねーよ勘違いすんな。っつーか

いい気になんな」

「生意気よ、貧乏人の癖に!」

「うっせーっつってんだろ!」

「梓、そろそろ部活始まるよ。いこうよ」

「あ、ごめん。今すぐ支度する」

友人のみちるにやんわりとせっつかれてエキサイトしていた頭をクールダウンさせる。

部活前は意識が昂揚するからいつもより喧嘩っ早くなるのにいつも君妻と顔を合わせるせ

いで第一女子更衣室の使用者には毎度居心地の悪い思いをさせてると思う。

そのことに一抹の申し訳なさを感じつつも柔道着に着替えた柔道部御一行は部活開始時間

も迫っているのでぞろぞろと道場へとむかっていた。先頭は何が何でも自分が一番じゃな

いと気が済まない君妻だ。

命を大事に、と謳うこの学園の扉には植物(たまに野菜。第二女子更衣室なんて扉絵がキ

ャベツだ。なんでそのチョイス、と利用者からはよく突っ込まれる。一種の平和な類の学

園の七不思議とやらかもしれない)の絵や動物の絵(たまに家畜でこの学園は実は宗教系

のバックがついてるけど宗教はあんまり関係ない名門校なんじゃなくて農産・畜産系の学

校なんじゃないかという噂もまた平和な類の学校の七不思議のひとつだ)が描かれている。

シャキシャキしてそうなキャベツやレタスの絵はおいしそうだしまるまる太った鶏や豚の

絵は解体して焼いたら脂がのっていてこちらもやっぱりおいしいんだろうな、と思う。

他の絵に関してはとりあえず絵の良しあしは良く分からないけどどれも生き生きしてるか

らチョイスはともかく絵自体は嫌いじゃない。キャベツやレタスや鶏や豚も生き生きとは

しているけどおいしそうなイメージが真っ先に浮かぶあたしってやっぱり貧乏人?と前に

みちるに聞いたら「私にも美味しそうに見えるよ。よかった、私だけじゃなくて」とほん

のり笑ってくれたからアタシはみちるが好きだ。

家畜をおいしそうだと思うことは残酷なことかもしれないけれど同時に褒め言葉だとアタ

シは思う。

命を奪うことは変わりないけれどそれならおいしく頂くべきだ。命を貰ってアタシたちは

生きてるんだから感謝を忘れちゃいけない。これは亡くなったおばあちゃんの口癖だった

言葉だ。

会えなくなるまでは存在が鬱陶しいな、とか口うるさいな、とか思っていた小言が本当は

生きていくうえで大切なものだと気づいたのはおばあちゃんがいなくなってからで。

なんでもっと優しくできなかったんだろう。なんでもっとちゃんといろんな話を聞いてお

かなかったんだろう。

そんな後悔ばかりが押し寄せる。

もっと早くに言い聞かせられた言葉の大切さを理解しようとしていたら、生きていくうえ

で頭のよさとか運動ができることとか要領のよさとかよりもっと大事なモノをアタシに教

えてくれてありがとう、って目を見て言えたのに。

そういっていたらおばあちゃんはなんて答えてくれただろう。すこしは安心してくれただ

ろうか。

今となっては永久に分からない。

大事な存在ものはなくしてから気づく。

そんな小説ではありふれたモチーフを、アタシは本当に失うまで気づけなかった。

道場に向かおうとしていた君妻は焦っていたのかその一つ前の扉、キャベツの絵の描かれ

た第二女子更衣室の扉を全力で全開にする。

道場の扉は揺れが激しいせいか新しい校舎にしては少し歪んでいて気合を入れて開けない

と人が入り込む隙間は作れない。

でも第二女子更衣室は普通に開くから全力なんて出したら物凄い勢いで横開きのドアが開

くし今私たちが出てきたように部活の用意のためには中に着替え中の女子がいるわけで。

運が悪いことに第二女子更衣室にはカーテンや仕切りの類はなくて着替え風景が丸見えに

なる造りだ。

そして女子より着替えの早かった男子部員が体育館で部活中で。

結果的に盛大な女子の悲鳴と男子のざわめきが暫くの間体育館を満たしたのだった。

「ご、ごめんなさい!」

慌てて扉を閉める君妻に「ばーか」と悪態をついてやろうかとも思ったけれどそのあと口

喧嘩になって部活に遅刻しても馬鹿馬鹿しいのでやめた。

道場に一礼して入って主将の集合の掛け声を合図に集合、整列して準備体操などを済ませ、

寝技や打ち込み、投げ技の練習、乱取り、筋力トレーニングと部活は進んでいく。

顧問から時折指導が入り各々の掛け声が響き渡り、人が投げ飛ばされる音も響く。

受け身をとった時の腕が畳を叩く音もあちこちから聞こえる。

柔道をやるなら受け身を取れなくては危なっかしくて実践には参加させてもらえないから

各種の受け身は毎日準備運動の中に取り込まれていた。

条件反射で受け身を取れるというのは日常生活では便利でもあり、逆に恥ずかしい思いを

することもある。

体育館を中央で仕切るネットのある辺りをアタシとみちるともう一人の友人が並んで歩い

ていてアタシともう一人の友達は話に熱中するあまりネットの存在に気づかず足を引っ掛

けて転んだ。

顔面を強打していたらそれはそれで恥ずかしかっただろうが柔道部員だったアタシたちは

前受け身をとって無駄に目立ってしまったのだ。

前受け身はその名の通り前に倒れこみながら取る受け身なので日常で取ると相当目立つの

だとその時初めて知った。…知りたくなかったけど。

普段は一連の動きとして取りやすいように前転をしてからとるんだけどその時はまさに倒

れこみながら受け身をとったのだった。

…前転しながら受け身取ってたらスカートの中身が丸見えで大惨事になりそうだしそれは

それで嫌だけど。

それを聞きつけた君妻に散々馬鹿にされて余計恥ずかしかったのかもしれない。

補強運動と整理体操とを終えて四時間ほどの部活の行程が終了する。

あぁ、今日も疲れた。柔道は好きだし推薦でこの学園にいる以上手を抜こうとは思わない

けれど真面目にやると相当きつい部類の部活になるんじゃないだろうか。

そしてどれだけ疲れても家に帰ればパチンコ台をコーチにした個人授業が待っているので

ある。

「お疲れ様でした!」

「っした!」

神棚の前に正座で並んで神棚と顧問に礼をして諸注意を受けて解散。

部活終了後の第一女子更衣室はデオドラント剤の匂いが混ざり合って多分男子が入る機会

があったらはだしで逃げ出す、汗臭さとはまた違った時限の臭さが広がる。

名門校なのに運動部員がとても多くて設置数が間に合わないとかでシャワー設備はおいて

いないから我慢。

どうせこの後すぐまた汗まみれになるし揶揄される程度には貧乏というか倹約を心掛けな

いといけない家計で生活してるアタシにとってはもし設置されてもコイン式のシャワーや

ドライヤーだった場合お金がかさんで設置されても困るだけだけど他の女子は割と裕福な

家の子が多いからシャワーがないのは不満のタネらしい。

「お疲れ―またあしたね」

「お疲れ様―」

君妻とその取り巻き以外の、友人未満ではある気はするけれど知人以上ではあると思って

いる部員たちに挨拶してみちると一緒に途中まで下校する。

「じゃあ、ここで」

「うん、またあしたね」

「お疲れ様―」

「お疲れ―」

いつもの交差点で分かれてそこからは一人で帰宅するのが日課。

我ながらぼろいなー、と思わずにはいられない築ウン十年の家に帰って台車に乗ったパチ

ンコ台にただいま、と挨拶をする。

『今日も稽古すんのか』

「うん、晴れてるし」

家の中では狭いし下手に受け身やらをとって家が崩壊したら目も当てられないので稽古は

基本外だ。

『じゃあバランスとりながらの小内刈りからだな。お前は背負い投げやる割に小内の精度

が甘い』

「大内刈りの方がかけやすいんだよねぇ…」

『背負いの連続技で生きるのは小内の方だ。覚えておいて損はねぇだろ』

ぶっきらぼうな、多分アタシよりいくらか年長の男の人の声。

パチンコ台は電源をつながなければ単に大きくて重い箱なので彼は私に霊としての力を使

って話しかけてくる。知り合って二週間ほどたつのにいまだに名前は教えて貰えていない。

『名前を知ったら俺が消えた時に喪失感が大きくなってピーピー騒がれるのかと思うと鬱

陶しい』なんて言ってたけど…確かにいなくなったら寂しくはなるよ?でも名前を知って

ても知らなくても寂しいけどピーピーわめいたりは…するかな。どうだろう。わかんない

や。

木と木の間に幹の太さ分のゴムを渡して揺らさないように片足をついたまま小内刈りの時

の姿勢をとって一歩一歩進んでいく。

踏み込みが甘い、とか刈り方が足りない、とか上半身が崩れてる、とか体崩しをもっとし

っかりしろ、とか一回技を空気相手にかけるごとに容赦なく声がかかる。

ゴムの端から端まで小内刈りをかけ続けた後は足払いの練習。

パチンコ台に憑いた雑霊の彼に言われるまでもなくアタシは足技が上手くない。

大外刈りと大内刈りは人並みにできるつもりだけど背負いを主体に使うならあんまり向い

ていない組み合わせだ。

そのあとは幹に結んだ帯を使って一人打ち込みの練習に励む。ここでもやっぱり注意が凄

い勢いで飛んでくる。そんなに腕悪いのかなぁ、アタシ。

『今日は此処までだ。俺を家に戻して風呂入って寝ろ』

「わかった。…もう、なんでよりによってパチンコ台みたいな台車がなきゃ運びにくいシ

ロモノに取り憑いてしかも他の物に移れる霊力残ってないの…台車が一つ占拠されて不便

なんだけど」

『腕力鍛えるのにいいだろ。他に取り憑ける者がなかったんだから仕方ないだろうが』

ふふん、と鼻で笑うような声が聞こえて釈然としないものを感じながら台車を家に運び込

む。

築ウン十年の割にバリアフリーでよかった。

台車を定位置に戻して土汚れを拭いてお風呂に入って予習復習をして寝ることで一日が終

わる。

味気ない、なんていう人もいるけどアタシ的にはこんな日常にも満足していた。


「梓、映画を見に行こうか。気にしている映画があっただろう」

「映画より釣堀がいいな。イワナを塩焼きにしてみんなで食べるの。アタシ、たくさん釣

るよ?」

「……」

「あ、ごめん。お父さんイワナ嫌いだったよね…」

「いや、いいよ。両方行こう。今日は久しぶりにゆっくりできるんだ」

お父さんとお母さんの笑顔。頭を撫でてくれる大きな手。

でもアタシはそれが過去にも現在にも未来にも現実には存在しない風景だということを知

っている。

父親はアタシを憎んでいたし母親は生活に疲弊していた。なんでこんな夢を見るんだろう、

空しいだけなのに。

身支度を済ませてパチンコ台におはよう、と声をかけると返事が返ってこなかった。

「ちょっと?寝てるの?」

霊だから寝ないって事位わかってるけどふざけないと不安で胸が潰れそうになって私はわ

ざと軽い口調で問いかけた。

別れが近いことは知ってた。でもお別れを言う余地位あるんだってなんの証拠もないのに

信じてた。おばあちゃんの時に知ったくせに、大切なものは失ってから気づいて、後悔し

ても遅いんだって。アタシの馬鹿!

『……そろそろ、無理だな』

「!起きてるなら、声かけてよ…」

『いや、消える寸前なのには変わりない。後五分も持たない』

「そんなのやだよ…」

『ピーピー泣かれるからお前に拾われるのは嫌だったんだ』

ぼんやりとアタシ以外いない家に人型が浮かび上がる。初めてみる彼の姿。

他界した両親の夢を今更見たのは彼を連れていかれるという予知夢?

「……今日はせめて一緒にいていい?お別れを、ちゃんと言わないと…後悔するから」

『………勝手にしろ』

いつもよりノイズの混じった声。あぁ、本当にお別れが近いんだ。

一人には慣れたつもりだった。でも全然慣れてなかった。永遠のお別れなんて何度経験し

たって嫌だ。たとえ小言ばかりのおばあちゃんでも、アタシを憎んでいる両親でも、名前

も知らない雑霊でも。

『なっさけねぇ、面』

「……ほっといてよ」

『なら消えるまで黙ってていいのかよ』

「やだ」


お前はあのころはまだガキだったから覚えてねぇだろうな。

お前を憎んでたとかいう親父がお前を捨てようとして車に乗せてお前の知らない土地まで

連れてきて置き去りにした時、俺とお前は一度会ってるんだ。

もっともあのころは俺にもちゃんと体があったんだけどな。

ピーピー泣きそうな顔で、けど泣いたら負けだと言わんばかりに唇を引き結んで歩くお前

の道案内をしたガラの悪く見える男を、お前は覚えてないんだろうな。それが今お前の目

の前にいる俺だよ。

お前を家まで送った後に車に撥ねられて即死した俺は浮遊霊になってたまにお前の様子を

見に行ってた。

お前が見える方だって知ってたから気づかれないように気を遣うのは苦労したんだぜ。

ただ俺にはそんなに霊力はなかったらしくてそのうちなにか依代にしないと意識を【向こ

う】に持っていかれるような感覚に陥るようになった。

選んだのは潰れたパチンコ屋の壊れたパチンコ台だった。お前の家に一番近くてそうそう

捨てられなそうな曰くつき物件だったからな。

浮遊霊として外に出られるうちはまだお前の様子を見に行ってた。

お前が柔道をやってるって事もその時しった。

皮肉なもんだ。昔親に無理やりやrされて柔道界の神童扱いされて、けどそれを喧嘩に使

って破門になった俺が一人になったお前に柔道を教えてやる羽目になるなんてな。

本当は動けなくなった時点で放っておくつもりだったんだぜ?

下手にかかわりを持ったらお前はあの最低な親を亡くした時同様一人でピーピー泣くんだ

ろ?

また話し相手ができてもそれがパチンコ台に取り憑いた消滅間際の霊じゃ、な。

情がわいたころに離れ離れになるのがオチだ。

んなの、放っておくよりずっと残酷じゃねぇか。

すぐに傷になる出会いなら、ハナっからねぇ方がいいんだ。

出会いがなきゃ喪失の痛みを再び味わうこともない。

もともと知られてない存在なら知られないまま消えていく方がずっと親切だろ?

お前は気が強くて粗暴な振りをしてるくせに本当は泣き虫でメンタル弱くてそれをしられ

るのを嫌がる意地っ張りだからな。

本当は一人でピーピー泣くしかできない自分のことが自分で一番嫌いだったんだろ?

お前のことを見守ってたのは俺の勝手だ。

俺の勝手に付き合わせてお前が一番嫌いな自分の一面をまた引き出させて傷になる出会い

を作って消えちまうなんて最悪な奴にはなりたくなかった。

そのくせ動けなくなった俺に、お前は会いに来た。

誤算だったぜ、浮遊霊の気配を辿って追っかけてこれるほど強力な霊感の持ち主だったと

はよ。

『アンタ、時々家にきてたでしょ』

『……』

『何か未練があるの?アタシにできることなら協力するよ?』

『……』

『なんか言ってよ。放っておいてほしいならもう来ないからさ』

あの時の俺はお前が言ったように放っておいてくれって言って縁を切るべきだったんだ。

それなのに『お前、柔道やってるんだろう。教えてやるから俺を家に連れていけ』なんて

…なんで言っちまったんだろうな。

最悪の奴として見送られることくらい、分かりきってたのに。

結果的にお前は俺を家から持ってきた台車で家まで連れ帰った。

いわくつき物件の、壊れたパチンコ台を一台持ち出したところで文句を言う奴はいなかっ

た。

俺が憑いてるって知ってただ奇異の目を向けただけだった。

それから俺はお前に柔道を教えるようになったんだっけな。筋はいいけどまだ未熟なお前

になら俺にも教えてやれることは結構あった。

伊達に人生の半分柔道やらされて生きてたわけじゃない。もうとっくに死んでるんだけど

よ。

「なんか喋ってよ。姿は見えるけど見えるように脳がアタシを誤魔化してるかもしれない

って不安になるじゃん」

『喋っても幻聴に、聞こえる、だけかも…しれねぇだろ』

回想の海にどっぷり浸かってた俺を梓の声が呼び戻す。

死んだ後にも走馬灯ってあんのかね。

少なくとも今俺が浸ってた空間はフィクションの死後の世界物でよくある走馬灯とやらに

似てる気はする。

「…名前。なんていうの」

『教えねぇ』

「情がわいて泣くからとかもう今更でしょ。名前呼ばない方がずっと情がわくって年上な

ら気づいてよ」

『忘れちまったよ』

「…ウソツキ」

あぁ、嘘吐きだよ、俺は。だから俺にとらわれてないでお前は前を見て生きろ。

お前は笑ってる方が似合うガキだ。

お前につかの間の優しさを教えるふりをして傷つけるだけ傷つけて消えてく最低の男の名

前なんて覚えておいても無駄だろ?

頼むよ、全部忘れてくれ。

なんで俺はこんなに必死なんだろう。

好きな女ってわけじゃねぇのにな。

俺はロリコンじゃねぇし今も俺が生きてた頃もまだ乳臭いガキだ。恋愛対象になんてなる

わけがない。

庇護欲をそそられるような性格をしてる自覚はないし本当に謎だ。

今際の際にこんな謎に気づいてどうするんだよ。どうせすぐ消えるんだろ。もやもやした

気分のまま消えんのかよ。最悪な消え方だ。

コイツを傷つける罰か?ならしゃーねーか。

…駄目だ、思考が本格的に拡散してきた。

もう時間、そんなに残ってねぇんだな、本当に。

「アンタ、さ。アタシが捨てられたときに言え前連れてってくれた人でしょ?」

『!』

「覚えてるよ。父さんにガキ作ったんなら責任もって育てろって啖呵切って殴られて、何

で戻ってきたんだ、って殴られたアタシを見てガキに責任はねぇだろってアタシの代わり

に殴り飛ばしてくれた」

だから浮遊霊になった後見にきてくれてることにも気づいてたよ、気づいてほしくなさそ

うな感じだったから声はかけなかったけど。

様子見に来なくなったからあのパチンコ屋に探しに行ったんだ。一回だけ、帰るところを

みたから。

そんな不意打ちの告白。

…なんだよ、俺、カッコワリィじゃん。

全部お見通しだったのかよ。

「…ねぇ、だから名前教えてよ。恩人の名前知らないままなんて後悔する」

『恩人なんかじゃねぇよ』

一緒にいられる間はこの感情に名前なんていらないと思ってた。

愛しいとも、護りたいとも、家族に向ける親愛とも違う。

生前の俺はそんな感情と無縁に育って死んだからそんな感情は知らないしきっと抱けない。

だから傍にいられる間はその感情が何かなんてどうでもよかった。

傍にいられること、それが一番重要だったんだ。

死者と生者が根の国の垣根を越えて接し合えるこの世界でもその時間は無限じゃねぇから。

死者のもともとの霊力が尽きれば消えちまうから。

消えちまったらどこに行くのか、時間をおいて鬼籍に入った元生者がその後同じ場所に行

けるかなんてわからねぇんだから。

一緒にいられるだけで満足だったし、本当は触れたらいけない存在に感情の名前まで求め

るほど堕ちたくなかった。

消える間際になって、その感情の名前を探す。意味を探す。

でも探す意味なんて、必要なんてあんのか?

どうせ俺は消えちまうのに。どうせお前に何も伝えずに消えちまうのに。そんなの、自己

満足でしかねぇんじゃねぇか?

「…ねぇ、名前」

『…俺がいなくなっても、泣くなよ。お前は多分笑ってる方が似合う』

「…話そらさないでよ」

『……』

なぁ、俺の聴覚はもう拾っちゃくれなかったけど。

俺の名前、最期にお前に届いたか?

この感情の名前なんて知らない。死後に抱いた意味なんて知らない。乳臭いガキの心配を

死ぬまでしてる俺なんて知らない。…あぁ、いや、俺とっくに死んでるんだっけ。

でもいいや。お前が笑っててくれる未来がいつかくんなら、もうそれでいいや。

お前と会うことはもうねぇんだろうな。

なぁ、梓。

――お前の未来が、希望と光で満ち溢れたものになりますように。

そう願うのは分不相応だって笑うか?

笑わねぇよな、お前なら、さ。


青年の影が完全に消えた瞬間、少女以外誰もいないくなった古い民家に慟哭と絶叫が響い

た。胸を引き裂くような悲痛な声だった。

青年が最後に願った思いが届いたのか、青年が最後に告げた名前が少女に届いたのか、少

女以外は誰も知らない。

これは始めから終わっていた物語なのだから。



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