手記 The Rock
先ほど私は、父がどのような刑に処せられたか? と問うた。
問いにまず、答えておこう。解答は明白なのだ。
父は、何の刑にも処せられていない。
父は母を殺してからも医師であったし、勤務医として病院に勤め続けたらしいのだ。
意外なことではない。医師にとっての常識だ。以後、この常識について、少し述べたいと思う。
もしも、私の推測が全部的を射ているとすると。
父の取った一連の治療計画、治療行為は、明らかにおかしいと思われる点がいくつか、ある。
一つ、例を挙げるならば。
前項の手記にて、私は腎盂腎炎の検査ではブドウ球菌・連鎖球菌等の細菌の有無を調べると述べた。この結果はいったいどうなるのか? いないものをいると言い張るわけにはいかない。検査の結果は絶対ではないのか?
――驚くべき話に聞こえるかもしれないが。
そんなことは、どうでもいいのだ。
担当医は、後でいくらでもカルテを改竄出来るから。
治療方針と投薬内容は、担当医が決定する。検査がシロだろうがクロだろうが、後で書き換えてしまえば治療方針など、投薬など、いくらでもごり押し出来てしまうのである。
そんな馬鹿なことが、と思われるかもしれない。
その答えは、こうである。――「病院による」。
公明正大を旨とし、余計な論議と合議の手間をかけてまで、要は経費をかけてまで、患者を守ろうという真面目な病院。これは、上記の限りではない。
ただ、はっきり言えば。
入院患者を抱えるような病院は、忙しいのである。
いちいち、個人の細々した治療内容まで覚えていない(病院もある、と言い直しておこう)というのが、現状なのだ。
投薬や点滴の投与が間違っていたなら、後で適正と思われる症状の方をカルテに書き足せばいい。いや。
書き足す必要さえ、ないかもしれない。なぜなら。
死亡した患者のカルテを見る者など、誰もいないからだ。
通常、人が死んだら、医師が死亡診断書を書く。その遺体が「外で死んだ」場合。事件性のないものについても、医師は遺体を検案し、その際には警察に届けを出さなければならない。そういう意味では、医師は不正を働けない。――そう。「外からの遺体」の場合は。
問題は、内から――病院内で死亡した場合である。通常は、遺族に死因が報告される。その場で明確な死因が特定出来ない場合や、さらなる原因調査を遺族が望んだ場合に限り、病理解剖が成される。病理解剖は大病院で主に行われ、小さな病院では出来ない。よって、その地域の大病院に任せることが多い。
そうした場合、カルテに綴じられている病理所見は、おおむね一ページだけの簡単な結論に過ぎない。たいていはその内容をそのまま報告して終わり、である。司法解剖のような、行われた犯罪を浮き彫りにする、徹底した精密な解剖を想像していると、肩すかしを食らう。そもそも二者の性質は、全く違うものなのである。病理解剖とはあくまでも、確認にすぎないのだ。
さらに。この病理解剖すら、遺族の希望があって初めて行われるものなのである。常に行われるわけではない。
医師にも、アキレス腱はある。
医師はカルテを改竄出来ると書いたが、それが不可能となることだってある。
遺族から弁護士を通して、「証拠保全」の手続きが取られたときだ。つまり、遺族が頭から医師を疑ってかかり、訴訟の準備を始めた時。ここで初めて医師は、自分の書いたカルテを第三者に公開することになるわけである。
ただ、医療事故に関する訴訟は、だいたいが民事である。つまりは、お金がかかる。医師を訴えるならば、遺族はそれなりの覚悟が必要だということだ。
それに、病院側だって医師の不祥事が明るみになってしまっては病院経営に支障が出る。ある程度の医療事故は、よって病院ぐるみで隠蔽してしまう。院長に言われて担当医がカルテを書き換えた、なんてことはそれこそ、日常にある光景なのだ。
総括しよう。
言ってみれば。
訴えられない限り、医師は合法的に人が殺せる。
そして、殺す相手が「家族」ならば。
つまりは、自分自身が「遺族」になるならば。
病院内で起こる殺人は、自然と完全犯罪になるのである。
なお、一部の病院では、親族が、たとえば手術の際の執刀医になることなどを佳しとしていない。
だがこれは、別の理由である。あくまでも、親族にメスを入れる医師の過度の思い入れ等、心理面を考慮しているにすぎない。
そもそも。
誰も、家族を殺すために医師になろうなんて考えない。
だからこそ――。
だからこそ、私は医師となったのだ。
(主 題)
時は経ち。
既に翌日となった、七月二十二日、深夜。〇時十分になろうかという時刻。
消灯時刻はとうに過ぎており、この後救急患者は搬入されないという前提つきで、ではあるが、院内はひっそりと静まりかえっていた。
――ので、あるが。
室内履きであろうか。音を立てない素材の履き物を履いているような、ぱたん、ぱたんという足音が、リノリウムの廊下にそっと、響く。
続いて、非常口の緑のランプに、白衣がぼうっと浮かび上がる。
ナースステーションでは夜勤の看護師数人が詰めている。半数は休憩中、半数は定刻業務でせかせかと立ち働いているのが見て取れる。彼は黙ってそこを通り過ぎる。誰にも気づかれなかったようだ。
スタッフルームに入室し、レセプトコンピュータを操作する。ベッド稼働画面で、二、三、修正を施し、笑みを残して部屋を去る。
この時点から数十分程度、彼の姿は確認されていない。ただ、病院外に出ることは当直時の規則で原則禁止されているので、敷地内のどこかにいることは、確かであろう。
――四十分後。一時、十分前のこと。
院内のストレッチャーを元の位置に戻し、再び彼の姿が現れた。手には留置針と注射器。留置針とは、点滴を落とす際に腕に刺す、あれのことだ。
暗がりの病室を、もう片一方の手に握っている懐中電灯で照らす。二度。三度。異状を認めず。病室に足を踏み入れる。
やや乱雑に巻かれた包帯姿の患者が、ベッドに一人。人工呼吸器、点滴装置は取り付けられておらず、仰臥位の体勢で寝息を立てている。
彼は注射器を構えた。ちなみに、ここだけの話であるが、薬剤の中身はアトロピン硫酸塩である。細かい説明ははしょるとして、要は副交感神経に作用する薬品である。胃や心臓を強く働かせる効果を持つ。致死量はおよそ百ミリリットル(推定値)。
彼はその注射器を――ベッドの傍ら、サイドテーブルに置いた。どうやらそれは、いざという時のためのものらしい。
患者を(半座位ではなく)側臥位に体位変換してから、左手を添えて体位を固定する。留置針を右手に構え、脊椎と脇腹間の中心点に向けて、左肩方向へやや角度をつけ、針を――――――――。
「お待ち下さい、先生」
びくっ、と、彼が身を震わせた。
*
白衣の男が、びくりと身を震わせた姿を、宮崎は戸口から見下ろしていた。声をかけたのは、宮崎の方である。懐中電灯の光が部屋を往復し、やがて室内の光がともった。男が電灯のスイッチを入れたのだ。ただ、宮崎の背後、廊下には未だ、闇が浸食していたが。
「面会時間はとうに過ぎたはずですが」
男は患者を再び仰向けに寝かせると立ち上がる。ひょろりとした体型が白衣に包まれている様は、いかにも医師然とした風貌である。
「何。別に患者に面会に来たわけじゃない。――高幡、雪人先生。あなたに会うためにわざわざ、こんな時間まで待っていたんですよ」
悠然と、宮崎が言葉を返す。相手はゆるゆると首を振りながら、尋ねてきた。
「何の用があるのか知りませんが、迷惑です。お引き取り願えませんか?」
「そうはいきません」
改めて、相手の双眸を直視する。
表情が読めない。この不自然な余裕はどこから来るのか。それとも、諦観、か?
「その、右手に持っておられるものの、使い道を教えて頂くまでは」
「これですか?」
そんなことか、とでも言うように、高幡――雪人は大仰に肩をすくめる仕草をすると、右手を差し出し、口を開いた。
「留置針ですよ。点滴を患者に注入する時の針です。数時間前、事故の患者が担ぎこまれたんですが、今しがた容態が急変したようなので、急いで駆けつけ、処置を施そうとしていたところですよ」
「針でどんな治療が出来ます?」
「心嚢穿刺です。心タンポナーデ、つまり心臓を取り囲む袋状の部分、心嚢に貯留液が溜まり、心臓がうまく血液を送り出せなくなる症状が見られまして。で、そんな時はこのような、留置針等でですね、心膜をつっついて、貯留液を排出してやるわけです。高エネルギー外傷で心タンポナーデを疑うのは、救急医の常識なんですよ」
患者相手にインフォームド・コンセントを行う時のように、雪人は淀みなく説明を終えた。もとより反論など起ころうはずもないと高をくくっているのか、では治療の邪魔ですから、と、宮崎を追い出そうとする。そこで。
にやり、と。
宮崎は、笑った。
「随分、面白いことをおっしゃる」
「面白い、とは?」
雪人が再び、無表情を取り戻す。
「心タンポナーデは、心嚢内に急激に血液や心膜液等の貯留液が溜まり、循環障害を起こす症状でしょう。ほら。もう例の事故発生から三時間以上経過しようとしてる。今頃どうしてそんな症状が発生するんでしょうか?」
「……初診の段階で見落としがあったんですよ」
「ほう? あんたぼんくらですか? さっきご自分でおっしゃった。高エネルギー外傷で心タンポナーデを疑うのは医者の常道だと。ならどうして、初診の段階でそのような見落としをするんですか。そこまでご自分で分かっておられながら」
「人間ですからね、間違いはあります」
悠然と言い放つ雪人の言葉に、宮崎がぴくりと反応した。声が、一段高くなる。
「救急の世界では」
白衣をまとう医師に対し、真っ向対立の構えだ。
「心タンポナーデは発症後数分の処置が明暗を分けるなんてのはそれこそあなたにとっては言うまでもないことのはず。なのにあなたはのんびりと、私とこんな雑談をしておられる。それに、外傷による心タンポナーデは、外傷を受けた直後に発症するものでしょう。ぶつける場所もないこんな病院のベッドの上で、なぜ急にそんな症状が現れたんです? いやそもそも、心嚢穿刺なんてこんな場所でやったら、ベッドが血まみれになりますよ。病室での処置なら、通常はドレーンを使うんじゃないですか? あなたの言ってることはだから、無茶苦茶だ。こちらが素人だからと、出まかせを並べているだけです」
「ほう」
感心したように、雪人は一つ頷くと、微笑みを返してきた。
「よく勉強しておられる」
「はい。――こんなこともあろうか、と」
「こんなこと?」
怪訝そうに、雪人が尋ねてきた。
「どんなことでしょう?」
「さっきのごとく、医療事故を演出し、義理の息子を手にかける、といったようなことです」
決然と、宮崎は断言した。
「たとえば穿刺の失敗に見せかけて、肺胞を突き破り、肺気胸を起こす、なんて手が考えられます」
「言いますね」
雪人が両手を拡げる仕草をして、再び宮崎に目を合わせた。
「私には何のことかさっぱりだが、その話は面白そうだ。……私はね先生。面白い話には目がないんですよ。カラマーゾフの兄弟をご存じですか?」
「先日、現代文の授業でやったばっかりです」
「ほう」
雪人が、目を見開く。
「するとあなた、学校の先生?」
「申し遅れました。私、県立Y高校で現代文の教鞭を執っております、宮崎達郎と申します。ちなみに高幡貴明君。――おそらくそこで横になっている患者さんと同一人物かと思われますが、彼のクラス担任でもあります」
「おお」
場の空気に不似合いな笑顔で、雪人が一礼した。
「息子がお世話になっております」
「いえいえこちらこそ。ご丁寧に。さて。ご丁寧はいいんです。――ただ先生。私も実は、面白くなってきたところでしてね。どうでしょう。朝まで時間はたっぷりあることですし、雑談など交えながら論戦、というのは」
「私は勤務中なんですがね」
雪人は迷惑そうにそう返してきた。
「この部屋はナースステーションから近い。ナースコールが鳴ればすぐに気づきますよ。その時はどうぞ、患者さんの方を優先して頂いて」
「患者、と言えば」
雪人は、傍らのベッドに寝ている人間を指し、鼻を鳴らした。
「彼も患者なんですがね。どうやらあなたは私に治療をさせないつもりらしい」
「そうなんです」
平然と、宮崎は相手の言葉を認める。
「私はあなたに、余計な治療行為をして欲しくないんです。特にそこの――怪我どころか傷一つない健康体であろう彼、高幡貴明君に対しては、ね」
ぷっ、と。
何故か雪人が、吹き出した。はは、と、次いで笑いが漏れる。
「いや、ご慧眼です。実はね。あなたがさっき、いいタイミングで声をかけてきた時に、もう全ては露見したな、と覚悟したんです。ですがせっかくの機会です。名探偵の名演説を拝聴したい。いいでしょう。朝までは無理ですが、三十分程度なら休憩の範囲内です。つき合いましょう」
「ありがとうございます」
宮崎も頬を緩め、改めて一礼する。犯人役と探偵役の対決場面とは思えない、和やかな空気が満ちている。――表向きは。
「もう一つ言いましょうか。傷一つない、はひょっとしたら言い過ぎかもしれません。そう、後頭部にたんこぶの一つくらいはあるでしょう。脳震盪を引き起こした痕跡、として」
「すばらしい!」
雪人は嘆息した。
「テレビなんかだとよく、暴れて抵抗する人間に麻酔を打って、なんて場面がありますが、暴れる相手に注射なんて、危なくて出来ないのが実状です。全身麻酔ならばやはり笑気ガスを使うのが一般的で安全なんでしょうが、装置が大げさになってしまいますからね。人間一人昏倒させるのは、実は意外と難しいんです」
「殴って昏倒させるのも、力加減が難しいですがね」宮崎は一言余計なことを言ってから、続ける。
「先ほどカラマーゾフの兄弟について言いかけておられましたが、その話はまた今度に致しましょう。一言で言うなら、あのお話はあなたには、向きません」
「ほう」
冷笑が浮かぶ。
「あなたが私の、何を知ってらっしゃると?」
「必要最低限のことを。としておきましょう。ただ、こんな風にランダムにこちらのネタを披瀝したところで、タイムテーブルが錯綜してしまい、無用の混乱を招く恐れがあります。ここはやはり、一連の出来ごと、人間関係、それらを順番に整理し追っていった方が、理解が早いと思われますが、いかがでしょうか?」
「……ええ。いいでしょう。拝聴しましょう」
手近にあった面会者用の椅子を二つ用意して、雪人はそこに座った。宮崎も彼に倣って腰掛ける。二人、ベッドの傍らに至近距離で対峙する格好となった。
(授業風景 その六 ~特別授業~)
雪人さん、とお呼びするのも馴れ馴れしいので、これまでに倣い、先生、とお呼び致しましょうか。先生。実は全ての発端は、沢井、という名の女子生徒が私のクラスにいるのですが、彼女とのちょっとした雑談からだったんですよ。
「――随分生徒と仲がよろしいようで」
そうでもないですよ。彼女は特別です。一年前、いろいろありましてね。ま、その話はいいです。で、彼女の告白からなんですよ。私が刑部八重、という生徒のことを知ったのは。
「その名前は、あまり聞きたくないですね」
でしょうね。ただ、聞いて頂かなければ話が続きません。今しばらくご辛抱を。
刑部と、沢井。実はこの二人、境遇がかなり似ているんです。二人とも両親、もしくは片親と死別しており、現在は親戚の家で育てられていることなどね。その辺でどうも、通じるところがあったと思われます。
刑部も、沢井には心を許し、自分の秘密を吐露していたようです。その秘密とは――言うまでもありませんね。あなたの、ことですよ。先生。
「告発しようってんですか? そんな大昔の事故を」
事故と言い張りますか。まぁよろしい。残念ながら告発しようにもこちらには手段がありません。今頃証拠保全の手続きをしたところで、何年も前の医療事故など、すでにもみ消した後でしょうし。
残念ながらその件は保留といたします。が。
その事故が。いや、事件が。彼女、刑部にどんな傷を残したか。あなたには想像がつきませんか?
「――とんと」
つまらない答えですね。さほど難しくない質問からお出ししてるつもりなんですが。続けましょう。刑部。彼女はね。ずっと、おそらく、今この時も。
あなたのことを愛し、憎めずにいるんですよ。母親を殺した張本人の、あなたをね。
「おだやかじゃないですね。事故だと申し上げたはずですが。それに、人を殺すのを恐れていては、医師は務まりませんよ」
ふん。あなたにこのような言葉が届かないのは覚悟しておりました。が、実際に目の当たりにするとショックが大きいです。私までもが少し、義憤というやつにかられそうですよ。私は本来、正義や義憤などといったものには、疑問を抱いている者の一人なんですがね。
「それについては、同意見です」
感情を込めると話が進まないので、以後は事実関係の確認のみに努めます。――刑部は、母親の死が父親であるあなたの故意によるものである、という事実にどうやって向き合っていいか、分からなかったんだろうと思われます。――無理もありません。小四の子にそれをやれ、と言っても無理な話でしょう。というか、誰でも無理ですそんなのは。
だから、彼女は。
まずあなたの気持ちを知ろうとした。……人を、母親を殺さなければならなかった、あなたの、闇を、ね。
「知って欲しいと思ったことは、一度もありませんよ」
そうでしょうね。ですが、今はその言葉、無視させて頂きます。彼女はだから、『死』を知りたがった。刑部は、しーちゃん、と友達に呼ばれているんです。これは、人が死ぬ話をいつも読んでいることからつけられたと聞きました。ニックネームとしてはいささか、イジメの部類に入るかもしれない、ショッキングなネーミングです。
それほどに、彼女はずっと知ろうとして焦がれてきたんですよ。あなたの気持ちを。あなたがなぜ、人の命を奪ったのかを。そして、人でありながら、人自身が他の人間の命を奪う、そんな願望の正体を。さらに突き詰めて、なぜ人は人の命を奪うのか、を。――ですが、子供がいくら求めたところで、その解答はあまりに広大無辺に過ぎる。求めても求めても埋まらない漆黒であっただろうということは、容易に想像出来ます。
おや。静かになりましたね。ちょうどいい。どんどん続けます。
さてここに、高幡貴明、という男子生徒が登場します。先生。あなたの義理の息子さんです。
どういうわけか先生。あなたは随分と子供さんには恵まれている。
あなたには想像もつかないことでしょうが、自分の子の将来。その行く末について思い悩み、躓いて非行に走った子供にどうやって接していいか分からない、と漏らしたりする親御さんは多いんですよ。
高幡。彼は非常に義侠心の篤い生徒です。真っすぐな、強い心を持っている。それは端で見ていて痛々しいほどです。その彼が、ある理由から刑部の境遇に心を痛め、彼女に声をかけるようになった。
「――ほう」
義侠心の篤い男子生徒が、傷ついて救われない女子生徒を前にして出来ることは少ない。その少ない行為の一つが、そっと手を差し伸べること、です。彼はそれをやろうとした。彼女の持つ闇を理解した上で、その闇を払拭しようと、彼もまた努力を始めたわけです。
――ですが。
お分かりかと思いますが、ここで厄介な壁が立ちはだかるんです。何が厄介って。ねぇ先生。二人の行く末は実に、真っ暗なんですよ。そうです。
あなたが、いることでね。
「私が何かしましたか?」
存在するだけで犯罪です。おっと失礼。感情的になってしまいました。刑部がね。どれだけあなたのことを知ろうと焦れたところで、彼女自身は、あなたと正面から向き合えるほど強いわけではない。また、高幡にとっても、自分が殺人者の息子でありながら、その被害者の娘と一緒になるなんてことを受け止められるほどの器など用意出来るはずもない。そもそも二人は、まだ高校生なんですよ? 高校生に一体、どれほどのことがやれるってんですか。
結果として。この恋愛は最初から、壊れる運命にあったわけです。――このまま、何もせず手をこまねいていると、ね。
先生――。
こういうのはなんて言えばいいんですかね。運命のいたずらですか? それとも、カルマの裁きとでも呼びますか? 言葉でどう表現しようと、糞みたいな現実です。現実は、現実です。覆りはしない。
それでも。
どうあっても覆すしかないんです。どれほど困難であろうと、その糞みたいな現実を、ね。
「どうもおかしな話になってきましたね。高校生同士の恋愛に、あなたが首を突っ込んだ、と? 教師のあなたが? あまりにもおせっかいな話じゃありませんか」
はい。否定はしません。さて。覆す、と息巻いてはみたものの、私もそっち方面は朴念仁の一人です。こういうのはね先生。女子生徒が一番詳しいんですよ。私の場合、こんな時に頼れるアイディアマン――アイディアウーマンと呼ぶべきか――が、三人おります。さっき申し上げた、沢井。そして、岸本、奥谷という名の女子。ここでは詳しいプロフィールは省きますが、この三人です。
――刑部は小説に造詣が深い。片や高幡は文字には疎い。そこで高幡に、小説を通して刑部という人物像を理解させ、共通の趣味を作り、かつ双方に語りかける、という手はどうか――。
これは、沢井の発案です。大人びてるでしょう? それでいてロマンティシズムに溢れている。いい考えだと思いました。そこで、私は岸本、奥谷、沢井の三人に依頼したんです、事情を全て話した上でね。
――友人として伝えたい言葉が載った小説があれば、それを一つずつ、選んできてくれ。後日私が授業の一環として、その言葉を刑部と高幡に伝えるから――と。
彼女たちの選んできた本は、岸本が、伊坂幸太郎「重力ピエロ」、奥谷が、乙一「ZOO」、そして沢井が持ってきた本こそ、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」だった、というわけです。
「ああ。それで先ほど、授業でやった、と。ふん。下らないことを考えたもんだ。ゆとり教育ここに極まれりという感じですね。他の生徒たちがいい迷惑だ」
私もそう思います。で、ですね。結局彼女たちの言いたかったこと。これら小説を通して、二人に是非伝えたかったこと、とは。実はたった一つのメッセージだったんですよ。三人、共通してね。
そのメッセージ、とは。
――あなたから、逃げろ――
たった、これだけのことですよ。誰が聞いたって明らかなこの一言。重力ピエロは、血の繋がりのない家族を家族と認めることで、下らないしがらみや悪意を超克する話です。ZOOは、残酷な運命から、自己を犠牲にして他者を救う話。カラマーゾフの兄弟は――沢井の言葉は、すさまじく挑戦的ですよ――たとえ血が繋がろうと、父親の役割を果たさない者など、父親ではない。そう訴えています。
「あれは、父親が死んだというのに兄弟三人自分の好き勝手に騒いでいるという、皮肉なドタバタコメディでしょう」
そう思うのは、あなたがそんな考えを持つような生き方をこれまで選択してきたからです。人間喜劇を気軽に標榜すると嫌われますよ。
さて。私がわざわざ時間を割いて、こんな恥ずかしい授業内容を暴露したのはね、先生。理由があるんです。ここからが重要なんですよ。
以上三作。これに、刑部自身が選んだ一作、桜庭一樹の『少女には向かない職業』を加えた都合四作について、私はひたすら語りました。刑部と高幡。このたった二人にむけてね。そう。ちょうど人工衛星打ち上げの際、第一ロケット、第二ロケット、と、次々とブースターに点火し、推進力を得て切り離す。あんな感じです。
言葉は無力だ。そう思ったことはありませんか? 共通した観念を持つ者同士ならばこの限りではないのですが、違う観念や思想を背景にする者が、いくら言質を弄しても、相手の心に届くことはありません。なぜか? モノがあっての言葉なのです。モノなき言葉はただの音声だ。自分の人生を通しての経験や体験、思考。失敗。喜び。そういったものが人間を育み、言葉だけで感性を共有する土壌を作るのです。この仮定をすっとばして言葉だけを発すると、これは坊主の説教と同じです。意味が通じない。私が段階を踏んで気の長い授業を繰り返したのは、だいたいそんな理由からなんです。
「ふん……青臭い。そうかあんたの影響か。貴明の『あれ』は」
――ところで、ですね。
実は私。この時点では自分がある決定的な思い違いをしていたことに、気づいていませんでした。
「思い違い?」
そうです。私は先ほど高幡本人を、義侠心に篤く真っすぐで、端で見ていて痛々しいほどだ、と語りました。さぁ。なぜ私がそこまで彼を高く評価したか。興味は――ありませんよねどうせ。ならば勝手に言わせて頂くまでです。
私は最初、彼が刑部に惹かれた理由を、いわゆる漠然とした恋愛感情だと思っていたわけです。自分の父親がかつての刑部の父親であったことすら知っていたかどうか、という程度。そのくらいに見くびっていたわけです。
ですが。
間違いでした。彼は、――とんでもない。全部知ってたんです。それに気づかされたのはほんのついこないだのこと。彼と直接対話した時。その時まで高幡を見くびっていた。これでは教師失格です。あなたに大きなことは言えません。
違和感はありました。私はさっき申し上げた授業を、四回に分けてやった。目論見としては、一回目『重力ピエロ』で高幡にあえて反発心を起こさせることで興味を惹き、二回目『ZOO』で刑部の気持ちを開かせ、三回目『少女には向かない職業』で高幡を刑部の真実に近づかせ、四回目『カラマーゾフの兄弟』で高らかに、先生、あなたという父親の存在を否定し、二人を個人レベルで結びつける。そんな予定だったんです。最初はね。
ですが。
予想外に、高幡の反応がよかった。よ過ぎたくらいです。一回目こそほぼ目論見通りだったものの、(その後の沢井の報告によると)二回目終了時点で既に高幡は告白を終え、三回目で決意表明をしてしまっていた。ですからね先生。四回目は蛇足だったんですよ。完全にね。
いったい、このズレはどこから発生したのか。ヒントは彼が語った、『カラマーゾフの兄弟』の感想にありました。
『誰しも、生きていく上で三兄弟みたく、何かが不足して生きている、なんてことが時として、ある。それでもなお、相手が何を間違いだと思い、何を正しいと思っているか、聞くことは出来るし、何を理想と考えているか知ろうとすることは出来る。そして……お互いが埋められる溝ってのも、あるのかもしれない』
高校生ですよ? 先生はさっきなんておっしゃいましたか? 『兄弟三人自分の好き勝手に騒ぐ皮肉なドタバタコメディ』でしたっけ。ま、どちらがどれだけ正しいなんてことを言い始めると嫌らしい話になるのでこの辺にします。彼の言葉は、そのまま彼の決断を表しています。そう。高幡は。
あなたと、対話するつもりだったんです。
言葉が通じないかもしれない、世界の違うあなたと、世界を共有しようとした。
正直、私は自分がどれだけ思い上がってたかを認識させられました。言葉で人を操ろうなんてのは、やっぱり人がやっちゃいけなかった。おかげでこんな、無用な諍いが、無用な悲劇が、無用な現実が露出してしまう。高幡にはいつか、自分の不明を誠心誠意謝ろうと思っていますよ。
彼の言葉で私もようやく気づいたんです。彼が最初から刑部の何もかもを知った上で悩み、苦しみながらも行動していたことを、ね。
さぁ。いよいよここから、謎解きが始まります。高幡が全てを。あなたが起こした犯罪、手口、それによって刑部に降りかかった災難。それら全部を知っているとしたら、じゃぁどのようなルートが想像されるか? あなたしかありません。
「私はそんな話、した覚えは――あ」
まさか。――そう思いましたか?
多分、その『まさか』です。
高幡。彼は私と会話した際、あるものをそっと手渡してくれました。そこから先は推理推測です。彼が渡したもの、とは?
答えを先に言いますが、それは『鍵』でした。文字通り、扉にかかった錠を開ける、あの『鍵』です。ミステリィの密室トリックで、必ず誰も使えない状況に置かれている、あれです。今回に限り現物は私の手に押しつけられていた。さぁ。どこの鍵か? という問題になります。
何とも、安直な話なんです。
刑部の事件について、あなたが話さない、とすれば。
あなた以外に知り得ようもない事実を、第三者が知り得る。そんな可能性があるとすれば。
そこに、何らかの手記のようなものの存在を疑うのは、常道です。
彼の置かれた状況と考え合わせれば、鍵は自宅の鍵であり、そこに私の求めるものがあると、彼は教えてくれてたんだ。そう容易に推測出来る。
つまり――。
拝見させて、頂きました。
「返せ!」
認めましたね。そう。これです。
あなたのアキレス腱――いや文字通りの『黒革の手帖』でしょうか――はここにあった。家宅侵入罪。窃盗罪。どうぞ訴えて下さって結構ですよ? 当然教師は辞めざるを得ません。軽く懲戒免職もんです。ですが、その時はそれ相応の仕返しをさせて頂く所存です。
ま、先ほど降参宣言なさったはずです。今更そんなもの書いた覚えはない、なんて否定はされますまい。だいたい、『医師となったのだ』なんて記述があって、関係者で医師はあなたしかいないことからも明らかです。つけ加えておくと、それ以前の記述にしばしば『看護婦』という言葉が使用されている。看護師法の成立により二○○三年以降、ナースの呼称は看護師とされています。このことからも、この記述者がある一定の年代以上であることが推察されるわけです。
「その手記は、研修医時代に書いたものなんですよ。今眺めれば、細かい間違いや青い表現も見受けられる。汗顔の至り、という奴です。あと、今は私は『ナース』と呼んでます。蛇足ながら、ね」
蛇足ついでにつけ加えますが、医療の荒んだ現場を暴露する箇所で、一時期話題となった医療過誤、医療事故のニュースにまったく触れられてないあたりからも、記述の古さが確認出来ます。
「そろそろいいでしょう。私は認めたんだ。それを返してください」
わけあって必要なのです。後で必ずお返しします。また、あなたの罪状を不利にするために使用しないこともお約束します。その上でもう少し、これをお預け願えませんか?
「……」
諦めて下さってありがとうございます。続けます。と言っても、後もう少し。高幡がいかにしてあなたの手にかかり、またいかにして病院内にいたあなたが高幡と接触出来たのか、という話を残すのみです。
これは、分かってしまえば実に簡単な話なんですが、事実確認に手間取りまして――お。どうやら間に合ったようだ。長口上のかいがあったというものです。さぁ先生、もう一人新顔をご紹介します。
O署の刑事第一課所属、久世響警部補です。
(主 題)
宮崎がそう言って右手をドア口に差し出したところで。足音が止まり、ドアが開く。
「お待たせ」
病室に入ってきたやさ男、久世響は、トレードマークのしまりのないにやにや笑いを顔に貼りつけていた。宜しく、と一言、雪人に向い合って声をかける。
「おお予定通り。ところで、俺たちがしてた話は聞かなかったよな」
「聞かなかった、ということにしておこう。ばれたらお互い、首が飛ぶ。給料のない生活は、コーヒーを入れないホットコーヒーみたいなもんだ」
「それはただのお湯だ」
久世の下らない冗談に生真面目に応対してから、宮崎は雪人に再び、向き直る。
「似たもの同士の友人、といった感じですな」
雪人のそんな皮肉を華麗に聞き流し、宮崎は説明を再開した。
「説明の必要もないくらい露骨なトリックなのですが、病院の内幕に通じてないとやや発想するのは難しいかもしれません。事故発生当時、先生は病院で勤務にあたっておられる。しかも事故発生三十分前からずっと、とある患者さんと口論を」
「口論ではないです。病状について説明してただけです」
「すみません。病状説明をしておられた。そしてジャストオンタイム、先生は病院で高幡貴明本人の治療行為に当たった。救急車の速度で、Y駅からここ病院まで十分程度。以上の話が真実だとすると、先生には高幡をホームから突き落とすことはおろか、彼と接触することさえ難しかったはず。さぁどうやって? ということになります」
宮崎は皮肉に口を歪めた。その嫌らしさに、雪人は閉口しているように映る。
「いい案だ、と思ったんですがね」
「いいかどうかはともかく、この手記を読んでから問題を眺めれば、解答は書いてあるようなものです。こんなのは初歩の入れ替えトリックだ。ただ――そうです。医者としてあるまじき残酷さだ。さぁ先生。分かっているんですが、先生の口からお願いします。事故に遭った、本当の患者は、どこに隠したんですか?」
雪人はわずか、震えるように身をよじったが、やがて平静を取り戻したのか、変わらぬ口調で白状した。
「階下の、六○五号室です。事故の治療を施してからここ(病室)に運び込んだ後、レセプトコンピュータ(診療の明細を記録するコンピュータ。患者情報の他に、病室、ベッドの稼働状況などの確認機能を有したものも存在する)を操作して、無人の六○五を有人にしておきました。本来深夜の巡回で、病室内まで立ち寄ることはないのですが、ドアを開けて幽霊が寝てた、なんて七不思議を現出するつもりもないのでね。貴明を処置した後、戻しておくつもりだったんですよ」
宮崎は苛立ったように問い返す。
「どこに戻すつもりだったと? 名も知らぬ事故の被害者は、高幡貴明という別の人格に成り代わってしまった。そしてここに本物の高幡を呼び寄せ、遺体の検案……失礼。死亡診断書を出した後は、全くの用なしになる体だ。用なしどころじゃない。存在が許されない体となる。――捨てにいくつもりだったんでしょう。山奥にでも」
「分かってるなら、訊かないでください」
めんどくさそうに雪人は返答する。
たまらず久世が、彼にもの申す。
「私は、こんななりですが刑事です。もしあなたを拘束することになった場合、あなたの言葉を調書に残さなければならない立場にある。迂闊な表現は慎むことですね」
「何を今更」
平然とした顔である。
痛罵を浴びせようとしたのか、久世がその表情を珍しく歪ませ、身構えたところを宮崎が制する。話はまだ終わっていない、ということか。
「高幡貴明とはなんのゆかりもない事故被害者・A氏を治療後、高幡を呼び寄せ、鈍器で昏倒させた後、笑気ガスによる麻酔を施してから本来の患者と入れ替え、医療過誤に見せかけて高幡を殺害。病院内での死亡は医者の管轄だ。しかも自分が遺族となる。自分の判断を得て、自分で死亡診断書を書き、この件は終了。即、件のA氏も殺害し、死体として遺棄。こんなとこですか」
「待て!」
久世が鋭い叫び声を上げる。
「そんなことが許されるか! 医療過誤とはいえ事件性が高ければ医師は当然、警察に報告義務がある! そもそも被害者は後日事情聴取の予定になっていた。死んだとなれば死亡診断書で済まされるか。異状死体扱いで司法解剖だ! あるはずの怪我がなかったり、事故と関係ない傷があったりしたら一発だぞ! 無茶苦茶だ」
「久世、義憤に駆られるのは分かるが、正しくない箇所がある。本件は事故として処理されていて、事件性が認められていない。医者は事故の被害者を治療しただけだ。そして、一応診察後二十四時間以内の死亡は、治療行為と関連性のある死亡と認定されたとしても、外から文句は言えないことになってる。警察に報告義務があるとおまえは言ったが、実は道義上そうすべき、というだけで、義務は発生しない。限りなくグレーゾーンだが、クロではないんだよ。残念ながら」
久世は何とか沈黙したが、納得出来ないという表情をしている。それに雪人が追い打ちをかけた。
「おみごと」
「おみごと、じゃねぇ!」
らしくない声を張り上げ――ようとして、ここが病院であることに気付き、食いしばった歯から絞り出すように声を出した久世である。宮崎はそんな彼の肩をぽん、と叩いてから、雪人に問いかける。
「高幡にしてみれば、深夜に呼び寄せられ、少し長引けば帰りの電車がなくなる。ゆえに最初から自転車でここまで来るだろうと先生は推察したんでしょう。深夜の高校生。自転車姿は記憶に残りにくそうです。タクシーを使われるとやっかいですが、高校生はタクシーという選択肢を思いつかないものですからね。元野球部で、体力もある。彼の母親は夜働くお仕事だ。母の証言も気にしなくていい」
宮崎は自分の指を眺めながら、つぶやくように語りかけている。
「実は久世が遅れて来たのは、高幡の自転車を探してもらってたためなんですよ。最近の子は自転車の前輪フレームに名前を書かないそうですね。ですが防犯登録ってものがある。ここに来たってことは、照会は終わったってことだな?」
台詞の最後は久世に尋ねたものだった。強く久世は頷く。
「だそうです。高幡が来院したことは、これで証明完了、と。ですがね。問題はそういうことじゃないんですよ先生。それこそあなたの手帳にあったように、普通に彼を病院に入院させ、薬物による医療事故を現出すれば、あなたは不必要に疑われる可能性もなかったはずなんです。なのに今回、ここまで手の込んだ案をお取りになった。無駄に罪を犯そうとしてるんです。死体遺棄。殺人は二件。死体遺棄と、殺人の一件は明らかに余計なんです。やるべき仕事も格段に増える。なぜか? という話になりますよね」
ここで宮崎は久世に、この場はもういいから行け、と、病室からの退出を促した。だが、宮崎の告発によって雪人は今容疑者に格上げされている。久世は決然と首を振り、残る意志を示したが、宮崎は聞き入れなかった。小声で、「お前にはまだやることが残ってるはずだ」と耳打ちする。その一言に、彼は迷いながらも退出を決断したようである。
やや乱暴にドアの閉まる音が、部屋に響く。その音には、多少久世の内心が現れているようだった。
「この件について私が推測出来ることは、一つ、です。ヒントは、ここにある黒革の手帖」
「その呼称は止めてもらえませんか。私はどちらかというと、本格嗜好なのです」
「これはどうも。ミステリィもお読みになる。私も大好きですよ。いつかこんな場所ではなく、気の利いたカフェかどこかで共にミステリィ談義でもしたいものですな。――では以下の呼称は手記、で統一致しましょう。当の手記。その記述の古さこそ、ポイントとなります」
軽く咳払いをして、ちらっと宮崎は傍らで眠る、包帯を巻かれた患者の方を確認する。目の前の医者が言うとおり、笑気ガスによる麻酔効果か。先刻から同じ体勢で寝入っており、自分たちの声にもまるで反応する様子がない。
「この手記では、『医師にとっての常識』として、カルテの改竄や医療事故の隠蔽など、素人の私なんかから見てなかなかにショッキングな事項が羅列されています。そして、いくつかは確かに、医療の分野全体においても事実だったのだろうと思われます。たとえば過去の野村病院。その凄惨な実態なんかを見るにつけ、当事者への怒りや被害者の皆さんへの同情は禁じ得ません。ですが」
そこで少し間をおいて、宮崎は一度椅子から立ち上がり、伸びをした。すぐに席に戻る。一方の雪人は、平然とした顔で同じ姿勢を取っている。さすが執刀も行う現役医師。宮崎は変なところで感心した。
「それも過去のことだ、とは言えないでしょうか? 医療事故のニュースは現在もしばしば耳にしますが、昨今の病院なんかでは、大病院でも安全委員会なんかを独自に発足させ、事故があった場合の事故報告書の提出、治療方法の検討会なんかが行われていると聞きます」
雪人は確かに、と頷いた。
「医療事故自体は昔からあったことだろうとは思います。ただ、民間に広く認識されたきっかけはと言えば、発端は一九九六年に明るみとなった、薬害エイズ訴訟ではないでしょうか。これを医療事故に分類していいかどうか、は議論の分かれるところでしょうが、薬品の安全性を世に問い、医療社会の認識を、医師全権依存から大きく脱却させたきっかけとなったのは間違いのないところでしょう」
ぽつりぽつりと。いつもの張りのある授業用の声ではなく、つぶやくように語る。空気は重い。
「社会全体にインパクトを与えるほどの事件なりがあり、そこから社会全体の認識が変わり、現場が様変わりする程の大きな動きが生まれる。そんなことがよくあります。管理教育の弊害を明るみにした校門圧死事件。少年法改正のうねりを生んだ酒鬼薔薇事件やバスジャック事件。そして先ほどの薬害エイズ訴訟。私の好きな言葉に、こんなものがあります」
“Never doubt that a small group of committed people can change the world.
Indeed, it is the only thing that ever has.”
「『世界の変革はいつだって、少数の人々の運動から起こる。実に、それ以外の変革などあり得ないのだ。』訳すと、こんな感じでしょうか。我流の訳で申し訳ありませんが。これは、マーガレット・ミードというアメリカの文化人類学者の言葉です。男女の性差は性固有のものではなく文化を背景にしている、という、ウーマンリブ、女性の社会参画を訴える根拠となった学説を唱えた人ですが、今は残念ながらその説は大筋で否定されています。ただ、彼女の残した言葉だけは、この世界のありようを正しく物語っているという気がするのです」
雪人は黙って聞いている。諸処に彼がひっかかりそうな文言が散見されるが、興味を示さず視線は一点、宮崎の瞳に注がれている。宮崎もまた怯まずに雪人の目を見返しているが、彼の双眸は厚い氷に阻まれているがごとく、その先を覗かせない。
「一言で言うとですね先生。あなたは疑われたんじゃないか、と思ってるんです。それも、かなり露骨に。医療事故ニュースの頻発をきっかけに、医療の現場は変わってきている、と私は言いました。そして、実際に変わっているのだとすれば、この手記を書いた医師と、医療現場との間に、越えられない溝が深まっていたのではないか、と考えるのは自然であろうと思われます」
どうでしょうか? と尋ねてみる。雪人は僅かに笑ったのみだった。肯定とも取れるし、否定とも取れる。
「刑部と元の奥さんを手にかけようとした時。実際に一人殺してしまった時。あなたの立場はこの手記における記述に反して、相当に悪くなったのだろうと私は推測しました。そうなると見えてくることがある。その後一年という時を置いて、あなたは現在の奥さん、高幡由紀子さんと同棲、結婚を決意しておられる。失礼ながら彼女、一般的な感覚からは、あまりお医者さんの奥さん向きではないように思われるのですが」
「アレがよかったんですよ」
「聞かなかったことにしましょう。私は先生、あなたが結婚を急いだのは、姓を……性じゃありませんよ。変なとこでマーガレット・ミードなんか持ち出したものだから、ヘタなギャグかと思われるところですが、それは濡れ衣です」
「何も言ってませんよ」
苦笑して雪人は口を掌で覆う。その仕草は追いつめられた容疑者の態度にしては、あまりにも優雅に映る。
「苗字を変えるためではないか、と推察したのです」
宮崎は慌てて結論を言った。
「結局それまで勤めていた病院を退職することを余儀なくされた。それが自発的であったのか院長の意図なのかまでは分かりませんでしたが、さっきの私の友人、久世の調査からそれも既に判明しています。先生がこちらの病院に移ったのは、刑部たちの事件があった一年後ですね?」
問いかけではなく、確認である。事件という表現に不満そうではありながらも、雪人は頷いた。
「由紀子さんには貴明という息子がありましたが、おそらく義理の親子、という関係性からあなたも、また彼の方でもお互いの存在を無視して過ごしていたのでしょう。しかし彼、高幡にとってはそれが幸運に働いていました。――すみません。先ほど後少し、と申し上げましたが、実はもっと続きそうです。この話をしておかないと――先生の、内に秘められた卑属的殺意(勝手に言葉を作って申しわけございません)、言うなれば子殺しの本能を刺激するには至らなかったということが、幸運と申し上げた理由です」
言葉を切る。雪人は退屈そうに自分の爪を見ていた。
「しかし私の愚かな授業のせいで、高幡はあなたと対話をする決意をした。してしまった。そして関係性を否定していたあなたの――怒りを、買ったわけです。これが本件の直截動機かと思われます」
「ふむ」
「ただ、先ほどから申し上げているように、医療の現場は少しずつ改善の方向に向かっている。そして、あなたが元勤めておられた病院でも、そしてここY病院でも、それは例外ではなかったのでしょう。だからこそあなたは――死体を一つ増やしてまで、面倒くさい方策を採らねばならなかった。高幡は列車飛び込みによる自殺を図り失敗しただけで、この病院に運ばれたことは偶然であると装った。これが患者変換トリックなんてものを用いた、大まかな理由であると考えます」
確認の意味で宮崎が首を傾げた。今度は雪人は頷かなかったが、肯定の態度、と取ってもいいように思われる。
「ここで手記の話に戻ります。私がこれを読んで興味を惹かれた点がありまして。それは、あなたのお父さんもまた、あなたを手にかけようとしていた、というところなんです。そしてまた同じように、あなた自身も母親のとっさの機転で、命を助けられている。いわば運命が連鎖しているのです。失礼。ちょっとクサい台詞を使ってしまいました。これはまるで、遺伝です。憎しみの遺伝。殺意の遺伝。親から子に、最も伝えてはならない感情ではないでしょうか」
異論を差し挟む時間を一拍、取ってみたが、相手の口からは何も発されない。宮崎は諦めて、一人孤独に言葉を繋いだ。
「いや。安易な言葉を選んでしまいました。違う。遺伝ではない」
――そこで。
今まで表情を崩すことがなかった雪人の眉が。
初めて、歪められることとなった。そして。
その変化を見逃す、宮崎ではなかった。
「おや。感情を刺激されましたか?」
余裕を取り戻した宮崎が語りかける。雪人は無言である。
「お前がどんなに言質を弄しようと、自分は揺らがない――そんなことを考えておられた?」
宮崎がさらに颯爽と言葉を紡ぐ。
「あなたを改心させようとか、ね。そんなことを考えて私がここに来たと思われていたのかもしれません。とんでもない。そんな無駄なこと、考えるほど私は暇人じゃない。あなたにはあなたの見えている世界がある。人の世界を変えるのに言葉を用いるなんていうのは普通に考えれば愚挙だ。正義は人の数だけ存在するのです。だからあなたの発想だって、いわば『正義』だ。たとえ他人にどれだけ醜く映ろうとも、ね」
たたみかけるような、宮崎の言葉。雪人がやや、たじろぐ。
「今までのはね先生。何遍も申し上げてますが、単なる事実確認なんです。ミステリィで言えば解決編。人間のあまりに醜い内面の奔流を暴露する露悪趣味的な一シーンに過ぎません。あなたにとっては退屈だったはずだ。だって全部、自分がやってきた所業の確認なんですから。行為のおさらいをされて喜ぶ人間などいないでしょう」
「分かっているのなら、早く終わりませんか」
雪人のその口調は、明らかに苛立ちを内包していた。
「言葉は無力だ。ちょっと前のことになりますが、私はそんなことを言いました。ですがね先生。それは思想や経験のバックボーンが異なるからこそ無力なだけなのです。逆を申しましょう。思想や経験則を、ある程度相手に近づけることが出来るなら。相手の意図を汲めるだけの発想があるならば。――言葉は恐ろしく、強力なのですよ」
「下らない。数学の命題を習わなかったのか? 逆は必ずしも、真ではない」
「試してみますか?」
挑発的に、宮崎が不気味にすら見える笑みを浮かべる。
「原子力発電が何故高度な技術を要するか? 核爆発、核分裂を制御しようとするからです。爆発させるだけなら簡単なんです。だから核爆弾なんていうのはある意味原始的な技術と言える。ウラン235なんて乱暴な言い方をすれば、勝手に分裂してしまう物質だ。野放図に相手をぶち壊すだけでいいんなら、そう高い技術は要しない。原子力発電所より原爆が先に生まれたのもそういう理由です。そしてこれは言葉にも同じことが言える。相手をぶち壊すだけの目的で発していいなら、言葉なんてある程度の精度で充分なんです。――そう。使い方さえ間違えなければ、ね」
今まで、溜まりに溜まってきたものを、吐き出すかのごとく。
宮崎は爛々とした性急さで、核心に切り込んでいった。
「この手記に」
ゆらり、と宮崎が手にした手帳を掲げる。文字通り黒い表紙の、無機質な、ただの紙を綴じた束を。
「復讐、という言葉が何度か使われている。気持ちは分かります。自分は父に殺されそうになった。だからその憎しみを晴らしたい。そう考えるのは人間の自然な性です。ですがね」
効果を狙い、呼吸を取る。相手のそれを、読みながら。
「さっき私が遺伝という言葉を誤用したように、親から受けた憎しみを子にぶつけるのでは、これは復讐とは呼べないのではありませんか? 親に受けた恨みなら、その親にぶつけるのが筋でしょう。あなたの親御さんもまた、そんな間違いを犯し、果たして連綿と憎しみが遺伝(また誤用をしてしまいました)していったのかもしれない。ただ、そんなのはあほらしい。単に憎む相手を間違えているだけだ。何も知らない、何も関係ない自分が受けた苦しみだからこそ何も知らない、何も関係ない子に対して恨みを残すのだ、という発想も分からないではないですが、それは私には言いわけに聞こえます」
「――言いわけ?」
「ええ。親を恨んでいると言いながら、本当のところでは親から受けた仕打ちを恐れ、親自身を恐れ、親から愛されなかったという現実を受け入れることを恐れるがあまり、親に意趣返しが出来なかったその事実に対する、言いわけです」
「違う!」
「違う、と思ってるだけです。いいですか? 復讐、という言葉を使うなら、意趣返しだとのたまうなら、どうか本人に返しなさい。それを恐れて無力な子供をいたぶるのは――と言うより、自分の憎しみを子にぶつけてそれを観察し、自分の痛みを再確認するその行為こそ、復讐というよりは、復習です。子供が学んだ内容の意味が分からずに、家に帰って同じことを繰り返して学ぶあれの意味であり、子供が虫を捕ってきては足をもぎいたぶって殺す、繰り返し遊技の意味でもあります。ただの確認作業です。つまりですね。あなたもまだ判じきれないでいるんだ。自分が受けたその仕打ちの、意味をね」
「黙れ」
「黙るわけないでしょう。ぶち壊すと言ったはずです。怖かったんだと認めてしまいなさい。死ぬかもしれないと怯えたんだと気づいてしまいなさい。自分の子が怯えを見せる姿を観察するまでもなく、大人ならそんなことは分かって当然なんです。それが分からないで、実際に試してみるなんてのは、復習が足りてない証拠。分数が分からないのに分数のわり算が分かるわけがない。マイナスの概念が分かってないのにマイナス同士のかけ算が理解出来るわけがない。あなたは単に過去で躓いて、そこから一歩も先に進めていないだけだ。手記を見れば弱肉強食は世の習いなんて言葉で誤魔化しているが、こんな言葉こそ弱い人間が発する常套句です。弱い人間だから潰されて当然。弱い人間だから殺されて当然。そんな分かり易い理論を捻ってるあたり、虫をいたぶる子供から全然成長してない証じゃないですか。このクソガキ。あなたの子供を見なさい。その精神的成長の速度を見習いなさい。死んでいい人間なんて一人もいないというところからスタートしている人間の法。それがどんな弱肉強食の犠牲から培われた発想なのか理解しようとしないで、ただ自分の過去ばかりに拘泥して大量虐殺者と同じ過ちに陥っている。この酸素の少ない現代社会で、弱肉強食理論をひけらかして自分だけ生き残ろうなんてのはおこがましいを通り越してお笑い草だ。自分が苦しい時にぐっと踏ん張って他人に差し伸べる手の温かさを、あなたの子供からもう一度学びなさい。私に言えるのはここまでです」
――沈黙。宮崎は立ち上がる。そこへ再び、久世が数人の部外者をともなって、部屋に入ってくる。宮崎は立ち上がって、荒い息を整えた。
そして雪人を、見下ろせば。
宮崎から目を背け、不必要に体を捻り、その視線を逃れようとしていた。それは、おそらく。
顔を見られるのが、嫌なんだ。そういうことであろうと思う。
周到な部外者が、警察手帳を見せた上で、時刻を確認する。午前二時五十四分。休憩なしの百二十分授業は、現代文教諭宮崎達郎の講義としては、最長記録である。
容疑は、殺人未遂の現行犯。久世によれば、過去の殺人容疑についても近く送検する予定であると言う。
そう。勝手に階下に移動された、件のA氏であるが。
久世の呼びかけにより別の当直医とナースが現場を確認。呼吸器も取り外されている放置状態から、ただちに必要な措置が執られ、バイタルも安定。無事一命は取り留めた、ということであった。
二度死にかけた命。今度は無駄にすることのないように、と願いたいものではある。
終 幕 (エピローグ)
そして日常。耐え難くも延々と続くそれが占める、ある日。
刑部と、高幡の会話。
「ね、貴ちゃん」
「貴ちゃんは照れる。止めてくれって言ってるのに」
「あなたが八重って呼ぶの止めてくれないからでしょ。しーちゃんの方がいいって言ってんのに」
「そっちの方がひどいだろうどう考えても」
「いいの。友達がつけてくれた呼び方だもん。それより――ね、貴ちゃんあの時、宮崎先生とあの人の会話、聞いてたんだよね?」
「俺は麻酔かがされて寝てただけだぜ」
「でも、聞いてたんでしょう?」
「――聞いてた」
「どんなことを喋ってたの? ね、ね、教えて?」
「どうしようもなく、クサいことをずっと喋ってた。宮崎が」
「そんな言い方ひどいよ」
「じゃぁ分かった。こう言おう。あいつは筋金入りの絶滅危惧種だ。つまり――果てしなく、どうしようもなく熱血教師なんだよ」
後日職員室で、刑部が戯れにこの話を宮崎にしたところ。
泣きそうな顔になりながら宮崎は、こう返してきた。
「熱血教師って呼び方だけは止めてくれ。俺は大嫌いなんだそう言われるの」
自覚はあるということだ。刑部は笑い、宮崎はふくれた。
中年男性がふくれるのを見るのは、おぞましい。そうさんざん言っているというのに。
そんなやりとりを終えてから、ふと宮崎は思い出したように、刑部に語りかけてくる。鞄から、あるものを取り出しながら。
「刑部、さ。ちょっと場所変えよう。話したいことがある」
「じゃ、隣の談話室で」
空の談話室で差し向かいに座る。宮崎が用件を切り出す。
「刑部、実は……お前の親父さんの話なんだが」
「大丈夫です」
快活な声で返す。警察に行った話は高幡から聞いていた。そこにもう憂いはないと、何度も自分自身に言い聞かせてきている。心の準備は出来ているという思いを込めて、刑部は頷いた。
「じゃ、話す。俺はお前がしーちゃん、と呼ばれていることを、知っている」
「そりゃ、宮崎先生ですから」
調子いいことを言う、と自分でも思った。しかしそれは本心である。
「ん。あのな。お前これから先、高幡と一緒に、新しい世界を築くつもりだろ?」
ぶわっ! 顔が赤くなるのが分かる。うう。私的事項に食い込んでくるなぁともじもじする。
「その上でお前がもう一段、越えておかなきゃならないステップがあると、俺は思ってる」
「何ですか?」
「人の死は避けられない。この世界はやっぱり、人の死を避けるようには出来てない。その中でお前が味わった辛苦は、人の死が日常に溢れるこの現実において、時に軽く見過ごされることが、この先あるかもしれない。でもそういう時、お前は傷つかなくていいと思うんだ。俺たち人間はつまるところ、獣を食い野菜を食らう業の深い生物だ。そんな生物がいちいち感傷的に死を眺めると、生命が疲れる」
「難しい話ですね」
「何を喋っていいか分からないから、重要なポイントの周りをぐるぐる回ってるんだよ。刑部。――しーちゃんを、止めてみないか?」
意味不明な宮崎の台詞に、刑部は大きなはてなマークを頭に浮かべた。どういう意味ですか? と首を捻る。
「果たしてお前に見せるべきかどうか、今でも俺は迷ってる。でもお前がこの先、命をぶれずに見つめるためには、通っておかなければならない道のような気もするんだ。――お前の親父さんの、内面を知りたくないか?」
びくっとしてしまう。それは。
「おとうさんて、刑部雪人、今の高幡雪人のことですよね?」
「そうだ」
端的な答えが返ってきた。
「そんなの、怖いです」
自分の体が少し、震えているのが分かる。嫌だ、見たくない、という気もする。だって。
それは見られないことを前提に、見ることを恋い焦がれて来たんだから。
見てしまえば打ちのめされるかもしれないと分かってるからこそ、小説なんかで紛らわせて来たんだから。
「――あるんですか?」
でもやっぱり、訊いてしまった。見たい。見たい。体の奥がそう叫んでる。ずっと求めてたのは、本当の台詞。偽りに自分を隠して注ぐ愛情なんかより、真実に自分に関心がなかったことを表す直情でいい。そこまで覚悟していた自分がいる。それも否定は出来ない。
「ほら」
あまりにも気軽に、宮崎から手渡された。質感のないA5サイズの、黒い手帳。おそるおそる中を開くと、そこにはシャープペンの固い芯で書かれたであろう薄い文字が、神経質に並んでいた。
これがおとうさんの、本、心?
「誤解して欲しくないのは」
手帳に心を囚われそうになっている刑部に、宮崎の声が降ってきた。慌ててページから目を逸らし、宮崎を見る。
「彼の字で書いてあるからといって、これがまるっきり本心であるとも限らないってことだ。日記だって、事実の取捨選択をするだろう。そこには刑部雪人という人間が恣意で選んだ、彼にとって手触りのいい世界が羅列してあるに過ぎない。その世界が即ち彼のインナースペースそのものだと考えると、重要なことを見落とすかもしれない。大事なのは」
「分かってます」
刑部は言う。今までずっと、かけられてきた宮崎からの言葉。その全てを大切に持ってますよ、と言うつもりで、刑部はにっこりと、微笑んだ。
「私はもう揺らぎません。だってここは――私の、世界ですから」
どうだ! と胸を張ってみたところ、宮崎は苦笑しながらも、優秀だ! と言ってくれた。
一礼して、談話室を出る。職員室に帰ろうとする宮崎の背に、刑部はもう一度感謝の気持ちを込めて、こんなことを言ってみた。
「ありがとうございます。ル・シャスール」
「赤城毅か」
首だけくるっと振り向かせて、宮崎がそう返してきた。さすが! と刑部が親指を立てる。そんな仕草さえ、今は自然に出来る。
そして刑部は大部分の人間にとって退屈であるはずの日常を、最高の伴侶と共に、最高の友人と一緒に、最高の人々と足並みを合わせ、最速で駆け抜けていった。
卒業の日。沢井、奥谷、岸本から一緒に帰らない? と誘われたが、刑部と高幡には実は腹案があり、寂しいけれど教室で皆と別れることにする。別れるときにメッセージカードを交換し合い、携帯のアドレスが変わったら絶対教えてねと確約し合って、一団に手を振り続けた。
そして二人は、教室に残る。
(手記の質)
人間として生きていく以上、誰だって殺したい人間が一人くらいいるもんだろう。――かつて、そう語った人があった。
単純に、それを殺意と呼ぼう。その殺意が、意識の外へと溢れ。実際に行為として固化してしまった場合。初めて具体的な罪となる。罪が現れるところ生じるのはいわゆる、「犠牲者」である。
以下は、とある犠牲者が語る覚え書きである。
――私はかつて、殺意にさらされた経験を持つ。
その昔つまらない人間であったはずの、この私という自己を、殺意によって命を奪わんと画策した人間とは――。私の、実の父であった。
そこにどんな動機が潜み、どのような感情が込められていたのか。実に殺意にさらされた張本人、被害者には、思い当たる節がない。
その被害者に出来たこととは、ただただ、推測である。
後日談として、遠回しに語られた、犯人本人からこぼれ出た情報、言葉、記憶を集めた一冊の手記から、自分なりの仮説を紡ぎ出したというわけだ。
そしてついに――私は、自分自身に父の殺意を起こさせるような直截的な原因を有していないことを確認するに至った。
――悲しいかな。世界にはこういったことが溢れている。
生まれてくる喜びを享受出来る者は。生まれた後人間として成長出来る者は。そして人間として死んでいける者は。
ほんの一握りだと、私の大切な人はよく、言っている。
父が人間であったのか。私には結局、分からない。
分かったことは、少なくとも一人の人間でありたいと願っていた父の、どうしようもなく捩れてしまった悲しい思い。
その思いを持て余して、復讐という言葉に逃避してしまった父の、一人の男の、内面としての現実があるばかりだった。
私の尊敬する、一人の教師はかつて、こう言ったことがある。
親子という関係は、宿命的であると。
だが、もしその宿命が、血や遺伝子のみによって縛られるものであれば。性質が伝えられるというだけのつたない繋がりであるならば。
いつだって私は、そんな運命を軽く、超克する所存である。
私はもう、死を恐れていない。
いや、こう言うと語弊があるか。
望まない死にも、通り魔にも、飢餓にも、戦争にも。
大量虐殺にさえも理由があり、その醜い理由が人間の、人間たるどうしようもない愚かさから生まれ出たものであろうと。
私は、私だけはそれらを全部、愛して見せよう。
そしてその人たちが、生きていたってしょうがないとか、命なんて意味がないとか、そんな弱音を吐いた瞬間を、そっと聞き届け、この心に留めておこう。
記憶と記録。クサい台詞だが、言葉は、無限だ。
遺された言葉に思いが宿る時。人は動き始める。
――世界の変革はいつだって、少数の人々の運動から起こる。実に、それ以外の変革などあり得ないのだ――。
成層圏を越え。
私は。私たちは今これから、グルグル回って、人間になる。
そこでは
(エピローグ 続き)
そこまで刑部が書いた時。
例の、黒い手帳を開いたページの上に乗せられた、刑部の手。そこに被さるように彼の手が、そっと重なった。
笑顔で刑部は、自分の持っていた筆記具を彼に預ける。
彼は男らしい気張った文字で、繊細な刑部の筆跡に続けて文章を書き記していった。
(手記 その本質)
そこでは誰もが、夢を見ていることだろう。
アイハブアドリームで始まる歴史的なスピーチを、あの大勢の観衆を前にして語った、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような夢を。そしてそのドリームは、みごと四十五年後、イエスウィーキャンという簡明な言葉を発するアメリカ初黒人大統領に受け継がれた。こんな現実だって世の中にはある。だから捨てたもんじゃない。
夢。こんなにも手垢にまみれてしまった言葉ですら、きっと誰かが希望を込めて遺していった言葉だ。
唱え続ける限り、それはどこかに届くだろう。そう信じていればいい。世界を。世界の変革を信じて、生きていけばいいんだ。
そう理解することが出来た、今。
十八歳となり、これから人間となる、私たち――刑部八重、高幡貴明は。
この世の遍く全てのイカれた現実と、遍く全てのどうしようもないネガティブを。
自分たちの中にある、ありったけのポジティブで全部、塗り替えていってやることをここに表明し、宣誓する。
さぁ、現実よ。
かかって来なさい。
<参考文献 及び参考資料>
『「心の時代」と教育』・小沢牧子 箸/青土社
『重力ピエロ』・伊坂幸太郎 著/新潮社
『ZOO』・乙一 箸/集英社
『少女には向かない職業』・桜庭一樹 箸/東京創元社
『カラマーゾフの兄弟』・フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 箸 亀山郁夫 訳/光文社
『書物狩人』『書物迷宮』・赤城毅 箸/講談社
『患者のための医療事故法入門
~いま、「密室」で何が起きているか~』・古瀬駿介・吉川孝三郎 箸/光文社
『シミュレーションで学ぶ救急対策マニュアル
~事故・事件・アウトドア編~』・千代孝夫 編/羊土社
『注射薬の重大な副作用回避の為の情報集』・日本病院薬剤師会 編/じほう
『大活字 薬の事典 2008年版』・林泰 箸/ナツメ社




