涙のイデア、その形
高校一年の秋。僕は校舎裏の木の下で途方に暮れていた。
目の前のさっき名前を知った同級生に声をかける。
「ねえ、どうして泣くの?」
「……だって、まさかっ、本当に付き合ってくれるとは、思わなかった、からっ」
彼女は流れる涙を両手で止めようとするが、その行為は無意味に近かった。小さな手の隙間を縫って涙は流れ落ちるばかり。
僕はため息を吐いて彼女に自分のハンカチを差し出す。
「これ、使いなよ」
彼女は少し時間をおいてハンカチを受け取った。
片目をハンカチで抑え、口と鼻を隠しながら恥ずかしそうに笑う。
少し好みだな、と思ったから告白を了承した。それ以外の理由は何もない。そもそも彼女の事は何も知らなかったのだ。
彼女だってそれは分かってるだろう。
ハンカチは後日、アイロンまでかけられて返ってきた。
高校二年の春。彼女が僕の家へ遊びに来た。
下心があった。認めよう。大体、僕くらいの男なんて付き合う目的の九割は下心だろ。
掃除もしたし、イメトレもした。抜かりは無かったはずだった。
しかしその事に及ぶ遥か手前、部屋に入って十分後。
「ねえ、どうして怒ってるの? いや、怒っていらっしゃるの?」
ベッドに座った彼女は目を合わせずに答える。
「別に怒ってなんか無いよ? ただ、あなたの机の上にもの凄い美人の女の子と一緒に写った写真があるなぁ、と思っただけ。大事そうに額縁にまで飾って」
その言葉に僕は自分が座る机の上を見た。
長めの黒髪を風になびかせる快活な笑顔の女性。その女性に肩を組まれて体勢を崩しながら、困ったように笑う僕。
何の事はない。中学校の卒業式での幼なじみとの一幕だ。
別に幼なじみに恋愛感情なんて微塵も無いし、あっちだってその美しい容姿に見合った彼氏とずっと付き合っている。
ただの写真だし、やましい事は一つもない。
彼女は立ち上がり、服に付いた糸くずを手で払った。
「じゃあ、あたし帰るね」
「え」
何故だ。一体何が悪いって言うんだ。納得出来ない。
僕はそれを言葉にする。
「いや、それはただの幼なじみだし、別に関係ないよ。ただの思い出。卒業式の写真くらい良いじゃないか」
彼女は鞄を持った。
「うん、別に良いよ。だから今日は帰るね」
そう言って部屋から出ようとする彼女。その小さな手を掴んだ。
「ちょっと待ってって。本当に何も」
言葉の途中で気付く。彼女の手は震えていた。
「離してよ」
高めの声は僅かに揺れている。
そう言えば彼女に触れるのは初めてだな、と場違いな事を思いながら僕は言う。
「えっと、どうして泣いてるの?」
「知らないっ」
僕はポケットからハンカチを出した。
「はい」
彼女は顔を見せないままハンカチを受け取る。
僕はとりあえず安心して手を離した。少し名残惜しい気がする。
彼女はハンカチを僕に投げつけて出て行った。
高校二年の冬。クリスマスがやって来た。今日は彼女の家で二人だけのパーティーだ。
願わくば、と思いを込める。結局付き合って一年以上経つ癖に何一つ出来て無い。友達には根性無しと言われ、幼なじみには甲斐性無しと言われた。うるさい。
彼女の部屋で床にお菓子を広げる。未成年だがお酒も少し用意している。飲んだことは無いが、馬鹿みたいな飲み方をするつもりは無いし、大丈夫だろう。
――大丈夫だと、思ってました。
「あはははははっ、飲んでるぅ? 飲んでる!」
そう言ってまた馬鹿笑いする彼女。どうやらかなり酒に弱い体質だったらしい。しかも笑い上戸だ。
目の前で笑い続ける彼女に若干尻込みしつつ、僕は度数の低い酎ハイを飲む。ちょっと不味いジュース程度でなんて事は無い。
「飲んでる飲んでる。めちゃめちゃ飲んでる」
「なにそのリズム感っ! うふふふふ、面白いねっ」
うははははっ、とまた笑い出す彼女。大丈夫か、心配だ。
「あー、楽しいね。ふふっ、あなたと一緒にいると本当に楽しい」
笑いすぎて出た涙を袖口で拭きながら彼女は言う。
僕は何もしていない。ただ笑う彼女の瞳を上手く見返せなくて、目を逸らした。
目を合わせられないまま、ポケットからハンカチを差し出す。
「はい、使いなよ」
「うん、ありがと」
ハンカチを受け取った彼女は小首を傾げた。
「あれ、ハンカチは三つも要らないよ?」
へ、と思ったその瞬間、彼女はハンカチで口を抑えた。
「うぷ」
ジーザス。慣れない酒を飲んだせいだ。
当然この後にドキドキイベントが起こるわけが無く、心で泣きながら家に帰った。
ちなみにハンカチは殉職した。
高校三年の夏。僕達は別れた。
「それじゃあ、ね」
「ああ、元気で」
駅の改札。短い言葉を交わして、僕達は互いに背を向けて歩き始める。
理由はよくあるすれ違い。彼女は大学へ行くために受験で忙しく、僕は一カ月前から始めたバイトにかかりきりで時間が無かった。電話が繋がらない事も多かったし、二人で会う時間なんて殆ど無かった。
ただ、それだけの事。
駅を出ると空が見えた。雲一つ無く快晴。日差しが肌を焼く。多くの人が歩き、蝉が命を燃やして鳴いている。
そもそも僕は彼女を好きだったのか。付き合った理由はただ彼女が少し好みだったから。それ以上でもそれ以下でも無い。その程度ならその辺にごろごろいる。
例えば彼女と髪型が似た、あそこで急いでいる女性。あの髪型は好みだ。欲を言えば彼女のように黒髪が良いが。
例えば彼女と体型の似た、木陰で休む女の子。まあ僕に幼女趣味は無いし、彼女と比べるとやっぱり胸が見劣りする。
例えば。例えば。
立ち止まってポケットからハンカチを取り出す。新しく買った可愛らしいハンカチ。結構値の張る良いやつだ。
自分のハンカチは別にポケットに入っている。このハンカチはよく泣く彼女の為にバイト代をはたいて買ってきた。
別れを告げられるために今日会うことは分かっていた。しかし僕にはこれから彼女が泣くときに、彼女が僕以外の人間からハンカチを借りる事は耐えられそうに無かった。
だから、せめて自分で拭けるように。誕生日のプレゼントの為に買っていたこのハンカチを今日は持ってきた。結局渡せなかったが。
手に力が入る。値の張る可愛らしいハンカチが手の形に歪んだ。
僕は殆ど泣かない人間だ。泣けない、と言った方が正しいかもしれない。悲しさや寂しさは感じるけど、それが涙腺に繋がらない。
上を向く。太陽が眩しい。新品の、しかも自分の物じゃないハンカチをしわしわにしてしまった。太陽の馬鹿やろう。彼女は許してくれるだろうか。
優しかった、彼女は。
無性に彼女に会いたい。一目で良い。もう恋人じゃ無くても良い。
そう、このハンカチを渡すだけ、それだけで良い。ただそれだけだ。それ以上は望まない。
こんな少し汚れたハンカチは返されるかもしれない。それでも仕方ない。
僕は振り返り駆け出す。まだ彼女の町に続く電車は出発してないのだろうか。焦る心を抑えて入場券を買い、改札を抜ける。
何度も彼女と乗った二番乗り場。電光掲示板には後一分で電車が出る、と書いてある。
神に縋る気持ちで階段を駆け上がる。長い。遠い。どうしてこんなに長ったらしいんだ、と駅長を恨む。後一分なんて曖昧だ。今すぐ出てもおかしくは無い。
階段の先に電車が見えた。乗り込みは済んだらしく、出入りの無いドアがただ開いている。
間に合った、と思ったその瞬間。ドアが閉まった。
階段を登りきり、動き出す電車をただ見つめる。窓から見えないか、と必死に彼女の姿を探すが見つからなかった。
たった一目見る事も出来なかった。最後に交わした言葉は何だったっけ。想いだけが頭を巡る。こんなあっさりとした終わり。泣けない僕には相応しいのかもしれない。
手に握っていた可愛らしいハンカチをポケットに戻して、僕は近くのベンチに腰掛けた。次の電車に乗ろうか、なんて考えたが、それじゃストーカーだ。振られた腹いせにストーカー。笑えなさすぎて失笑が出た。
とりあえず駅から出ようかな、と思って立ち上がる。
何かが聞こえた気がした。
まさか。僕は奥に進む。自販機を通り過ぎ、喫煙所を通り過ぎ、大きめの柱のその死角。
彼女は、座り込んで泣いていた。
嗚咽と共にポロポロと零れる涙を必死に両手で拭うが、溢れ続けるそれはコンクリートに染みを作る。
「ねえ、どうして泣いてるの?」
僕の言葉に彼女はびくりと体を震わせ、涙で濡れた瞳をゆっくりと覗かせた。
「どうして、あなたがいるの?」
僕はポケットから可愛らしいハンカチを取り出した。
「これ、あげるの忘れてて」
そう言って差し出す。
彼女は受け取らずに、首を横に振った。
「……貰えないよ。だって、あたし達はっ、もうそんな関係じゃ無いんっ、だから」
言葉の途中でまた泣き出す彼女。強く瞑った瞼からまた涙がこぼれ出す。
その涙を見て僕はいてもたってもいられなかった。
「ごめん」
そう言いながら彼女の柔らかい頬に手を当て、ハンカチで涙を拭いていく。彼女は抵抗しなかったが、次々に出てくる涙は止まらなかった。
その涙を拭きながら僕は言う。
「君が告白してきた時さ。僕、全然君のこと知らなかったんだよ」
「…………知ってた」
くぐもった声。
僕は続ける。
「君と話した事なんてなかったし、実を言うと名前も知らなかったんだ」
涙が量を増し、顔が下を向きそうになる。
それを止めて僕は言う。
「でも、今は君がすぐに泣くことも、ちょっと嫉妬深いことも、お酒に弱いことも、色んな事を知ってる」
「…………でも、あなたは好きだって言葉も、キスのひとつもしてくれなかった」
思い返せば確かにそういった事はしなかった。初めはタイミングが無かったが、途中からはなぜかそういう行為が怖くなっていた。自分でも良く分からないが、先に進むのが不安だったのかもしれない。あの関係が変わりそうで。
僕は自分から行動する事を拒否していたらしい。彼女の言葉にそんな結論に辿り着く。
だったら、今やる事は一つだけだ。
「僕は、君が好きだ。もう一度付き合ってくれないか」
彼女は首を小さく横に振る。
「あたしにっ、そんな資格無い。勝手に焦って、勝手に別れたわがまま女にっ」
僕は彼女の顔を上げさせる。涙と鼻水で酷い顔だ。
「資格なんていらない。君は君のままで良い」
だから、と僕は言う。
「僕と付き合ってくれ。君が好きなんだ」
僕は初めてキスをした。少ししょっぱい。
結局ハンカチは渡さなかった。彼女の涙を拭くのは僕だけだから。
社会人生活五年目。高校を出て僕はすぐに就職した。普通の中小企業の会社員。
彼女とはもう恋人では無い。
いや、これから恋人では無くなる。
「では、誓いのキスを」
神父の声が鼓膜を揺らす。初めから緊張しっぱなしで、途中まで何を言っていたか覚えていない。
隣に立つ彼女は純白のウェディングドレス。向き合って薄いベールを上げる。
「…………僕、もの凄い緊張してる」
「ふふっ、あたしも」
笑う彼女の瞳は潤んでいて僕の心をこれでもか、とかき乱す。
はやし立てる友人達の声は心臓の音にかき消される。
紅の唇を見て、僕は覚悟を決めた。
柔らかい感触と彼女の匂い。友人達の歓声。きっと僕の騒がしい心臓の音は彼女に届いている。
ゆっくりと離れる。
ふと、彼女を見ると笑顔で僕を見たまま、綺麗な涙を零していた。
「ねえ、どうして泣いてるの?」
嬉しく無かったのだろうか。そんな不安がよぎる。
返事は無かった。代わりにもう一度、唇に柔らかな感触が伝わってきた。
教会の鐘の音が響く。
涙のイデア、その形 了