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「もう用済みだ」と捨てられた毒見役令嬢ですが、私の記録簿なしでは王宮が回らないようですよ

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/16

「セレーナ。お前にはもう用がない」


 王太子エドヴァルドの声が、謁見の間に響いた。

 傍らに立つ令嬢――マリアンヌ・デュボワが、扇の陰で小さく微笑んでいるのが視界の端に映る。

 セレーナ・アシュフォードは、膝をついたまま静かに顔を上げた。


「承知いたしました」


 五年間、この言葉をどこかで待っていた気がする。

 毒見役の任を解かれる。それはつまり、もう毒を飲まなくていいということだ。

 そう思った瞬間、胸の奥にじわりと広がったのは悲しみでも怒りでもなく、ただ静かな安堵だった。


「あら、泣かないのですか?」


 マリアンヌが扇の向こうから声をかけた。蜜のように甘い声だった。


「五年間もお仕えしていた殿下に、突然お暇を言い渡されて。悲しくないのですか?」


 セレーナはマリアンヌの方を見なかった。見る必要がなかった。

 この女の声には、嘲りの甘さがある。セレーナの舌は毒だけでなく、人の声に含まれる悪意の味も嗅ぎ分けてしまう。


「マリアンヌ様にご心配いただくほどのことではございません」


 それだけ答えて、セレーナはエドヴァルドに向き直った。


「では、引き継ぎについてご指示をいただけますか。毒物記録簿の保管場所と、新任の方への申し送り事項がございますので」

「そんなものは不要だ。マリアンヌが推薦した新しい毒見役が明日から着任する。お前は今日中に私室を空けろ」


 記録簿が不要。

 五年分、千八百日以上の記録が、不要。

 セレーナは一瞬だけ目を閉じた。それから、いつもと同じ声で答えた。


「かしこまりました、殿下」


 立ち上がり、一礼し、背を向ける。

 マリアンヌが何か得意げに言ったようだったが、聞こえなかった。

 聞く必要もなかった。

 五年間、この回廊を何千回歩いただろう。毒見のために厨房へ。記録のために書庫へ。解毒薬をもらいに薬師の部屋へ。

 その全てが、今日で終わる。


「(……ああ、軽い)」


 五年ぶりに、体が軽かった。

 回廊の窓から差し込む夕日が、帰り道を照らしていた。いつもは毒の残滓で霞んでいた視界が、今日はやけに澄んでいた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 毒見役。

 それは王太子付きの侍女の中でも、最も過酷な役職だった。

 王太子の食事、飲み物、薬湯、果ては外国からの贈り物の菓子に至るまで――全てを先に口にし、毒の有無を判定する。万が一毒が含まれていた場合は、自らの体で証明することになる。


 セレーナがこの役職に就いたのは十八歳の時だった。

 侯爵令嬢でありながら毒見役に選ばれた理由はただ一つ、彼女の舌が異常なまでに鋭かったからだ。

 幼い頃から、食事に混じるわずかな異物を言い当てた。井戸水の微妙な違いを感じ取った。それを王宮薬師が見出し、才能と呼び、エドヴァルドの安全のために差し出した。

 本人の意思を聞く者はいなかった。

 婚約者だった子爵家の嫡男は、任命の翌月に婚約を破棄した。


「毒見役の女を妻にはできない。何かあれば我が家の恥になる」


 セレーナは泣かなかった。

 代わりに、記録を始めた。


 毒物記録簿。

 革表紙の分厚い帳面に、彼女は毎日の毒見結果を書き記した。日付、食事の内容、検出された毒の種類と推定濃度、混入経路の分析、自身の症状の経過、解毒までの時間。

 さらに彼女は、毒の出所を独自に調べ上げた。

 厨房の誰の手を経たか。食材の納入業者はどこか。同じ系統の毒が前回検出されたのはいつか。その時の納入業者は。背後に誰がいるのか。

 毎晩、震える手で書いた。

 毒の残滓で胃が痛む夜も。味覚が麻痺して三日間何も感じられなくなった週も。高熱で意識が朦朧とした朝も。


「(記録は嘘をつかない。人は嘘をつくけれど、記録は絶対に裏切らない)」


 それだけが、セレーナの支えだった。


 五年間で帳面は三冊になった。

 その中には、王宮の暗部が全て詰まっていた。誰が、いつ、どんな毒を、どの経路で王太子に送り込もうとしたか。未遂も含めて、百二十三件。全てが日付と根拠と共に記されていた。


 忘れられない夜がある。

 三年目の冬。晩餐の白ワインに混入されていたのは、遅効性のトリカブト系の毒だった。セレーナは一口で気づいた。舌の奥に、花の香りを纏った痺れ。しかし口に含んだ時点で、粘膜からの吸収は始まっていた。


「殿下、このワインはお控えください」

「……またか。大袈裟だな」


 エドヴァルドは面倒そうに杯を押しやった。感謝の言葉は一度もなかった。五年間で、ただの一度も。

 その夜、セレーナは自室で倒れた。四肢の痺れ。嘔吐。一時的な視力低下。

 解毒薬を飲んで横になりながら、天井を見つめた。見えなかった。目が見えなかったから。暗闇の中で、体の震えだけが自分が生きている証拠だった。

 誰も来なかった。侍女すら、毒見役の私室には近づきたがらない。毒が移ると思われていたのかもしれない。


 翌朝、視力が戻った時、最初にしたことは記録を書くことだった。


「三月七日。検出:トリカブト系アコニチン類似物質。推定濃度〇・三ミリグラム。経路:ワイン。納入元:ロッシュ商会経由。症状:四肢痺れ、嘔吐、一時的視力喪失。解毒まで六時間。備考:本日は書字に支障あり、記録は翌朝補完」


 震える手で書いた。一文字ずつ。確実に。

 泣きたかった。本当は泣きたかった。でも涙を落とせばインクが滲む。記録が読めなくなる。だから泣かなかった。

 記録だけは、完璧でなければならない。この帳面だけが、自分が五年間ここにいた証拠なのだから。


 エドヴァルドは翌朝、何事もなかったかのように朝食を取っていた。セレーナが一晩中苦しんでいたことを、知りもしなかった。

 

「セレーナ、今日の食事は安全か」

「はい、殿下。問題ございません」

「うむ」


 それだけだった。毎日、それだけだった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王宮を出た日の夜。

 実家の侯爵邸に戻ったセレーナは、荷解きをしながら自分の手を見つめていた。

 荷物は少なかった。着替えが数着と、三冊の毒物記録簿。それだけが五年間の全てだった。


「(……温かい)」


 指先が、温かかった。

 五年間ずっと冷たかったのに。毒の影響で末端まで血が巡らなかった指先に、じわりと熱が通っている。

 微熱も消えていた。代わりに、不思議な感覚がある。体の隅々まで、何かが満ちているような。浄化されていくような。


「お嬢様、お客様がお見えです」


 侍女の声に、セレーナは眉を上げた。追放された初日に客など、心当たりがない。


「お通ししてくれますか」


 客間に足を踏み入れると、長身の男が窓辺に立っていた。

 黒髪に灰色の瞳。仕立ての良い外套。胸元には隣国アルヴァスの紋章。

 セレーナは一瞬で相手を認識した。外交文書でその名を何度も書いたことがある。


「隣国アルヴァスの宰相閣下――レオンハルト・ヴァイスベルク様」

「ご存じでいただけて光栄です。非公式の訪問ですので、どうかお気を楽に」


 レオンハルトは穏やかな声だった。しかしその目は真っ直ぐで、どこか切実さを帯びていた。


「お願いがあって参りました」

「……お願い、ですか」


「三年間、あなたの記録を読んでいました」


 セレーナの手が止まった。


「外交上の毒物情報共有協定に基づき、毒物記録簿の写しを定期的に受領しておりました。国家間の安全保障に関わる情報ですので。最初は純粋に政務資料として読んでいたのですが」


 レオンハルトは一歩、近づいた。


「読むうちに気づいたのです。記録の行間に、書き手であるあなた自身が刻まれていることに」


「……行間に」


「三月七日、検出された毒はトリカブト系。解毒まで六時間。備考に『書字に支障あり、翌朝補完』と。つまりあなたは六時間苦しんだ翌朝に、震える手で昨夜の記録を正確に書き直したのですね」


 セレーナは答えなかった。


「七月十二日、砒素系の微量毒を検出。備考には『味覚が三日間回復せず。記録は触覚と嗅覚の所見で代替判定』。味を感じられないまま、他の感覚で毒見を続けた」


「……それが、私の仕事でしたので」


「十一月二十日の記録には、こう書いてありました。『本日より食材納入業者の信用調査を独自に開始。厨房経由の混入経路を絞り込むため』。誰に命じられたわけでもなく、あなたは自分の身を守るために調査を始めた」


「記録の精度を上げたかっただけです」


「それを『仕事』と呼ぶ人が、五年間一人で全てを背負っていた」


 レオンハルトの声が、わずかに震えた。


「そしてその全てを、王太子は『不要だ』と切り捨てた」


 セレーナは静かに微笑んだ。五年間で身につけた、感情を表に出さない微笑みだった。


「それで、宰相閣下のお願いとは」


「二つあります。一つ目。私は幼少期に呪毒を受け、二十年以上体を蝕まれ続けています。通常の解毒では治せません。しかし万毒耐性を持つ者であれば、浄化が可能です。あなたの体に今起きている変化は、おそらくその耐性の覚醒です」


「万毒耐性……」


「五年間、百二十三件の毒を受け続けた結果、あなたの体はあらゆる毒を無効化する力を獲得した。極めて稀な体質変化です。どうか、治療に力を貸していただけませんか」


 セレーナは自分の温かい指先を見つめた。この温もりの正体がそれなのか。


「二つ目」


 レオンハルトは一歩、さらに近づいた。


「あなたを迎えに来ました。もう毒を飲まなくていい場所へ」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 セレーナがアルヴァスへ発って三日目。

 この国の朝は穏やかだった。


 エドヴァルドの朝は穏やかではなかった。


「殿下! 大変です!」


 王宮薬師が血相を変えて駆け込んできた。


「新任の毒見役が判別できない毒が検出されました! 昨夜の晩餐の残りを分析したところ、微量のラヴェンダ毒が混入しておりまして――これは極めて判別が難しい種類で、セレーナ嬢でなければ味では気づけないものです」

「……なに?」

「それだけではございません。過去に同種の毒が検出された記録を確認しようとしたのですが、毒物記録簿が見当たりません。セレーナ嬢が全て持ち出したようです」


 エドヴァルドは立ち上がった。


「馬鹿な。あの記録は王宮の……」

「殿下が『不要だ』とおっしゃった記録でございます」


 薬師の声が、静かに響いた。


 同じ日の午後、外交官が青い顔で報告に来た。隣国との毒物情報共有会議が二日後に迫っているが、過去三年分の毒物動向報告書の原本がない。セレーナが記録簿を元に毎月作成し、一人で提出していたものだ。


「報告書の控えは?」

「ございません。セレーナ嬢が全て手書きで作成し、原本は記録簿と共に持ち出されました」

「ではデータを再構成すれば……」

「不可能です。過去三年分の毒物分析は、全てセレーナ嬢の舌と記憶に依存しております。彼女以外に再現できる者はおりません」


 夕方には財務官が現れた。食材納入業者の信用調査記録が全て消えた。セレーナが毒の経路分析のために独自に構築した業者データベースは、全て彼女の帳面の中だった。

 さらに翌日。王宮侍医団から緊急の報告が入った。王太子の常備薬の安全確認手順が分からない。セレーナは常備薬についても毎朝毒見を行い、ロットごとの安全性を記録していたのだ。新任の毒見役は薬の毒見が業務に含まれていることすら知らなかった。


「セレーナ嬢は、王宮の誰よりも王太子殿下の安全を守っていたのです。毒見だけではなく、記録と分析と調査によって。殿下の安全網そのものが、彼女一人の上に成り立っていた」


 薬師の声に、エドヴァルドは拳を握りしめた。


「なぜ……なぜ一人の毒見役にそこまでの業務が集中していたのだ!」

「集中していたのではございません。セレーナ嬢が自分で作り上げたのです。毒見の精度を上げるために、誰に命じられるでもなく、五年かけて独力で。殿下はそれを一度もご確認になりませんでしたが」


 そしてその夜。マリアンヌが推薦した新任毒見役が、最初の毒を見逃した。

 エドヴァルドは激しい腹痛と発熱で倒れ、三日間寝台から起き上がれなくなった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 同じ頃、アルヴァスの宰相邸。

 セレーナは驚きの連続の中にいた。


「セレーナ殿、お部屋に花を飾らせていただきました。お好みでなければ変えますので」

「……花?」


 宰相邸に与えられた客室は、王宮の毒見役の私室の三倍はあった。窓は大きく、朝日がたっぷり差し込む。寝台には羽毛の掛布団。小さな書斎まで付いている。

 五年間、窓のない小部屋で過ごしていたセレーナには、眩しすぎる環境だった。


「セレーナ殿、朝食です。お口に合わなければ厨房に申しつけください」


 テーブルに並んだ食事を見て、セレーナは箸を持ったまま固まった。


「(これを……先に食べて確認しなくていいの? 誰の毒見もなく、ただ自分のために食べていいの?)」


 一口食べた。温かかった。ただそれだけのことが、目の奥を熱くさせた。


 治療は毎日午後に行われた。

 レオンハルトの腕にセレーナの手を当てると、呪毒に蝕まれた部分が淡く光り、少しずつ浄化されていく。レオンハルトの顔から苦痛の翳りが消えていくのを見るたびに、セレーナは不思議な充足感を覚えた。


「痛くはありませんか」

「いいえ。むしろあなたに触れていただいている間が、二十年間で最も痛みの少ない時間です」


 レオンハルトはそう言って、セレーナの手を見つめた。


「その手で五年間、毒を味わい続けていたのですね。どうか、これからはこの手で良いものだけに触れてください」


「セレーナ殿、本日の業務は以上です。時刻は五時になりましたので」

「……まだ五時ですが」

「ええ。定時でございます」


 侍女の言葉に、セレーナは二度瞬きをした。


「(定時。五時に仕事が終わる。この世にそのような概念が実在するとは)」


 王宮では夜半まで待機が当然だった。エドヴァルドの夜食にも、深夜の来客への茶にも、毒見が必要だったから。眠れない夜は数えきれない。


「レオンハルト様が薬草園でお待ちです」


 庭に出ると、レオンハルトが石のベンチに腰かけていた。傍らには茶器が二つ並んでいる。


「今日の治療のお礼です。あなたに触れていただくと、この二十年来の痛みが嘘のように引くので」


 万毒耐性の浄化は穏やかなものだった。セレーナがレオンハルトの腕に手を当てるだけで、呪毒が少しずつ消えていく。痛みはない。むしろ、毒を浄化するたびに自分の体も軽くなる。


「一つお聞きしてもよろしいですか」

「何でも」

「なぜ三年間も待っていらしたのですか。万毒耐性者が必要なら、もっと早く手を打てたのでは」


 レオンハルトは茶器をそっと置いた。


「交渉はしました。三年前に、正式な外交文書で」


「……え?」


「エドヴァルド殿下に、あなたの移籍を申し入れました。返答は、こうです。『毒見役は我が国の安全保障に不可欠な人材であり、他国への移籍は認められない』」


 セレーナの唇が、わずかに開いた。


「安全保障に不可欠、と言いながら……」

「用済みと捨てた。ええ。だから私は待ったのです。あの男がいつか、あなたの価値を理解しないまま手放す日を。三年間、記録簿が届くたびに確認しました。まだ王宮にいるか。まだ毒を飲んでいるか」


 レオンハルトの灰色の瞳が、傾きかけた陽に照らされた。


「一日でも早く迎えに行きたかった。でも外交上、他国の臣下を勝手に連れ出すことはできなかった。あなたが解任された報せを受けた日、執務室を飛び出しました。宰相が国を空けるなと副官に怒られましたが、聞いていません」


 セレーナの視界が、滲んだ。

 五年間、泣かなかったのに。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 セレーナがアルヴァスに移って十日後。

 宰相邸の応接間に、エドヴァルドの使者が現れた。


「王太子殿下より、セレーナ・アシュフォード嬢に帰国命令が発令されております。また、毒物記録簿三冊の即時返還を要求い――」


「お断りいたします」


 セレーナは応接間の椅子に座ったまま、使者を見上げた。

 その傍らには、レオンハルトが立っている。腕を組み、静かに使者を見据えていた。


「帰国命令の法的根拠をお示しください。私はすでに毒見役を解任されております。王宮との雇用関係は殿下ご自身が断ち切られました」

「し、しかし記録簿は王宮の機密情報であり――」

「記録簿は私の私物です」


 セレーナの声は淡々としていた。水面に波紋一つ立たないような、凪いだ声だった。


「帳面は私が自費で購入したものです。記録は私が勤務時間外に、自身の判断で書いたものです。公務として記録の提出を命じられたことは一度もございません。殿下は五年間、一度たりとも記録簿の内容をご確認になりませんでした。一度たりとも、です」


 使者が言葉を詰まらせた。


「むしろ、お伝えいただきたいことがございます」


 セレーナは三冊の帳面を、使者に見えるようにテーブルの上に並べた。


「ここには五年分、百二十三件の毒物検出記録があります。毒の種類、濃度、混入経路、推定される指示系統。全てが日付と根拠と共に記されています」


 使者の顔から血の気が引いた。


「この記録から、ある事実が読み取れます。過去二年間に検出された毒の三割が、特定の一つの経路から流入しています。その経路は――マリアンヌ・デュボワ嬢の実家、デュボワ伯爵家と取引のある商会に繋がっています」


「なっ……!」


「マリアンヌ嬢が新しい毒見役を推薦なさった理由がお分かりですか。私の記録能力を排除するためです。記録さえなければ、経路は追えませんから」


 使者が一歩、後退した。


「今のところ、この記録は私の手元にございます。しかし殿下がこれ以上不当な要求をなさるのであれば、国際会議の場で公式に提出することも検討いたします」


 セレーナは静かに帳面を引き寄せた。


「お伝えください。もう、遅いのです。五年間の記録は、五年間の私の全てです。『不要だ』とおっしゃった日に、殿下はそれを手放されました。今更取り戻すことはできません」


 使者は、震える足で立ち去った。

 扉が閉まった後、セレーナは長く息を吐いた。


「……言ってしまいました。全部」

「ええ。見事でした」


 レオンハルトが傍らに腰を下ろした。


「五年分ですね」

「五年分です。一滴も残さず、全部出た気がします」


「では、空いた器に新しいものを入れましょう」


 レオンハルトがセレーナの前で、静かに膝をついた。


「え……あの、レオンハルト様?」

「正式にお伝えしたいことがあります」


 灰色の瞳が、真っ直ぐにセレーナを見上げた。


「記録簿の三冊目、百二十七頁。覚えていらっしゃいますか」


 セレーナは首を傾げた。千八百日分の記録から一頁を思い出すのは難しい。


「備考欄に、こう書いてありました。『本日は毒検出なし。珍しく穏やかな夜。窓から見える月が綺麗だった』」


 息が止まった。


「千八百日分の記録の中に、たった一行だけ、あなた自身の感情が書いてあった。毒の種類でも症状でもなく、月が綺麗だと。政務資料に紛れた、たった一行の本音」


 レオンハルトの手が、セレーナの手にそっと触れた。


「その一行を読んだ時に決めたのです。この人を、毎晩月が綺麗だと思える場所に連れて行きたい、と」


 セレーナの頬を、五年ぶりの涙が伝った。


「わ、私は……五年間毒を飲み続けた女です。記録しか取り柄がなくて、愛想もなくて、笑い方さえ忘れかけていて」


「あなたの記録が、三年間の私の光でした。あなたの正確さは誠実さの証です。あなたの継続は強さの証です。あなたの備考欄の一行は、優しさの証です。全部、記録の中に書いてありました」


 レオンハルトがセレーナの涙を、指先でそっと拭った。


「もう毒を飲まなくていい場所で、好きなだけ記録を書いてください。今度は、幸せなことを」


 セレーナはレオンハルトの手を握り返した。

 温かい手。震えていない手。毒の残滓に蝕まれていない、ただ温かいだけの手。


「……レオンハルト様。一つだけ、訂正があります」

「何でしょう」

「笑い方を忘れたと言いましたが、撤回します」


 セレーナは涙を拭いて、不器用に、でも確かに笑った。


「今、思い出しました」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから一月後。

 セレーナの毒物記録簿は、国際毒物情報会議の場で正式に公開された。レオンハルトが外交文書として提出したものだ。

 記録簿に記された暗殺未遂の指示系統は、マリアンヌの実家であるデュボワ伯爵家と、その取引商会群を明確に指し示していた。


 エドヴァルドは会議の場で蒼白になったという。

 マリアンヌは会議の翌日に国外逃亡を図り、国境で拘束された。

 毒見役の記録を「不要」と切り捨てた王太子は、自らの安全を脅かしていた勢力の証拠を、自らの手で追放したことになる。


「セレーナ嬢に……もう一度だけ、会いたいと殿下が」


 使者の言葉に、レオンハルトは穏やかに首を振った。


「伝言をお伝えします。セレーナは現在、アルヴァス宰相府の主席記録官であり、私の婚約者です。面会のご要望は、外交儀礼に則ってお申し出ください。もっとも――」


 レオンハルトは、いつもの静かな声で言った。


「三年前に申し入れた時に承諾していただいていれば、こうはなりませんでしたが」


 その報告を、セレーナはアルヴァスの宰相邸で聞いた。

 薬草園のベンチで。レオンハルトの隣で。定時の五時を過ぎた、穏やかな夕暮れの中で。


「大変なことになっているようですね」

「他国のことです。我々には関係ありません」


 レオンハルトは穏やかに微笑んだ。その顔色は、一月前とは見違えるほど良くなっている。呪毒の浄化は順調だった。


「それよりセレーナ、今日の主席記録官としての初仕事はどうでしたか」

「……驚きました。記録を提出したら、全員が読んでくれるのですね。質問まで返ってきました」


 王宮では一度もなかったことだ。五年間、誰にも読まれなかった記録。それがここでは、政策の土台として扱われる。


「当然です。あなたの記録の精度は、私が三年間保証します」

「贔屓ではないですか」

「事実です。記録は嘘をつかないのでしょう?」


 セレーナは少しだけ口元を緩めた。笑い方はまだぎこちないけれど、以前より自然に表情が動くようになってきた。


「セレーナ」

「はい」

「今日の記録は何を書きますか」


 セレーナは新しい帳面を膝の上に開いた。

 毒物記録簿ではない。レオンハルトが贈ってくれた、真新しい革表紙の帳面だ。


「そうですね。……『本日、快晴。業務は定時に終了。薬草園のラベンダーが咲き始めた。夕食は宰相閣下と。毒の検出なし。毎日が、穏やかな夜』」


 レオンハルトが小さく笑った。


「備考欄は?」


 セレーナは顔を上げた。空には、夕焼けの向こうに月が見え始めていた。


「備考。……月が、綺麗です」


 レオンハルトがそっとセレーナの手を握った。その手は温かかった。

 五年分の冷たさを全て溶かしてくれるほどに。


「(記録は嘘をつかない。だからこの温もりも、きっと本物)」


 セレーナは五年ぶりに、心の底から笑った。


 その夜の記録簿の最後に、セレーナはこう書き添えた。


「追記。明日も、穏やかな一日になりますように。――これは予測ではなく、初めて記録簿に書く、願いです」


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