第一話 目覚めたら海が近すぎた件(※匂いで理解した)
第一話です。
目を覚ました瞬間、まず思った。
――くさい。
これは悪口ではない。
魚と潮と人間が長年混ざり合った匂いが、遠慮なく鼻を殴ってきただけだ。
次に思った。
――近い。
空じゃない。
海が近い。
波の音がやたら大きいし、
床がひんやりしている。
目を開けると、天井がない。
代わりに、干された網と木箱と、魚の目があった。
「……ここ、絶対に寝る場所じゃないよな」
起き上がると、床がベタッと音を立てた。
汗ではない。
普通に海水だ。
「起きた?」
顔が近い。
近すぎる。
知らない人とこの距離は警戒する。
「……どなたですか」
「港の人」
説明が短い。
だが、この村ではそれが丁寧な方らしい。
「ここは?」
「港の端」
「なぜ私はここで寝ていた?」
「空いてたから」
空いてたら寝床。
この村、倫理より空きスペースが優先だ。
周囲を見回す。
漁網。
木箱。
魚。
魚。
魚。
「……漁村ですね」
「そうだけど?」
即答だった。
⸻
外に出ると、港が広がっていた。
船が並び、
人が歩き、
魚が跳ね、
怒鳴り声が飛ぶ。
なのに、
誰も急いでいない。
「朝なのに、のんびりですね」
「どうせ待つから」
「何を?」
「船が戻るかどうか」
……戻る?
「今日は三隻出てるよ」
女が指を折る。
「たぶん二隻は帰る」
「たぶん?」
「昨日も一昨日もそんな感じ」
「帰らなかったら?」
「人が足りなくなるだけ」
軽い。
命の話なのに軽い。
「怖くないんですか」
「慣れた。慣れないと生きてけないし」
納得したくないが、理屈は通っている。
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広場では、男たちが網を直していた。
正確には、
直しながら雑談している。
「昨日、引っ張りすぎたな」
「だから破れた」
「無茶すると切れる」
言い方が全部意味深だが、
誰も気にしていない。
女たちは魚を捌きながら噂話。
子どもはその間を走り回る。
働いているのか邪魔なのかは曖昧だ。
「ねえ、先生」
気づけば囲まれていた。
「先生?」
「先生っぽい」
「どこが?」
「この話聞いて顔色変えないとこ」
基準が低い。
「何教えるの?」
「まだ決めてません」
「じゃあ数えて」
雑だが本気だった。
板と炭を渡される。
「何を?」
「今日は何人帰るか」
朝から重い。
板に書く。
今日出た船:三
帰ってきそう:二
まあ、いつも通り
「それ、縁起悪くない?」
「現実です」
一瞬静まり、
次の瞬間、笑いが起きた。
この村、
不謹慎な話ほどウケがいい。
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昼。
魚の分け前で軽く揉める。
「多い!」
「少ない!」
「昨日の分も足して!」
「足しすぎ!」
誰も本気じゃない。
「先生、どう思う?」
「記録を――」
「それ言うと空気悪くなるからやめて」
即却下。
数は好きだが、責任は嫌いらしい。
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夕方。
女たちが集まって話している。
「今夜どうする?」
「船出るし」
「じゃあ軽めにしとく?」
「いつもの感じで」
意味は一つだ。
こちらを見る。
「先生も来る?」
「……人数、足りてます?」
「足りなかったら先生」
断る選択肢は提示されなかった。
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夜。
灯りは少ない。
距離は近い。
行為は起きる。
ただし、
明日の仕事が最優先だ。
「明日、海出るんでしょ」
「出ます」
「じゃあ無理しないで」
ロマンより現実。
ここではそれが普通だ。
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翌朝。
船は二隻、出た。
一隻、出ない。
「減ったね」
「まあ、そういう日」
誰も泣かない。
代わりに仕事が増える。
港の端で、少年が板を見ていた。
「先生」
「はい」
「この村、変じゃない?」
「いいえ」
「え?」
「慣れてるだけです」
少年は首を傾げた。
たぶん、このまま育つ。
先生は板に書いた。
海は毎日ある
人は毎日は戻らない
だから、数える
笑いが起きる。
この村、
笑っていないと回らない。
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次回予告
第二話
「死ななかった日は噂話が増える」
誤字脱字はお許しください。




