99. 小山田ふたたびマティルダ
★視点★ 櫻小路愛雨 櫻小路和音 櫻小路夜夕代
「ねえ、チャーミング王子、どうしてなの? こんなに愛しているのに、何度もお願いをしているのに、どうして私と婚約をしてくださらないの?」
小山田マティルダ。みずからを異世界から転生した悪役令嬢だと偽り、僕をさんざん弄んだ他校の生徒。なぜ、彼女が今ここに。青白い顔。焦点の定まらぬ瞳。小刻みに震える唇。両手にナイフを握っている。
「前世のみならず現世でも敵わぬ恋ならば、今宵ここであなたと共に命を絶ち、来世に期待をするより他はなし。ご安心ください。王子に寂しい思いはさせませぬ。あなたを殺した後、私もすぐに後を追いますから」
握ったナイフの先端が、僕の背中にめり込んでいる。クリーム色のセーターが赤く染まりはじめている。「あれ? なかなか死にませんね。えいっ」マティルダが僕の背中に突き刺さったナイフを、グリグリと動かす。
「ぬぎゃああああ、痛ああああああああい!」
反射的にマティルダを激しく突き飛ばす。地面に膝をつく。そのまま倒れ伏す。その場をのた打ち回る。アスファルトに積もりはじめた雪を溶かす液体。真っ赤な血。僕の血。
「何事だ、愛雨!」「げげっ、愛雨くんが刺されてる」「いやあああ、愛雨うううう!」異変を察知した春夏冬くん、蛇蛇野くん、地図子ちゃんが、慌ててこちらに駆けて来る。
突き飛ばされた拍子にナイフを紛失したマティルダが、地面に這いつくばり、それを探す。やがて、歩道の植樹帯に転がるそれを見付ける。ナイフを握る。ふたたび僕に襲い掛かる。
「やめないか!」
ナイフを振り下ろすマティルダの腕を、春夏冬くんが間一髪で掴む。
「蛇蛇野、救急車を呼んでくれ! 地図子ちゃん、愛雨の応急対応をお願い!」激しく抵抗するマティルダを押さえつけ、適格な指示を出す春夏冬くん。
「君は、あの時の女子高生。……また無断で病院を抜け出して来たのか」
「離せ、この醜い召使いめ!」
「ボクは召使じゃない。彼はチャーミング王子じゃない。もちろん君は悪役令嬢なんかじゃない。いい加減に目を覚ませ。妄想に逃げるのはやめろ」
暴れ回るマティルダを必死で制圧する彼を見ながら、僕は、真冬の冷たいアスファルトに、うつ伏せにぶっ倒れて呻き声を上げている。焼けるような、引き裂くような、押し潰されるような痛みが、肉体を駆け巡る。
「痛い。痛いよお。ああ、痛い。たまらなく痛い」
あまりの激痛に、意識が遠のく。
「ちょっと~、なんなの~、なにが起きたの~、痛いんですけど~、背中がちょ~痛いんですけど~、信じらんな~い、私、めっちゃ刺されてる~」
遠のくたびに、僕と夜夕代の人格が入れ替わる。
「ううう。痛いよお。痛いよお」
「やだ〜、すっごい血が出てる~。ふえ~ん、私、死んじゃうのかな~」
「いやだなあ。僕、消えたくないなあ」
「え~ん、え~ん、私だって消えたくないよ~」
「お〜い、和音、どうしよう、どうすればいい、僕たちの大切な肉体が、えらいことになってるよお」
「お兄ちゃん、助けてよ~。お願い。私たちを助けて〜」
クライシス。事変。大ピンチ。やっべえ。大量の血が抜け出ているぜコリャ。早いとこ病院へ行かねえと、我らが肉体の危機だ。このままじゃ三人とも死んじまう。――生まれたての小鹿のように震えながら四つん這いになる。背中の傷を利き手で塞ぐ。ふらつきながらも、唸り声を上げて立ち上がる。
「ぬおおおお、テメエらはもう引っ込んでろおおおお!」
僕と私は、俺になった。
【登場人物】
櫻小路愛雨 悩める十七歳 三人で体をシェアしている
櫻小路和音 荒ぶる十七歳 三人で体をシェアしている
櫻小路夜夕代 恋する十七歳 三人で体をシェアしている
春夏冬宙也 幼馴染 怪物
尾崎地図子 クラスメイト 優等生
蛇蛇野夢雄 クラスメイト 陰湿 悪賢い
小山田マティルダ 妄想の世界の住人