89. 田中先生から、蛇蛇野夢雄へ
★視点★ 櫻小路愛雨
令和七年、一月二十三日、木曜日。愛雨。
下校途中に僕と春夏冬くんは、僕の住む県営住宅の2階の西端にある蛇蛇野くんの住む号室を訪ねた。春夏冬くんがインターホーンをポチっと。……反応なし。春夏冬くんが、インターホーンを連打。……反応なし。不在? でも電気メーターは回っている。居留守かな?
「おーい、蛇蛇野。居るのだろう。出てこい。話があるのだ。おーい、蛇蛇野。居るのは分かっているぞ。蛇蛇野。蛇蛇野。蛇蛇野おおおお」
いても立ってもいられない様子の春夏冬くんが、住宅の扉をドンドンと叩き、大声で叫ぶ。物音に反応した近隣住民が、何事かと窓や扉からこちらを覗き見ている。
「ややや、やめてよ、春夏冬く~ん。借金取りじゃないのだから」
その時、塗装の剥げた鉄の扉を軋ませ、蛇蛇野くんがチェーンの掛かった扉と枠の隙間から顔を出した。
「……春夏冬くん、愛雨くん、マジで勘弁してくれ。そのような振舞いをされると、下手すると集合住宅で生きていけなくなる。いったいなんの用だ?」
春夏冬くんが、蛇蛇野が扉を閉めて鍵を掛けないように、しれっと扉と枠の間に自分の靴を挟む。
「どうした、蛇蛇野。文化祭以降、家に引き籠りがちのようだが」
「どうしたもこうしたも無いよ。噂って怖いね。今やクラスでぼくが夜夕代ちゃんを盗撮していたことを知らない者はいない。みんな、ぼくのことを犯罪者扱い。無視。嫌がらせ。虐め。自業自得なのは重々承知だが、あの教室に、ぼくの居場所はもうどこにもない」
「ねえ、蛇蛇野くん。そんなに悲観せずにさ。また学校においでよ。被害者の夜夕代は、あの通りケロッとした性格だから、事件のことはもう気にしていないしさ。辛いことがあったら何でも僕たちに相談してよ」
「愛雨くん、君という人はどこまでお人好しなの。まったく君の馬鹿さ加減には、ほとほと頭が下がる。――で。今日は何の用? まさかそんな中学生日記のような台詞をほざきに来たわけではあるまい。さあ、玄関先では人目に付くし、今はママも仕事でいないから、ひとまず中へ入って」
蓄積されたホコリ。脱ぎ散らかした衣類。弁当やお菓子などの生ゴミ。使用済みのティッシュ。僕たちは、ゴミ屋敷と呼んで過言ではない蛇蛇野くんの部屋に案内をされた。三人でコタツ机を囲む。
「学校に来ないで、普段はここで何をして過ごしているの?」
「SNSにコメントを書いている。とにかく暇だからね」
「懲りずに匿名で誰かのことを誹謗中傷しているの」
「君に関係ないでしょう。ほっといてよ。それに、誹謗中傷をしているつもりはない。ぼくは、相手の間違いを指摘し、正しいことを教えてあげている。これは世直し。人助けさ」
「おい、蛇蛇野。それは間違っているぞ。そのような歪んだ正義感が、無慈悲に誰かを傷付けているのだ。そもそも、揺ぎなき正義であるなら匿名で書くな。――少なくとも君のお父さんは、揺ぎ無き正義を、真実を、実名で世の中に伝えようとした」
そう言って春夏冬くんは、粛々と新聞の縮印版の該当ページを開き、彼に差し出した。
「こ、この記事」
「実は、櫻小路家の三つ子の出生の秘密を探っていたら、蛇蛇野夢助という人物に辿り着いた。この記事を書いたのは、君のお父さんだろう。時間が勿体ないので、はぐらかすのはやめて欲しい。以前、和音から聞いた。君のお父さんの職業は新聞記者だったと」
記事を見詰める蛇蛇野くんの瞳から、ポロポロと涙が流れ落ちる。
「その通りさ。この記事を書いたのは僕のパパだよ。僕のパパは、優秀なジャーナリストだった。それが、三つ首地蔵事件に足を踏み入れたばかりに、業界から消されてしまった。きっと政治家や利権の絡んだ団体が、パパに圧力をかけたに違いない。職を失ったパパは、やがて失踪した。残されたママは、持ち家を売り払い、幼い僕を抱いてこの県営住宅に移り住んだ……」
なんという運命の巡り合わせだろう。僕の父、桜小路欽也の死亡記事を書いたのは、彼のパパ、蛇蛇野夢助氏だった。
「……で? だから? パパがこの記事を書いたのは認める。でも、それが何か?」
「僕の父の死の真相、その手掛かりを探しているんだ」
「帰ってよ。もう君たちに話すことは何もない。パパのことは思い出したくない」
すると、業を煮やした春夏冬くんが、突然立ち上がり――
「蛇蛇野夢雄。お前の夢は何だ」
――と叫んだ。いつまでもウジウジしている蛇蛇野くんへの、春夏冬くんなりの叱咤激励だった。《本誌は、その方面で独自の操作を進める方針。記者・蛇蛇野夢助》の文字を一心に見詰め続けていた蛇蛇野くんは、その一声で奮い立ち――
「ぼくの夢は、パパのように真実を報道するジャーナリストになることだ」
――と叫ぶと、自分の勉強机の引き出しから、一冊の古いメモ帳を取り出した。ポケットサイズのそれを、勇ましく春夏冬くんに託す。
「パパが現役時代に使っていたメモ帳だ。三つ首地蔵事件のこともたくさん書いてある。使ってくれ。パパのためにも、この事件の真相を掴んでくれ」
春夏冬くんは、奪うようにそれを受け取り、僕たちは、その場で夢中になって内容を確認した。殴り書きのように記された蛇蛇野夢助氏の大量のメモを要約すると、おのずと三つのキーワードが浮かび上がった。
『怪僧』
『祟り』
『裏で手を引く市会議員』
「ねえ、春夏冬くん。事件の日に、どこからともなく現れた怪僧って……」
「うむ。この血の池町で怪僧と言えば、あのお方しかいない。おーい、和音。明日の朝は、ボクも君と同じく授業をサボることに決めたぞ。行き先は血の池公園。三休和尚に逢いに行く」
春夏冬くんが、僕の近くで虚空と漂っている意識の和音と約束をした。頼んだぞ、和音。
【登場人物】
櫻小路愛雨 悩める十七歳 三人で体をシェアしている
春夏冬宙也 幼馴染 怪物
蛇蛇野夢雄 クラスメイト 陰湿 悪賢い