55. 怪物のスランプ
★視点★ 櫻小路和音
令和六年、十月三日、木曜日。和音。
いつものように午前中の授業をさぼって、血の池公園で野良猫と一緒に日向ぼっこをした後、昼食の時間を見計らって学校へ行った。売店で買った焼きそばパンを頬張りながら教室に入ると、昼飯を食べ終わった春夏冬が俺の顏を見るなり「武道場で空手の稽古の相手になって欲しい」と頭を下げてきやがった。
こいつは願ったり叶ったり。ここのところ春夏冬と喧嘩をしていなくて鬱屈していたのだ。よっしゃー、血沸き肉躍るぜ。
「お前から殴り合いがしたいと申し出るとはどういう風の吹き回しだ。もちろんいつものように寸止め無しの本気の喧嘩だろうな。あ?」
「断っておくが……て言うか、毎度毎度断っているが、ボクがお願いしているのは、あくまで空手の稽古であって、喧嘩ではないぞ」
「ふん。しゃらくさいこと言うな。で、どうする。寸止め無しのマジ喧嘩でオッケーか」
「うむ。和音がそれを強く望むなら、ボクはそれで構わない」
こうして俺たちは、昼休みが終わるまで武道場で、春夏冬のいうところの空手の稽古、俺の言うところのマジ喧嘩に没頭をした。
この日の春夏冬は、あきらかに様子が変だった。俺とこいつは、暇さえあれば、武道場で、校舎の裏で、公園で、空手の稽古と称した殴り合いをして来た。だから春夏冬の拳の微妙な変化が俺には分かる。どうした春夏冬。拳に迷いがあるぞ。体調でも悪いのか。いつもみたいにビシバシ来んかい。
春夏冬の明らかにいつもとは違う動きに一抹の不安を感じるが、勝負は勝負だ。俺は、隙だらけの春初冬の胸元に、思いっきり正拳突きを入れる。会心の一撃。喰らった春夏冬が、そのままヨタヨタと後方へ後ずさりをしたあと、武道場の畳の上に仰向けに倒れた。
「15勝―14敗―3引き分けで、俺の勝ち越しだな」
畳みの上に大の字に倒れる春夏冬に歩み寄り、そう勝ち誇る。
「デタラメを言うな。どういう計算をしたらそうなる。本日の負けを加えても、20勝―5敗―7引き分けで、通算ではボクが勝っているだろう」
呆けたように武道場の天井照明を見詰めていた春夏冬が、こちらに首をもたげ、喰い気味に異議を申し立てた。
「ふん。相変わらず細かい事を言いやがる。要するに俺は、これまでの俺たちの戦いを俯瞰で見てだな、持って生まれた素質や、将来性、普段の素行までを含めて総合的に判定をしたら、ある意味『15勝、14敗、3引き分け』的な判定になるだろうなあ、と言ったまでさ」
「そんな屁にもならない屁理屈はやめろ。20勝―5敗―7引き分けは、20勝―5敗―7引き分けだ。数字は絶対に覆らないぞ」
「けっ。負け犬がほざいてら」――そう言って俺は、春夏冬の横にドスンと胡坐をかいて座る。身を起こした春夏冬も、俺と同じように畳の上に胡坐をかく。
「スランプか?」
率直にそう尋ねる。
「……分かるか」
「分かるさ。どれだけお前と殴り合いをしていると思っている。いったい何がどうした? 思い当たる原因は?」
「実は先日、県大会で優勝をした」
「す、すげえじゃねえか。聞いてないぜ。早く教えろよコノヤロー。おめでとうさんだバカヤロー」
「この学校には空手部が無いから、街の道場に地道に通い、大会は学校に申し出て個人登録をしてもらい、担任の田中先生に引率をお願いして参加をして来た――来週の火曜日は、学校の体育館に全校生徒を集めてボクの激励会が催される。そして、木曜日には東京で開催される全国大会に出場をする」
「そうか、いよいよ全国か。とうとうここまで来たな。お前がみずからの才能におごることなく誰よりも努力をしていることは俺が一番知っている。すげえよ。お前はすげえヤツだよ」
「ありがとう。だが、正直言って、勝てる気がまるでしない」
勢いよく肩を叩き励ます俺をどこか敬遠するかのように、春夏冬は、伏し目がちにそう言った。
【登場人物】
櫻小路和音 荒ぶる十七歳 三人で体をシェアしている
春夏冬宙也 幼馴染 怪物