50. 小山田マティルダの正体
★視点★ 櫻小路和音
医科大学病院。 地上15階建て。この街で一番高い建物。多くの医療従事者が疾病や疾患を抱えた患者のために働く場所。愛雨に住所を尋ねられた時のマティルダの返事が脳裏に蘇る。「この街で一番高いお城の最上階に住んでいます。そこには私の召使が沢山いて、召使たちは何から何まで私のお世話をしてくれます。私はいつも寝室で寝ているだけ」マティルダは最上階の隔離された病室にいた。俺たちが入室をすると、彼女はベッドに身を起こした状態で、病室の大きな窓に広がる大久手市の景色を、うつろな表情で眺めていた。
ベッドの傍らのパイプ椅子に、中年男性が座っている。俺たちに気付くなり立ち上がり――「マティルダの父です。この度はうちの娘が、あなた方のお知り合いに取り返しのつかないことをしてしまった。娘に代わって謝罪をします。誠に申し訳ありませんでした」
――と、あらためて深謝した。「…………」言葉が出ない。「あの、娘さんはいったい……」いつもは雄弁な春夏冬が、かろうじて言葉を絞り出すが、やはり途中で詰まってしまう。
「驚いたでしょう? 本来であれば、ここで娘に土下座のひとつもさせるべきなのですが、ご覧の通り、現在娘は大変心が不安定な状態にあります」
そうか、小山田マティルダは心が……。――窓の外を眺めていたマティルダが、俺たちの存在に気が付いた。
「あら、こちらは、パパのお客様?」
俺はともかく、春夏冬のことを憶えていないのか。ジャスオン大久手店のフードコートで逢っているはずだが。
「そうだよ、マティルダ。二人はパパの友達さ」
「こんにちは。初めまして、娘のマティルダと言います。日頃は父が大変お世話になっています」
マティルダがニコリと微笑み、俺たちに挨拶をする。
「こんにちは。はじめまして。ボクは県立血の池高校の生徒で、春夏冬宙也と言います」
春夏冬は、彼女と面識があるにもかかわらず、彼女の対応にあわせて初対面の挨拶をした。「ども……」俺も春夏冬の背後で小さく頭を下げた。
「娘が高校に入学をしてすぐにフランス人の妻が亡くなりました。自死です。遺書などはありませんでしたから、妻が死を選んだ直接的な原因はいまだに分かりません。自宅の浴室で死んでいる妻の第一発見者がマティルダです。母の自殺現場を見てしまったショックは相当なもので、その日から娘の心の調子はおかしくなってしまいました」
父親が、マティルダの頭を撫でながら、話し続ける。
「現実を直視しなくなり、妄想の世界に逃げ込むようになりましてね。自分を中世ヨーロッパの貴族の令嬢だと思い込むようになりました。普通の日常生活が送れる状態ではなくなり高校を自主退学。十六歳の夏からは、この病院に入院をしています」
「でもマティルダさんが初めてボクたちの前に現れた時、彼女は、古戦場女子高校の制服を着ていました。あれは?」
「定期的に、かつて自分が通っていた高校の制服を着ては、看護師の目を盗んで病院を抜け出すので困っています。もう不要な制服なので捨ててしまいたいのですが、頑なに捨てるのを拒むのです。いまだに古戦場女子高校の生徒のつもりなのですかねえ」
「演劇部の部長だというのは?」
「もちろん妄想です。原稿用紙に自作の戯曲を書いては、文化祭で発表をするのだと息巻いています。どうやら最近は、中世ヨーロッパの令嬢と古戦場女子高校の演劇部の部長という二つの妄想がごっちゃになっているようですね。今後は娘の監視を更に厳しくして、もう二度とこのようなことの起きないように努めます。あなた方のお連れ様にもよろしくお伝え下さい。重ね重ね、この度は誠に申し訳ありませんでした」
その時、ずっと大人しかったマティルダの態度が豹変をした。
「おい、醜い召使い。私の王子様をどこに隠した。私のチャーミング王子を返せ」
凄まじい形相で、春夏冬を怒鳴り散らす。
「そこにいるのは、ドラキュラ伯爵。立ち去れい。これでも喰らえい」
両手の指で十字架を作り、俺に向かって暴言を吐く。
「おやおや、また妄想が始まってしまった。こうなるとしばらく手が付けられません。すみませんが、もうお引き取り願えますか」
俺と春夏冬は、ベッドの上で暴れ回るマティルダをなだめる父親に静かに頭を下げ、病室を出た。足が重い。体が重い。心が重い。なにもかもが重い。形容しがたい巨大な何かを引きずり、医科大学付属病院から退散する。
外に出ると、もう宵の口だった。ライトを点灯させた二台の自転車にそれぞれまたがり、春夏冬と一緒に来た道を戻る。
「……おい、和音」
「……なんだ、春夏冬」
「君がはじめに断言した通り、小山田マティルダは、妄想の世界の住人だった。やはりアレだな。君の洞察力は群を抜いているな」
「けっ。ふざけんな。この状況で、そんなふうに褒められても、嬉しくとも何ともねえよ」
それぞれの家路への分かれ道で、俺たちは、ガードレールに片足を乗せて、立ち止まる。
「……なあ、春夏冬」
「……なんだ、和音」
「この一件、愛雨に伝えたほうがよいかなあ」
「黙して語らぬほうがよい。ただでさえボロボロの愛雨のハートが砕け散ってしまう」
そう言い残し、春夏冬が、図書館通りのなだらかな坂をのぼって行く。
「……だよなあ。言えねえよなあ。言えるわけがねえ」
重いペダルを踏んで、俺も家路へ向かった。
【登場人物】
櫻小路和音 荒ぶる十七歳 三人で体をシェアしている
春夏冬宙也 幼馴染 怪物
小山田マティルダ 妄想の世界の住人
マティルダの父親 娘の悪行を謝罪する