35. 僕たち、親友だよね? と言いかけて、慌てて口をつぐむ
★視点★ 櫻小路愛雨
その日の授業を終え、春夏冬くんと下校をする。日暮れ時。図書館通りをしばらく歩くと、細長い三角屋根の時計台が特徴的な「中央図書館」が見えてくる。僕と春夏冬くんは、いつも下校の途中でこの中央図書館に立ち寄り、閉館の時間まで勉強をする。
「はい、これ。君が休んでいた三日間の授業のノート。僕も夜夕代も、黒板の文字だけでなく先生が話したポイントもしっかりとメモしてあるから、分かりやすいと思うよ。とは言え、和音の日は、ノート真っ白だけどね。あはは」
「サンキュー。とても助かる」
僕が貸し出したノートの内容を、その場で自分のノートに機械的に写し始める春夏冬くん。
「ねえ、春夏冬くん。空手の遠征合宿はどうだった?」
「まるでダメ。やる試合やる試合ボロ負け」
「え、どうして? 市内では空手の天才と名高い君が……信じられないなあ」
「道場が変わると、畳も変わるだろう? 原因はそれ。足の裏の畳の感触がいつもと違う。たったそれだけのことだけれど、どうにも調子が出ないのだ。慣れた道場で戦えばボクは勝てる。場所が変わると負けっぱなし。仮に全国大会がボクの通う道場で開催されたなら、ボクは間違いなく日本一になるだろう。しかし空手の大きな大会はいつだって遠方の道場で開催をされる。このままでは、県大会を制することすら難しい」
物理の数式をテキパキとノートに書き込みつつ答える。逢うたびにカッコよくなっている。こうして間近で見ると、つい同性であることを忘れて見惚れてしまう。
「ねえ、春夏冬くん」
「なんだ?」
「空手は楽しい?」
「空手が楽しい?……う~ん。楽しいかどうかなんて考えたことも無かった……う~ん……う~ん……」
腕を組んで考え込んでしまった。……弱ったなあ。……何気ない質問のつもりだったのだけどなあ。……ヤバい。ずっと同じポーズで停止している。
「お~い、春夏冬く~ん」
「なんだ?」
「難しい質問をしちゃってゴメンね。では、質問を変えるね。君は、なぜ空手を始めたの?」
「パパが勧めたからだ。ボクのパパは、学生時代に体育会系の部活に所属していたのだが、体が貧弱で、それが大変なコンプレックスだったらしい――わ、わ、わ、愛雨、大変だ。のんびりしているうちにあと15分でこの図書館は閉館してしまうぞ」
閉館を知らせる館内アナウンスに反応し、愛用する腕時計を見て焦りはじめる。彼は、僕と同じくスマートフォンを持っていない。ゆえに時間の管理は日頃から肌身離さず身に着けている腕時計で行っている。
彼の腕時計は、お世辞にも良品とは言えない。小学生のオモチャのような安物で、そのうえ使い込まれ過ぎてボロボロだ。なんだかなあ、腕時計なんかやめてスマホにすればいいのになあ。彼の父親は大久手市長。うちみたいに貧乏母子家庭ではない。お父さんに頼めばスマホぐらい買ってくれるだろうに。
「ねえ、春夏冬くん。君はどうしてスマホを持たないの?」
「それ、パパにも言われる。持った方がいいぞ。何かと便利だぞって」
「だよね。僕もそう思う。お父さんがそう言ってくれるなら、買ってもらえばいいのに」
「だが、いらない。この腕時計で事足りている。家電は一個あればいい」
「家電って」
「スマートフォンは、家電量販店で売っている。だから家電だ」
「それは違うよお。違うと思うなあ」
「魚屋で売っているのは魚。本屋で売っているのは本。家電量販店で売っているスマートフォンは家庭用電化製品。違うか?」
「違うってば。今の世の中、スマホのことを、もうひとつの頭脳とか、もう一人の自分とまで言う人がいるんだよ」
「あり得ない」
「そうでもないよ。もはや現代人はスマホに思考や感情を支配され始めているんだ」
「解せん。トンカチを振り下ろせば簡単に破壊出来る数万円の家電に何故ボクたちが支配をされなければならないのだ? そんな馬鹿な話があってたまるか。だったら尚更ボクにはそんな悪魔の使いのごとき道具はいらない。小五のクリスマスにサンタさんがプレゼントしてくれたこの腕度時計があればじゅうぶんだ」
そこまでムキになるかねしかし……。なんだかなあ。気を悪くさせちゃったかなあ。申し訳なかったなあ。て言うか、スマホを持つことの何がそんなに気に入らないのだろう。所持できる環境にいるのだから、四の五の言わず一度試しに使ってみればいいのに。使ってみたら凄く便利だと感じるかもしれないのに。それは使ってみなければ分からないことなのに。相変わらず、変なところで頑固だなあ。どうやら、これ以上話し合っても平行線っぽいぞ。ちょっと険悪な雰囲気になってきたし。あ、ナイスタイミングで閉館の時間だ。
春夏冬くんが、写す途中だった物理のノートを一晩借りたいと言うので、快く貸し出す。館外に出て図書館通りをしばらく歩き「バイバイ」「それでは、ごきげんよう。また明日」いつもの交差点で僕たちは別れた――
――と思ったら「おーい。愛雨―」帰路を10分ほど歩いたところで、背後から春夏冬くんの声がした。振り返ると、彼がこちらに猛ダッシュして来る。え、なに、なにごと? 僕、忘れ物でもしたかなあ。ハアハアと激しく息を切らせて駆け寄った彼は、キョトンとする僕の顔を真っすぐに見てこう言った。
「少なくとも『型』は楽しい」
「は?」
「図書館での『空手は楽しい?』という君の質問への答えだ。空手は『組手』と『型』の二種類の競技がある。2人の選手が1対1で対戦する『組手』が果たして楽しいかどうかは、今のボクにはよく分からない」
「……」
「だかしかし、実在しない対戦相手を想像しながら、攻撃・防御の組み合わせを演武する『型』という競技は楽しい。同じことを反復する練習にはつい没頭をしてしまうし、恐らく空手の型に自分をはめて行く作業は、性に合っているのだろう」
「……まさか、僕が何気に聞いた質問の答えを、今までずっと考えていたの?」
「返事が遅れてすまん」
あまりに澄んだ瞳で見詰めてくるので、僕は恥ずかしくなって思わず目を逸らす。
自分を型にはめるのが楽しい? いやいや、君は型にはまらない人間の典型でしょう。うふふ、本当に面白いなあ、春夏冬くんは。いつだって僕の想像の遥か上を越えてくる。彼と一緒にいると、自分がいかに俗物であるかを思い知らされる。
「ねえ、春夏冬くん、僕たち、親友だよね?」――不思議とそんな言葉が溢れ、慌てて口をつぐむ。だって、自分の気持ちをオブラートに包んで話すことの出来ない彼のことだ、もしはっきりと「そのつもりはない」なんて言われたら、僕はショックで立ち直れない。
秋の始まりの心地よい風が吹いている。
「ボクたち、親友だよな」
いつか彼のほうからそう言ってもらえる時を夢見て、このどうしようもない自分を、毎日ほんの少しずつでも変えて行かなくちゃなあ。
【登場人物】
櫻小路愛雨 悩める十七歳 三人で体をシェアしている
春夏冬宙也 愛雨の幼馴染 怪物