34. その男、怪物につき
★視点★ 櫻小路愛雨
令和六年、九月五日、木曜日。
この日、血の池高校は、朝から大騒ぎだった。
僕がいつものように登校をすると、校舎の前に揺れる人だかり。悲鳴や歓声でどよめいている。え、なに、なに、いったいなにがどうしたの? 群衆に紛れ、我ながら見事な野次馬と化す。
「こらー、春夏冬くーん。危ないから降りてらっしゃーい」
観衆の中心にいる養護教諭の一里塚林檎先生が上空を見上げて叫んでいる。
みんなが一心に見詰める視線の先には、昨日まで空手の遠征合宿で学校を休んでいた春夏冬くん。なんと、昇降口の上部から突き出たコンクリートの庇の上に長いハシゴを掛け、校舎の二階と三階の中間あたりに取り付けられた屋外時計を取り外そうとしているではないか。うわあ。危険だよお。不安定に設置したハシゴが転倒をしたら大事故だよお。
「おーい、春夏冬くーん」
「やあ、愛雨」
騒然とする観衆の中から、か細い僕の声に気付いてくれた。些細なことだけれど、彼に声を掛けられると自己肯定感が満たされる。春夏冬くん、逢いたかったよ。変だね。たった三日のことだけれど、もう何週間も逢っていない気がするんだ。
「なにやってんだよー。危ないよー」
「おはよーう」
素知らぬ顔で僕に挨拶をすると、校舎の壁に立て掛けた不安全なハシゴの上部で、ズボンのお尻のポケットに差した幾つかの工具を抜き出し作業を続行する。
「いや、おはようって……」
そうこうしているうちに手際よく屋外時計の取り外し作業を終える。それから彼は、あろうことか時計を頭上に高く持ち上げ、地上6メートルほどの高さから「とう!」と戦隊ヒーローのような声と共に豪快にジャンプをした。
ワ―。キャー。観衆の声が最高潮に達する。僕は思わず手で顔を覆う。数秒の後、指の隙間から恐る恐る向こうを覗く。ほっ。頭上に時計を持ち上げた春夏冬くんが、大地にしっかりと両足を広げ無事に着地をしていた。
息をのんだのは、取り外した屋外時計の大きさだ。高所に掛けてあるので分からなかったが、直径70センチ、厚み30センチはある。重量も相当あるのだろう。よくまあこんな巨大な時計を……
「……怪物だあ」
地上に舞い降りた彼を見て、思わず声を漏らす。
「こら、春夏冬くん、これはいったいどういうつもり。説明をしなさい」
林檎先生が、声を荒げて詰め寄る。
「どうもこうもないですよ。今朝いつもの時間に登校をして、校舎の時計を見上げたら、なんと、時計の針が2分遅れているではないですか」
「はあ?」
春夏冬くんが、林檎先生のみならず、そこにいる観衆の一人一人に訴えかけるように、ハキハキとした口調で話し始める。
「ボクは毎朝自宅から学校までの3,156メートルを30分で歩く。学校に到着をするのはいつもピッタリ8時。これが朝のルーティーン。ところが今朝この時計を見上げると7時58分だった。慌てて自分の腕時計を確認。腕時計の針はいつも通り8時ジャスト。ボクの腕時計は定期的にメンテナンスをしているから、数秒たりとも狂っていないと断言できる。つまり、校舎の時計が2分遅れているという重大な事実が発覚をした」
「いや、でも、だからって……」
「狂った時計は、諸悪の権化。早急に直す必要があります。ハシゴや工具は用務員さんからお借りしました。いや~、それはそうと、この時計は電池式かと思ったら、100Vの配線で繋がっているのですね~。予想外でしたよ~、ははははは」
「電池式とか、配線式とか、そういう問題じゃなくて。え? 分かんない分かんない。 いったん落ち着いて話を整理させてもらっていいかな? 今朝君が登校をしたら、校舎の時計が何分遅れていたって?」
「2分です」
「うんうん。先生の聞き間違えかもしれないから、念のためもう一度聞くね。校舎の時計が何分遅れていたって?」
「2分です」
「2分?」
「はい、2分とは、つまり120秒のことです」
「そういう意味で聞き返しているのではないの。開いた口が塞がらないわ。まさか本当にそれだけの理由で――」
「――時計を撤去しました。ボクにとっては一大事ですので。さあ、林檎先生、速やかにこの時計の修理の手配を」
「ふ~。了解。分かったよ。校務主任に依頼をして業者に修理をしてもらうわ。でもさ、春夏冬くん、君の時間へのこだわりを否定するつもりはないけどさ、流石にこれはやり過ぎじゃない? 時計が表す時間って、君が命懸けになるほど大事なことなのかな?」
「おっしゃる通り、時間とは自然の摂理でも絶対的真理でもなく人為的に作られたひとつの基準です。そして時計とは、あくまでも時間を可視化した道具に過ぎません。だからこそです。だからこそボクは、時間に支配されるのではなく時間を支配していたい」
静まり返った観衆が、どこぞの政治家の答弁でも聴いているかのように春夏冬くんの持論に熱心に耳を傾けている。
「もう結構です。あなたの話を聞いていると、何が常識で何が非常識だか分からなくなってくるわ。――それはそれとして、春夏冬くん、今日もいつもの時間に保健室に来てね。じゃあね――」
春夏冬くんに丸め込まれそうになった林檎先生が、人差し指で頭をポリポリと掻き退散をした。
正直言って僕には彼が力説している話が半分ぐらいしか理解できないのだけれど、恐らくは聴いていた群衆も同じだと思うのだけれど、でも彼の話し方やその声には、なんというか、人の心を動かすと言うか、人を感動させると言うか、独特のリズムと心地よい韻があり、心を高揚させる奇妙なパワーがあるのだ。
たしか、ジョンレノンやヒトラーの声にもそれがあったらしい。ひょっとしたら、彼もいずれは世界を揺るがす思想家になるのかもしれない。何だか知らないけれど彼にはそうなっても不思議ではないと思わせる何かがある。
「……怪物だあ」
僕は、あたらめて声を漏らした。
【登場人物】
櫻小路愛雨 悩める十七歳 三人で体をシェアしている
春夏冬宙也 愛雨の幼馴染 怪物
一里塚林檎 保健室の先生 イケジョ