30. めっちゃめちゃイケジョの林檎先生
★視点★ 櫻小路夜夕代
誰もいない保健室に先生と入る。
「派手に溺れたみたいね。調子はどう? 気分が悪いとか、頭がクラクラするとか」
「水もたくさん吐いたし、もう大丈夫っぽいです」
「そう。なら良かった。実際プールサイドで何があったの? 転んだの? 誰かに突き落とされたの?」
「……それは、今答えたくありません」
「あらそう。じゃあ答えなくてよろしい。また別の機会に話せたら話しましょう」
クラスメイトの蛇蛇野夢雄が愛雨を背後から突き落としたことは、この場ではあえて黙した。何となくややこしい話になりそうな気がしたから。
「さあ、先ずはその濡れた服を脱ぐわよ。この保健室にはね、制服を派手に汚したり破いたりした生徒のために着替えの制服を常備しているのよ。ほらそこ、それっぽいサイズのものを、どちらも揃えたから、好きな方を着なさい。それから、借りた服は、クリーニングしろとまでは言わないけど、ちゃんと洗濯をして返してね」
先生は、びしょ濡れの私を、保健室の隅のベッドの近くに立たせると、ベッドを囲むようにL型に曲がったカーテンをシャッと勢いよくしめた。机の上に、男子生徒の上着とズボン、女子生徒の上着とスカートが、並べて置いてある。わ、下着まである。私の手は、おのずと女子生徒の制服に伸びた。
「着替えました」
「オッケー。じゃあ、こっちに来て」
「…………」
「ほら~、何を恥ずかしがってんの~。さっさと出てきなさ~い」
カーテンを少しだけ開け、私は、女装した姿を、恐る恐る先生に見せた。
「あら、ジャストサイズじゃ~ん。ちょっと小さいかなと心配したけど、ピッタリで良かった。さあ、この椅子に座って――」
先生は、私を奇異の目で見ることなく、そこにわざとらしさを微塵も感じさせない対応をした。私たちは、問診をする机に並んだ丸椅子に腰を掛ける。
「さあ、これから、先生と少しだけお話をしましょう。私、あなたのことをたくさん知りたいの。とは言うものの、一方的に質問攻めをするのはフェアじゃないから、先ずは先生から自己紹介をするね」
「…………」
「私の名前は、一里塚塚林檎。この学校の養護教諭です。生徒の健康管理、ケガや病気の救急処置、健康相談や心のケア、保健教育などの仕事を日々行っています。養護教諭養成課程のある大学を卒業して、すぐこの学校に赴任しました。年は二十三歳です」
「…………」
「な~んて堅苦しい話はつまらないかな? それじゃあ、あなたが興味を示しそうな話をするね」
「…………」
「カミングアウトします。私こと一里塚林檎はノンバイナリーです」
「…………ノンバイナリー?」
「お、嬉しいな。こちらの話にやっと反応してくれたね。そう、私はノンバイナリー。ノンバイナリーとは『男性・女性どちらにも当てはまらない、あるいは当てはめられることに違和感を覚える人』のこと。性自認と性表現を、女か男かの2択で分類しない。日によって男だと感じるときもあるし、女だと感じるときもある」
「……先生は、男性でも女性でもない人なの?」
「体の仕組みは女性です。でも、心はどちらにも当てはまらない。当てはめたくない」
「生きづらくない?」
「そりゃあ、幼い頃は悩んだり自分を責めたりしたこともあったよ。でも、自分の心の扉を叩いて『あなたは、男ですか、女ですか?』と尋ねると、いつだって部屋の中から『そんなのどっちでもいいじゃ~ん』という声がする。あ、ちなみに今の『そんなのどっちでもいいじゃ~ん』というセリフは、私の心の部屋に住んでいるジョゼフとエマニュエルと言うフランス人のカップルが、シャンソンの調べに乗せて歌うんだけどね」
あなたの心の部屋にはどんな人が住んでいるのかしら。先生、すごく興味があるな。そう言って林檎先生がニッコリと笑う。つい私の顔もほころんだ。
【登場人物】
櫻小路夜夕代 恋する十七歳 三人で体をシェアしている
一里塚林檎 保健室の先生 イケジョ