26. ママ
★視点★ 櫻小路夜夕代
「おはよう、ママ」
「おはよう、夜夕代」
台所に入ると、夜の仕事から帰り朝食の支度を終えたママが、私に勢いよく飛び付いてハグをする。
「………………………………ね、ねえ、ママ。ハグ長すぎ。いい加減に離して。はやく朝ご飯を食べないと、学校に遅刻しちゃう」
「あ、ごめんごめ~ん。夜夕代を抱きしめていると、つい時の経つのを忘れちゃうのよ~。こいつめ。可愛すぎ。罪な娘じゃ」
そう口を尖らせて、ママが私のオデコを白く美しい人差し指でツンと突く。
イスに座ると、ママがテーブルに炊き立てのご飯と温かいお味噌汁を並べてくれる。焼き魚の小骨も丁寧に取り除いてくれる。そして、私が食べるところを見ながら頬杖をついてニコニコと話しかけてくる。
「ねえ、夜夕代。この間、ジャスオンで、あなたに似合いそうなお洋服を見付けたの。でも、サイズがちょっと微妙だったから買わなかったのよ。今週の土曜日は、あなたが体を使う日でしょう? ママと一緒に買い物に行って、そのお洋服を試着しましょう。どうしても、あなたに着て欲しいの。絶対に似合うと思うから」
「うん。嬉しい。いつもありがとう、ママ」
ママは、私が頼んでもいないのに洋服をたくさん買ってくれる。靴もたくさん買ってくれる。化粧品なんか、多すぎて困るぐらい買ってくれる。
……嬉しいんだけどね。すごく嬉しいんだけれど……
ママは、いつだって自分が私に着せたい物を買う。履かせたい靴を買う。使わせたい化粧品を買う。私の好みは一切聞いてくれない。私が望むものは買ってくれない。私、着せ替え人形じゃなんだけどな……。
次はあそこへ行こう、その次はどこへ行こうと、いろんな場所に連れて行ってくれる。でもそれは、ママが行きたい場所であって、私が行きたい場所ではない。一緒にお出かけをすると、ママは私が迷子になるのが心配で、私を片時も自分の側から離そうとしない。私、ママの所有物じゃないんだけどな……。
ママは「夜夕代がやりたいことは、何でも叶えてあげたい」と笑顔で言ってくれるけれど、先日、クラスメイトの尾崎地図子ちゃんとカラオケに行きたいと初めてお願いをしたら、一瞬で表情が険しくなった。
「ただカラオケに行くだけではないのよ。ちゃんと図書館で勉強をした後に行くんだよ。地図子ちゃんは、悪い子じゃない。学年一の優等生。普段から私を助けてくれる、とても良い子。ね、だからお願い、この通り、私をカラオケに行かせて!」
としつこくお願いをしたら――
「ふ~ん、まあ、夜夕代が行きたいなら、勝手に行けばあ」
――と、眉間にしわを寄せて、しぶしぶオッケーしてくれた。ママは強い愛で私を愛してくれる。私がママを大好きなのも噓じゃない。嬉しいんだけどね。すごく嬉しいんだけれど。ああ、贅沢な悩み。
「ねえ、ママ。聞いていい?」
「なあに、夜夕代」
きゅうりのお漬物をポリポリと頬張り、私はママに何気ない質問をする。
「パパってどんな人だったの? ママの愛した人は、いったいどんな人だったのかな~って、ふと気になって」
パパのことを、私はあまり知らない。パパは、櫻小路建設という地元では有名な建設会社の社長だったらしい。でも、今から十七年前、労働災害事故で死んじゃったの。
この家には、パパの写真や遺品が残っていない。ママは、つい最近までたくさんの男の人とお付き合いを繰り返していたから、家に死に別れた夫の写真があるのは、何かと都合が悪かったんじゃないかな。
「いい男だったよ。すこぶる仕事が出来る人でね。すべて自分で考えて、すべて自分で判断をして、あらゆる責任を自分一人で抱え込んで……妻として尽くせるだけ尽くしたという自負はあるけれど、本当はもう少しこちらの意見も聞いて欲しかった。もっと手助けをさせて欲しかった。まあ、何の不自由もない生活をさせてもらったから、感謝しかないけどね」
「へ~。じゃあさ、パパは、私と愛雨と和音の三人のうち、誰に一番似ている?」
この質問を聞いた途端、ママは露骨に不機嫌になった。「ねえ、ママ? 私、何か気に障ること言ったかなあ?」あとは何も言わず自室に籠り、寝息を立ててしまった。
ふ~ん、ママの態度でじゅうぶん分かった。パパって、コワモテだったんだ。よかった、私は美人のママ似で。てことは、愛雨は、パパの顔とママの中間って感じかな。
【登場人物】
櫻小路夜夕代 恋する十七歳 三人で体をシェアしている
櫻小路麗子 愛雨と和音と夜夕代の母