18. 体を乗っ取れ!
★視点★ 櫻小路和音
折檻がはじまって十数分経過した頃、愛雨の生命力がガクンと弱まるのを感じた。あ、こいつ、死を覚悟したな。ふ~ん。あっそ。負け犬確定。俺はヘラヘラと笑った。
事態は最悪の方向に向かっている。
こうなってくると、気がかりなのは、あの女のこと。
業多の後ろで腕を組み、虐待行為の一部始終を黙って見ているあの女。あの女は、俺の母ちゃんだろう。胸に抱かれたことも、声を掛けられたこともないけれど、直感で理解をしている。愛雨の母ちゃんは、俺の母ちゃん。
馬鹿だなあ、母ちゃん。これ、ちょっとしたお仕置きのつもりだったのかい。いやいや、度を越してるっちゅーの。さすがにやり過ぎだっちゅーの。そりゃここまでやったら誰だって死ぬっちゅーの。あんた、このままじゃ警察に捕まるぜ。
てか、愛雨が死んだら、母ちゃん、悲しむだろうな。目の前で息子に死なれたら、もう二度と立ち直れないだろうな。何だかんだ言って、母ちゃんは愛雨に期待をしていたから。実に歪な愛だけれど、まあ、愛雨を愛していることに間違いねえから。
ったく、いったい誰のせいだよ。俺の母ちゃんを悲しませるのはどこのどいつだ。
――業多。
業多め。この反社まがいの豚野郎め。母ちゃんをたぶらかしやがって。母ちゃんを弄びやがって。母ちゃんを堕落させやがって。てめえのせいだ。てめえのせいで、母ちゃんはすっかり壊れてしまった。ムカムカする。無性に腹が立ってきた。だんだん怒りが込み上げてきた。
――殺す。
業多ぁ。俺の意識が、愛雨の体と共に消滅しようとも、てめえだけは地獄に叩き落としてやるぜ。
――でも、どうやって?
俺には、体がねえ。業多の糞野郎をぶちのめすための拳がねえ。畜生。誰かこの俺に体を貸しやがれ。
浴槽に顔を押し付けられ泣き喚いている愛雨の貧弱な体を眺める。
――こいつの体を乗っ取ることが出来れば……
愛雨の生命力がどんどん低下をしている。意識が遠のき、自我が薄まっているんだ。それに反して、俺の怒りは頂点に達している。意識は強さを増し、自我が高まっているのが分かる。乗っ取れるんじゃねえか、今なら。
――どうする? やるか? 現実世界へ行ってみるか?
――あ、やべえ、愛雨の意識が、今まさに、消える……
――もう悩んでいる暇はねえ! 今だ! 行け! 体を乗っ取れ!
「うおらあああ、この糞ッタレがああああ!」
次の瞬間、俺は、後頭部を掴む業多の腕を、地鳴りの如き唸り声と共に豪快に振り払った。昆布のように眼前にへばりついた濡髪を、両手ゆっくりとかき上げる。続けて、さっきまで弱虫だったガキの豹変ぶりに状況を掴みかねている業多の顔面を、振り向きざまに思いっきりぶん殴る。鼻血を流してその場にへたり込む業多。その後方でパニック状態の母ちゃん。
「こんなくだらねえ男と、いつまで付き合ってんだ、あ?」
「ぎゃー」
これが、初めて交わした親子の会話。
それから俺は、戦意を喪失した無抵抗の業多を、無我夢中で殴り続けた。
「母ちゃん、救急車」
「え?」
「聞こえなかったのか、こいつに救急車を呼んでやってくれ。やべ~よ。つい半殺しにしちまった」
業多が泡を吹いて気を失ったところで、俺は我に返り、呆然と立ち尽くす母ちゃんに指示を出した。
「……おまえ、和音だね」
すると、目に涙を溜めた母ちゃんが、俺を見詰めてそう言った。
「わをん? なんじゃそりゃ?」
「おまえの名前だよ。私は、おまえがお腹の中にいる時から、そう名付けるって決めていたのよ。おまえの名前は櫻小路和音。逢いたかったよ、和音、今日までどこに隠れていたのさ」
母ちゃんは、足元に倒れる業多のことなどほったらかしで咽び泣き、俺の体を強く抱きしめ、しばらく離そうとしなかった。
人を殴ると自分の拳も痛い。強く抱きしめられるとちょっと窮屈。母ちゃんの体は細くて柔らかい。母ちゃんの髪からいいニオイがする。生きている。俺は今、生きている。
【登場人物】
櫻小路和音 荒ぶる十七歳 三人で体をシェアしている
櫻小路麗子 愛雨と和音と夜夕代の母
櫻小路愛雨 悩める十七歳 三人で体をシェアしている
業多 麗子の彼氏 反社まがいの男