16. 母ちゃん
★視点★ 櫻小路和音
「……何だよ、母ちゃん。気味がわり~な」
櫻小路麗子。俺の母ちゃんが、部屋の襖を少しだけ開け、亡霊のように立ち尽くし、こちらを覗いている。
「びっくりするじゃねーか。息子の部屋を勝手に覗いてんじゃねーよ」
「…………」
無言。こちらに冷淡な目を向けている。
「おい、何か用か?」
「…………」
「何かしゃべれ。何で黙ってんだよ」
「…………時計」
「……時計?」
「おたく、その目覚まし時計、いつになったら止めるつもり? うるさくてたまりません。大変迷惑です」
ジリリリリリリーー。
「……あ。本当だ」俺は枕元の目覚まし時計のベルの音を、たった今意識した。どうやら、このベルの音で目を覚ましておきながら、止めるのを忘れていたらしい。時計の針は、六時十五分を指している。この目覚まし時計は、通常六時に鳴るように設定されているから、つまり十五分間鳴り続けていたことになる。俺は時々このように注意が散漫になる。
ジリリリリリリーー。
「わりーな。うわの空だった」
ジリリリリリリーー。
「うわの空? あら、嫌だ。どこのお空を飛んでいらしたの? この目覚ましの音、騒音レベルよ。信じられない。可哀そう。怒りを通り越して、むしろ哀れみの気持ちが湧いてくる」
ジリリリリリリーー。
苦言を呈する母ちゃんはガン無視。ジリリ……。落ち着いて目覚まし時計を止める。それから、嫌味なお説教を遮るように、俺は母ちゃんに話しかける。
「てか。俺の昼飯代。五百円。ちゃんとテーブルの上に置いてくれただろうな? あんた、時々忘れて、部屋で爆睡しちまうだろうが。金が無けりゃあ、俺はその日学校で昼飯抜きなんだぜ。あ?」
「人を毒親扱いしないでいただけますか? 言っときますけど、私は愛雨と|夜夕代には、毎朝心を込めたお弁当を作っています。そもそも、少し前までは、おたくにだってお弁当を持たせていました。それを、おたくは、やれピーマンは入れるなだの、やれおかずのバリエーションが少ないだの、やれ売店のパンのほうがましだのと文句ばかりつけて。かわいく無いったらありゃしない。正直なところ、五百円くれてやるのも惜しいぐらいです」
「おい、くそババア。それが息子に対する態度か。あ?」
「は~い、くそババア、いただきました~。ドラマでしか聞いたこのないセリフ~。真顔で言うやつ、はじめて見た~」
「てめえ。俺はなあ、こんな家いつ出ていやってもいいんだぜ。あ?」
「あら、嫌だ。まさかの家出宣言。ふん。愛雨や夜夕代と体をシェアしている分際で、やれるものならやって下さい。それでは、ごめんあそばせ。おやすみなさい」
そう吐き捨てると、建付けの悪い襖をカタカタと閉め、母ちゃんは自室で就寝をした。
「ガッデム。ファッキン。サノバビッチ」と、去り際の背中に罵詈雑言を浴びせる。一人きりの台所で、冷蔵庫の中にある適当に喰えそうな食材を漁さる。ハムエッグを作り、それと海苔の佃煮をおかずに朝食を取る。
母ちゃんは、俺の飯を作ってくれない。料理どころか、俺の着た服の洗濯すらしてくれない。まあ、俺が、母ちゃんの作った飯にいろいろ注文をつけ、その挙句自分で勝手に料理をしたり、母ちゃんが洗濯をした衣類の柔軟剤の臭いが嫌で、自分の服は自分の好みの柔軟剤で勝手に洗濯をしているから――と言われればそれまでだが。
そんな俺の身勝手を踏まえても、それでも母ちゃんは、俺の養育を放棄していると思う。俺は、愛雨や夜夕代と「僕と俺と私のノート」で毎日情報交換をしているから分かるんだ。母ちゃんは、愛雨にはやたら厳しいが、あれは期待の裏返し。夜夕代のことは、ただひとり女の子ということもあって、溺愛をしている。
それに比べて、この俺の扱いときたらもう……。きっとあの女は、俺のことが可愛くねえのさ。間違いねえ。俺を名前で呼ばず「おたく」という他人行儀な呼び方をすることからも、それは明白だ。当てつけのように敬語を使う行為に至っては、心の底から辟易しちまう。
思い返してみれば、俺がこの体を訪れた時、母ちゃんは、大粒の涙を流して喜んでくれた。俺を強く抱きしめて、しばらく離そうとはしなかった。あの頃と今では、母ちゃんは、まるで別人だ。ほんの数か月前のことなのに、遥か昔の出来事のように思える。俺はちょっとだけあの頃の母ちゃんが懐かしい。さて、ぼちぼち俺がこの体を訪れた時の話をするとしよう。さあ、どこから話そうか――
【登場人物】
櫻小路和音 荒ぶる十七歳 三人で体をシェアしている
櫻小路麗子 愛雨と和音と夜夕代の母




