110. バイバイ、ダーリン
★視点★ 櫻小路夜夕代
午後の授業が終わった。家に持って帰るべき教科書やノートを鞄に収める。今日私がこの世界から消え去ろうとも、週明けからも愛雨の高校生活は今まで通り続く。先ずは学問。この週末の自宅学習に必要な教材は持ち帰ってあげなくちゃね。
ワイワイガヤガヤと下校の支度をするクラスメイトたち。つい先日まで、三日に一度は登校していた和音が来なくなったというのに、教室内は残酷なほどに平静を保っている。和音が健在の頃は、あの三白眼が教室に入ると、室内に一瞬でピリリとした空気が走ったのにね。いざ本人が消えてしまえば、まるでそんな人物はじめから居なかったかのような空気だ。きっと私がいなくなっても同じことなのだろう。
ありがとね、みんな。ありがとね、血の池高校。胸に迫る名残惜しさを振り切って教室を飛び出す。泣かない。泣くもんか。涙をこらえて昇降口に向かう。うつむき加減で渡り廊下を走る。
「夜夕代!」
背後から、センチメンタルの塊と化した私の心臓を容赦なく鷲掴みにする声。
「おーい! 夜夕代! おーい!」
振り返ると、渡りはじめのところに、春夏冬くんが立っている。凍てつくような寒風に吹かれながら、こちらに手を振っている。その手が、私にはスローモーションのようにゆっくりに見える。きっと普通に手を振っているだけなのだろうけれど、不思議とゆっくり、ユラ~リユラリと動いて見える。
「いや~ん、春夏冬くううううん!」
体が勝手に彼に向かって走り出すんですけど~。ダメだなあ、私。いっそ春夏冬くんとは言葉を交わさぬままお別れしようと決めていたのに。彼に声を掛けられた途端にこれだもの。
「蛇蛇野に聞いたぞ。今日。なのだな」
息を切らせて駆け寄ると、私の顔を真っすぐに見て彼が言う。最近ずっと眉間にしわを寄せて元気がなかったけれど、今日はとても穏やかな表情。どうやら自責の念を乗り越えるメンタルコントロールに成功したのかな。よかった、よかった。やっぱり、春夏冬くんは、陽気で爽やかでなくちゃね。
「うん! だよ! 今日が最後だよ!」
やけっぱちの明るさで、そう返事をする。
「何かボクに出来ることはないか?」
「最後に? 春夏冬くんが? 私に?」
「うむ。最後に。ボクが。君に出来ることを何でもしてあげたい」
「何でも?」
「うむ。何でも」
ぐしししぃ。それならお言葉に甘えて、さ~て、何をして頂こうかしら~ん。例えば、とろけるようなキッス。ぶちゅっと。キャー! それとも、情熱のハグ。壊れるぐらいギュッと。キャー。いやいや、どうせならベッドインからのメイクラブ。キャー。うひょー。どひゃー。
甘い口づけ。熱い抱擁。愛の営み。何でもしてくれると言う春夏冬くんを前に、私の妄想は膨らむばかり。でも、どうしてかしら? この期に及んで、そのどれもが、私たちにはふさわしくない気がして。
小首を傾げて考えた。一生懸命考えた。私が彼に求め続けたものは何? 彼が惜しみなく与え続けてくれたものの正体とは?
「じゃあ、『よしよし』して」
「よしよし?」
「うん、よしよしって、私の頭を撫でて欲しいの」
「……呆れた。ボクは何でもするって言っているのだぞ。よりによって頭を撫でろだなんて、まったくおかしな娘だな」
ホント、我ながら呆れる。でも自然とそう思ったの。何故「よしよし」なのか自分でもよく分からない。でもそうして欲しいのだから仕方がない。
「いいじゃ~ん。よしよししてよ~ん」
困った顔で後頭部をポリポリと掻いた春夏冬くんが、その手で私の頭を撫で始める。
「よしよし。よしよし」
優しく頭を撫でられ、はたと納得。私と彼のこれまでの関係の全てが、この「よしよし」に凝縮されているような気がして。なるほど、これだったのかな。うん、これだったのかも。
「春夏冬くん、私、がんばって生きたよ」
「よしよし。そうだな。夜夕代は、がんばって生きたな」
「偉い?」
「偉いぞ、夜夕代」
「凄い?」
「凄いぞ。夜夕代」
「嬉しい。もっと褒めて」
「夜夕代。君は、十七歳という永遠の一瞬を、精一杯生きた。よしよし。よしよし」
「あら嫌だ。春夏冬くん、ひょっとして泣いてる?」
「ばばば、馬鹿言うな。泣いてなんか……」
「きゃきゃきゃ。泣いてる~」
――家に帰る。私物を整理する。お腹が空いたので、ママが作り置きしてくれた晩御飯を食べる。それから、お風呂に入って、ベッドに横になる。ふと枕元の「僕と俺と私のノート」を開く。
『夜夕代へ 明日、僕とデートしない? 愛雨』
昨日、愛雨が私宛てに書いたメッセージ。
『いいよ♡』
ノリでそう返事を書く。うふふ。出来るものならな。まったく困ったお兄ちゃんだこと。最後は、いつものように部屋のカーテンを全開にして、星空を眺める。あ、来た来た来た。いよいよ最期がやって来た。遠のく。遠のく。うわあ、容赦なく意識が遠のいて行く。バイバイ、血の池町。バイバイ、世界。
ひどく疲れている。
たまらなく眠い。
バイバイ、ダーリン。
【登場人物】
櫻小路夜夕代 恋する十七歳 三人で体をシェアしている
春夏冬宙也 幼馴染 怪物