109. 溶けてしまいたい
★視点★ 櫻小路夜夕代
お弁当を食べ終えたら、保健室へ行く。保健室の丸い椅子に林檎先生と向かい合わせで座る。互いに無言。静寂の室内。廊下のほうから男子生徒が騒ぐ声が聞こえる。
「……で、夜夕代は、いつ消えちゃうの?」
静寂を引き裂くように、唐突に林檎先生が言う。
「うふふ。参ったな。どストレートに訊くのね。でも私、林檎先生のそういうところが好き。――そいじゃあ、私もざっくばらんに話すね。今日が私の最後の日だよ。自覚症状がある。不自然に今日は体調が良い。それが自覚症状。間違いない。明日になれば、私はこの世界にいない」
「……そう。その割には、ずいぶん気丈に振舞っているのね」
「だって、和音の最期を体感しているもん。ジタバタしたところでどうにもならないし。現実を受け入れるしかないじゃん」
「夜夕代。私の前では強がらなくていいよ」
林檎先生の言葉で、ここまでグッと堪えていた感情が爆発をした。溢れる熱い涙。止まらない嗚咽。急上昇する体温。
「そりゃあさあ、本当はもっと生きていたいよ! 決まってんじゃん、死にたくなんかないよ! 春夏冬くんや林檎先生やクラスのみんなと、もっともっと一緒にいたかったよ!」
激しく取り乱す私の体を、強く抱きしめる林檎先生。
「嫌だ! 死にたくない! 消えたくない! 生きたい! 生きていたい! えーん、えーん」
林檎先生の胸に包まれて叫ぶ。しばらく泣き喚く。徐々に気持ちが落ち着いてくる。泣き止んでも、なお林檎先生の胸に顔を埋めている私。
なんだろう? こうして林檎先生に抱きしめられていると、めちゃんこ癒される。新鮮で、でも懐かしい、得も言われぬ不思議な感覚。ああ、どうせ消えてしまうなら、このまま、この体に溶けてしまいたい。
「……あのね、先生」
「なに、夜夕代」
「実は私、一昨日、先生と春夏冬くんが、ここでお話しているのを、カーテンの向こうで全て聞いていたの」
「……嘘ん」
「ごめんね。盗み聞きをするつもりは無かったの。でも内容が内容だけに、カーテンを開けて出て行くタイミングを逃しちゃって」
「こちらこそ、なんだかややこしいことになっちゃって、ごめんなさい」
「嫌だなあ、林檎先生。そんなふうに謝らないで。謝られたら、逆に私が惨めじゃん。それよりも、先生に折り入ってお願いがあるの。今日この世界から消え行く私からのお願いを、どうか聞いて欲しい」
「いいわよ。なに?」
「私の後継者になって」
「はい? どういうこと?」
「ぶっちゃけ春夏冬くんの彼女になる資格があるのは、この広い世界で私だけなのね。でも私ったら、今日をもってこの世界から消えちゃうわけじゃん? そうなると彼を愛し、彼の心の支えとなり、しいては彼から溢れんばかりの愛を注がれる人物が不在になっちゃうのね。これって彼にとっては一大事じゃん? という訳で、私の後継者として一里塚林檎を任命します。今後の彼の人生は、あなたに託します」
「あらあら、とんでもないことを託されてしまったわ」
「思えば、保育園児の彼が、武蔵塚の広場で愛雨と泥んこになって遊び回っている頃からの恋だった。当時、肉体を持たず、意識として愛雨のまわりを浮遊しながら、私は四六時中彼にキュンキュンしていた。あの日から今日までの恋心のいっさいがっさいを詰め合わせにして、今日ここであなたにお渡し致します」
「うわあ、重荷だなあ」
「お願い。林檎先生。ずっと彼の側にいてあげて」
「……」
「お願い」
「あい分かった。確かに託されました。春夏冬くんのことは、この私に任せなさい」
午後の授業開始を告げるチャイムが鳴った。「ほら、夜夕代。遅刻しちゃうわよ」「うん」私は教室に戻るために立ち上がる。窓から差し込む午後の陽射しが、林檎先生を背後から照らす。まるで後光のよう。やはりこの人は、私の聖母マリアだ。
【登場人物】
櫻小路夜夕代 恋する十七歳 三人で体をシェアしている
一里塚林檎 保健室の先生 イケジョ




