106. 最後の日
★視点★ 櫻小路夜夕代
令和七年、二月二十八日、金曜日。
枕元で鳴り響く目覚まし時計を解除する。開けっぱなしのカーテン。空は水彩画の淡い水色。雲ひとつナッティング。窓を開ける。大きな深呼吸をひとつ。吐く息が白い。冷気がチクチクと肌を刺す。チクチクの、先っちょの、とんがった朝。
何だか今日は気分がいい。こんなに気分の良い朝は久しぶりだわ。昨日の夜に愛雨が着て寝た糞ダサいスエットとボクサーパンツを脱ぎ捨て、タンスの引き出しからピンクのおブラを取り出し、人格の入れ替わりと同時に膨らむCカップのオッパイを寄せて~上げて~身に着ける。かわゆいフリルの付いたおパンツを履く。制服を着る。薄暗い部屋の姿見鏡の前で正座をして、ブロンドヘア―の愛くるしい自分にメイクを施す。
メイクが仕上がる。立ち上がり、姿見鏡の前で、ファッション雑誌のモデルさんのようなポーズを決めてみる。あらためて県営住宅の八階の窓から見える血の池町の街並みを一望する。快晴。心が晴れる~ん。
準備オッケー。さあ、いよいよ、夜夕代ちゃんの最後の一日が始まるぞ~。
――そう、今日が私の最後の一日。目が覚めて、直感的にそう感じた。だってここ最近の私からすれば今朝のように心身が良好なのは不自然だもの。きっとこれは神様が私にくれたロスタイム。たぶん明日になれば私はこの世界から消滅しているのだろう。アリガトね、神様。今日という日を悔いのないように過ごすね。
「おはよう、夜夕代」「おはよう、ママ」いつものように、夜のお仕事から帰ったママが、テーブルに炊き立てのご飯と温かいお味噌汁を並べてくれる。いただきます。私が食べ始めると、ママが、頼んでもいないのに、焼き魚の小骨を丁寧に取り除いてくれる。
「あれ、ママ、どういう風の吹き回し? 珍しいね。最近は、お願いをしても『甘えるんじゃないよ』なんて言って、以前のように魚の小骨取りはしてくれなかったのに」
返事は無い。黙々と魚の小骨を取り除くママ。私が朝食を終えると、食器を洗って、お着換えをしたり、化粧を落としたり、就寝の準備をしている。
「あ、そうそう。ほら、これ」
ママが自分のハンドバッグの中から小さな紙袋を取り出し、それをポイと私に投げる。キャッチした私は、紙袋の中を見る。「キャー、サクランボ色のリップ! 私が欲しがっていたやつー! ママ、ありがとー!」「その代わり、しっかりと勉強するんだよ。それじゃあ、ママは寝るからね。おやすみ」
「ママっ!」
自室に籠ろうとするママを呼び止める。
「なあに、夜夕代」
ゆっくりと振り返るママ。
「短い間だったけれど、今日まで私を大切に育ててくれてありがとう」
「そっかそっか、そういうことか……了解だよ。ママはいつでもここに居るからね。またいらっしゃい。なるべく早く帰ること。約束だよ」
【登場人物】
櫻小路夜夕代 恋する十七歳 三人で体をシェアしている
櫻小路麗子 愛雨と和音と夜夕代の母