1. 生徒指導室
令和六年、十二月二十四日、火曜日。
僕は俺じゃない。僕は私じゃない。僕は僕。
「ちょっとよろしいですか、教頭先生。お言葉ですが、僕の体に共存する三つの人格は、それぞれがれっきとした個人です。僕たち三つ子は、今のところ致し方なくひとつの体を共有して生活をしているだけなのです。それを言うに事欠いて、僕のことを多重人格者呼ばわりするなんて心外です。怒りを通り越し、むしろ憐みの気持ちが湧いてきます」
白いペンキが剥離したコンクリート壁。天板の角の表面が剥がれた会議机。天井材には大きなシミ。雨漏りか、それとも天井内の配管から漏水でもあったのであろうか。
日当たりの悪いワックス置き場の隣にある生徒指導室。嫌だなあ、この部屋。狭くて、埃っぽくて、おまけにカビ臭い。マジでストレス極まりない。今にも過呼吸になりそう。
錆びたパイプ椅子に座っている。会議机の向かいには、教頭先生と担任の田中先生が、同じくパイプ椅子に並んで腰を掛けている。
「こらこら櫻小路愛雨くん。君は、昨日同校の三年生に暴行を振るった挙句、その生徒を病院送りにした件で指導を受けている身ですよ。そのような険のある言い方は慎みなさい」
担任の田中先生が、ちらちらと教頭の顔色をうかがい、これ見よがしに僕をたしなめる。この大人は、いかに当たり障りなく長い物に巻かれるか、それのみを日々考えながら生きている。
「まあそう言いなさんな、田中先生。たかが生徒の分際で、立場をわきまえぬこの態度。確かに正直イラっとします。しかし、重ねて申しますが、前教頭から引き継いだこの資料を読む限り、この生徒は明らかに多重人格障害。恐らく親から受けたトラウマ体験が原因でしょう。お~お~、お可哀そうに。多少の失言は大目に見てあげるからね。ん? お茶でも飲むかね? ん?」
「結構です」
「遠慮するな」
「遠慮などしていません。大して親しくない者が入れたお茶に抵抗があるだけです」
聞く耳を持たず、部屋の片隅に置かれた急須にサラサラと茶葉を入れ、電気ポットから熱湯をそそぐ教頭。
「て言うか、ご存知ですか。現在では、一人の人間の中に全く別の人格が複数存在する症状を『多重人格障害』とは呼ばず『解離性同一症』と呼びます。軽々しく誤った病名を口にしないほうがよろしいかと」
「そうなの? 失敬失敬」
お茶を出す所作の端々に僕に対する偏見が見事に滲み出ている教頭が、笑っていない目で微笑む。あちっ。あちちっ。湯呑を触ることすら出来ない。僕、猫舌。こんな熱いお茶、飲めないっちゅうの。
「それから、昨日の暴行事件ですけど、僕はいっさい無関係ですから。三年の先輩を殴ったのは、和音。僕と体をシェアしている櫻小路和音という悪ガキです」
「あれれ、この子が加害者じゃないの?」
教頭がキョトンとした表情で田中先生の顔を見る。
「彼らは、日替わり交代で順番に体を使用しています。今日は、その悪ガキが体を使用する日ではなく、彼が体を使用する日なのです。愛雨くんは、この体に共存する三つの人格の中では一番優秀な生徒ですよ。彼らは、ぱっと見似ていますが、よく見るとまるで違います。例えば、愛雨くんは、このようにサラサラのロングヘアーで、あどけない子犬のような顔をしていますが、かたや和音くんは、いつも髪の毛を後ろで束ねていて、獲物を狙う豹のような三白眼を持ち、それはそれは凶悪な人相をしています」
この教頭は、数日前に本校に赴任して来たばかりで、僕たちのこと詳しく知らない。前の教頭は、僕たちが次々に巻き起こす問題の対応に追われているうちに精神を害し、退職をしてしまった。田中先生が、新任の教頭に、僕たちのことを事細かに説明し続ける。
「ちなみに、これまでは校内では勝手気ままに人格を入れ替えないというルールを一応は守っていたのですが、最近はすっかりルーズになっちゃいましてねえ。頻繁に人格を入れ替えるので、生徒も教師も困惑しているのです」
「う~む。そんな『ジキルとハイド』のような話が現実にあるとは、にわかには信じられん。おいコラ、お前、今すぐ私の前で別の人格になってみろ」
教頭が、高圧的な態度で僕に迫る。うわあ、露骨に本性をあらわした。
「すみません。お断りします。僕たちは、見世物ではないので」
「ケチケチするな。ほら、多重人格者よ。お前の体に共存する別の人格を出してみせろ」
「勘弁してください」
「もったいぶるな。お~い、悪ガキく~ん。隠れていないで、出ておいで~」
おフザケにも程がある。侮辱するにも限度がある。ちくしょう。悔しさで頭の中が真っ白だ。もう何も考えられない。このままだと僕は……僕は……
湯気の立ち昇る湯呑を鷲掴み、一気にお茶を飲み干す。
「よお、教頭。お望み通り出て来てやったぜ。あ?」
僕は、俺になった。
「わわわ、和音くん」
担任の田中が、俺の顔を見るなり膝をガクガクと震わせる。こいつは俺を見ると反射的にこうなる。屈辱。憎悪。殺意。長い髪を両手でかき上げ、教頭を睨み据える。
「どだい聖職者とは思えぬ発言の数々。よくもしゃあしゃあとほざいてくれたな。あ?」
「ぎゃ」
愛雨から突如として入れ替わった俺を見て、教頭が椅子ごと後ずさりする。
「だいたいよお、なんでこちらが指導を受けにゃならんの? いいか、よく聞け。昨日俺が三年の先輩を殴って病院送りにした件な。あれは、もとはと言えば、あの先輩が俺に因縁を吹っ掛けてきたんだ。先に手を出したのも、あちらのほうだ。あくまでもこちらは正当防衛。こちらには証人だっている」
「証人?」
「ああ。幼馴染の春夏冬宙也だ。あいつが俺と一緒にいて、事の一部始終を見ている」
「あきない? 珍しい名前だが、はて、どこかで聞きた覚えが……」
教頭が眉間にしわを寄せ、首を傾げる。
「この街の市長の名前ですよ。春夏冬くんは、市長のご子息です。春夏冬くんが喧嘩の場にいたというのはマズいですね。ここは事を荒立てないほうが無難かと」
事なかれ主義の田中が、教頭に入れ知恵をする。
「市長のご子息か。う~む」
「ふん。市長の息子と聞いて怖気づいたか? クズ教師め」
「ななな、何だ、その態度は。私は教頭だぞ」
「それがどうした。てめえなんか知らねえよ。バ~カ」
「貴様、退学にするぞ」
「上等だ、やってみろ」
ついカッとなり、教頭の胸背広のネクタイを掴む。
「おお。やってやる。こうなったら、貴様も市長の息子も揃って退学だ」
教頭が顔を真っ赤にして、俺のブレザーのワイシャツを掴み返す。
やっべえ。ちょっとやり過ぎたか? これじゃあ、俺のせいで、春夏冬まで退学になっちまう。罪のない春夏冬を巻き込むわけにはいかねえ。しかたがねえ。ここはひとつ教頭に謝罪をするか? いいや、できん。人に頭を下げるなんて、俺のプライドが許さん。どうする俺? この難局をどう乗り越える? 分からん。いったいどうすれば。ちゅか、こんな時あいつなら……あの女なら……
教頭が掴んだワイシャツの胸元が破れるぐらい、あえて激しく抵抗をする。
「きゃー。先生が生徒のオッパイ触ったー。誰か助けてー。教頭先生に犯されるー」
俺は、私になった。
「ややや、夜夕代くん……」
さ、て、と、先ずは、田中先生に、人格が入れ替わる度に膨らむ自慢のオッパイを、はだけた胸元からわざとチラ見させてっと。そ、れ、か、ら、あたりに響き渡るような金切り声で――
「変態! 田中先生が、私のオッパイ見た! 教頭も担任も、揃いも揃って淫行教師!」
――うふふ。私って悪い女ね。
「また別のが出た。しかも、髪の毛の色が」
教頭が椅子からずり落ち、私の頭を指差して後ずさりしている。無様。マジ笑えるんですけど。そう、私ったら、人格が入れ替わった瞬間に、オッパイが膨らむだけじゃなく、黒い髪が美しいブロンドヘアーに変わるのよ。
「やいやい、教頭ちゃんよ。アホの和音を退学にするのは、どうぞご自由にって話だけどさ。よりによって、私のダーリン、春夏冬くんを退学にするってどういうこと。悪いけど、春夏冬くんの彼女、いいや、彼の婚約者と言っても過言ではないこの私が、そんなの絶対に許さないんだからね。もしもそんなことしたら、先生たちが私をレイプしようとしたことをネットに晒すから。そしたら、あんたたちの教員人生、秒で終わるから」
私は、パイプ椅子の上に立ち、会議机に勢いよく片足を乗せ、そう啖呵を切った。
「こらこら、櫻小路夜夕代くん。女の子が、はしたない真似をしてはなりません。しかも、ありもしない淫行疑惑で先生を脅迫するとは何事ですか」
三流任侠映画の姉御っぽい台詞まわしをする私に、田中先生が苦言を呈する。
「女の子? どういうこと? この子、性別が変わったの?」
教頭が、皿のような目で田中先生に質問をする。
「夜夕代くんは、男でもない女でもない微妙な存在でして。大前提として性自認は女性。身体については、人格の入替と同時に体が女体化することを、本校の養護教諭が確認しています。ただし、ここだけの話、男性性器は残ったままです。この点についても養護教諭が確認済みです」
耳打ちをする田中先生。
「こら~、こそこそ話すな。全部聞こえているっちゅうの。誰が微妙な存在だ誰が。私は女よ。異論があるならハッキリ言いなさい。とことん話し合うわよ」
そう教頭と田中先生をガン詰めしかけた時だった――
「失礼します。二年一組の春夏冬です」
愛しの春夏冬くんが、突然生徒指導室にやって来た。
「どういうことですか、田中先生。三年の先輩を殴って病院送りにした一件で、愛雨が指導されているらしいじゃないですか。まず、三年の先輩を殴ったのは、愛雨ではなくて和音だし。ボクはあの日現場にいましたが、和音の行為は、正当防衛だと言い切れますし。ただし、なぜ今、夜夕代がここでお二人と舌戦を繰り広げているのか? そいつはいささか理解をしかねますが……」
「キャー、ダーリン。スケベ教師に囚われの私を、助けに来てくれたのね」
彼の厚い胸に飛び込む。途端に彼が顔を赤くする。きゃわゆ〜い。
「田中先生。尋常じゃないハンサムが、何や知らんけどワーワー言っとるぞ。まさか、彼が――」
「はい、教頭。彼が春夏冬くんです」
「それでは、これよりボクが、和音の潔白を証明します。事件が起きたのは、十二月十九日の木曜日。最高気温9・9度。最低気温3・7度。日最大風速3・1。この日、ボクと和音は、16時に血の池公園で空手の稽古をしていた。すると、16時23分45秒、同校の先輩が、和音に因縁を吹っかけてきて――」
「何だコイツ。おい、田中先生。なんか凄く細かいこと言い出したぞ」
「はい、教頭。彼は、時間や気候など、法則性や規則性のあるものにこだわりが強のです。ちなみに、いったん興味をもったことは異常なまでに熱中をするタイプで、発言も行動も規格外、まったく掴みどころがなく、市長のご子息なので滅多なことは言えませんが、ひとことで言うと怪物?」
事件当日の状況を機械のように説明をする春夏冬くん。どの角度から見てもイケメン。残念な角度がナッティング。私は、場違いなのを百も承知で、艶のある金髪の先端をもじもじと触りながら、彼にデートの時間の確認をする。
「ねえ、ダーリン。そんなことより今日はクリスマスイブよ。夕方に私とデートする約束、忘れてないよね」
「ああ、もちろんさ。今日は18時にジャスオン大久手店のフードコートにて、夜夕代と330円のソフトクリームを食べる予定だ」
「あれれ? 春夏冬くん。今日は18時から、僕と、君の部屋で勉強をする予定だろう?」
黒い髪をわしゃわしゃと掻きむしり、僕は彼に問うた。
「あ、愛雨だ。うん、その約束は18時15分から予定している」
「ちょっと待ってよ、ダーリン。デートの時間がたったの15分って、あんた、私を舐めてんの」
金髪が逆立つほどの勢いで、私は彼を問い詰める。
「あ、夜夕代だ。ボクは君を舐めてはいない。ボクが舐めるのはソフトクリーム」
「待てコラ、春夏冬。俺と喧嘩の真剣勝負をする約束はどうすんだあ」
俺は、会議机を蹴り上げる。
「あ、和音だ。ちなみにあれは喧嘩ではない。空手の稽古だ。稽古は18時30分から」
春夏冬の独特なスケジュール管理を目の当たりにして――
「おい。田中先生。彼、なんか、ちょっと、アレだね……」
「はい、教頭。しっかりしているようで、肝心なところが削いだように欠落しているのです」
教師二人が、呆れてやがる。
俺たちは、人格を激しく入れ替えながら、ひとつの体で兄弟喧嘩を続ける。
「俺との空手が最優先に決まってんだろ」
「私とのデートが一番よ」
「僕との勉強が大切だと思うなあ」
「何よ、この馬鹿」
私は、自分で自分をビンタする。もとい、和音をビンタする。
「やんのかこの野郎」
俺は、自分で自分の胸ぐらを掴む、もとい、夜夕代の胸ぐらを掴む。
「おい、二人とも、暴力はやめろ」
僕は、自分で自分の仲裁に入る。もとい、和音と夜夕代の仲裁に入る。
「あわわわ。田中先生。なんじゃこりゃあ。狂気の沙汰じゃあ」
顔を左右に向けてことで登場人物を演じ分ける落語家のように会話をする僕を見て、教頭は常軌を逸する寸前だ。やばいなあ。どうしようかなあ。いつまでも不毛な言い争いを続けていても埒が明かないなあ。
「ジャンケンで決めたらどう?」
僕と、俺と、私の、春夏冬くんが、自分のトリプルブッキングがトラブルの元凶のくせに、笑っちゃうぐらい平然と提案をしてのける。なるほど、公平なジャンケンで勝った者が、18時からの春夏冬くんとの予定を独占できるというわけだね。
「名案だ。よし、ジャンケンで決めよう」
「おう。負けねえぜ」
「さあ、いくわよ。ジャ~ンケ~ン、ポイ!」
……静寂。……ひとりチョキ。
「こら〜、春夏冬くん。私らに、ジャンケンが出来るわけないでしょうが~」
「ああ、気が違いそうだ」
教頭が、その場にうずくまり、頭を抱えている。いや~ん。
【登場人物】
櫻小路愛雨 悩める十七歳 三人で体をシェアしている
櫻小路和音 荒ぶる十七歳 三人で体をシェアしている
櫻小路夜夕代 恋する十七歳 三人で体をシェアしている
春夏冬宙也 幼馴染 怪物
田中先生 担任 事なかれ主義者
教頭先生 差別や偏見に満ちた男