第一話 社交界のコソ泥
――伯爵令嬢ミリア・フォークロスは、陰ながら社交界のコソ泥と呼ばれている。
ふんわりとした淡いブロンドの髪、宝玉と見紛うほどに輝かしい青の瞳。
紫紺のペンダントがかけられた胸元は豊かで、華やかながら可憐なドレスを纏った体つきはすらりと細くしなやかだ。
彼女が微笑みを見せるだけで男たちは見惚れ、令嬢や婦人さえ目を奪われる。人形のようだと称される完璧な美貌を持ちながら悪名が轟いたのは、ミリアの行く先々で小さな……とは決して呼べない事件が起き続けているから。
呼び名が怪盗ではなくコソ泥なのは、お世辞にも手口が綺麗とは言えない故である。
たとえば、彼女主催の茶会にて、公爵家の令嬢が高価なアクセサリーを失くした。
たとえば、彼女が参加したパーティーで、大富豪所有の名画が奪われた。
彼女の友人の令嬢の家では不正の証拠が盗まれ、漏らされたことによってお家取り潰しに至ったという事例もあった。
ミリアは決して証拠を残さない。疑いをかけられて問い詰められても「存じ上げませんわ……」と困った顔を見せるだけだ。
しかし貴族社会において不確かな噂が回るのは早い。いつしか公然の事実となっていた。
「フォークロス伯爵家も落ちぶれたものですね。素行の悪い庶子を処分しようともしないなんて」
「ふふ、歴史だけあっても所詮は没落寸前ですもの。哀れですわ」
「ミリア嬢は観賞用の毒花だよな」
「関わったらどんな目に遭うことやら……」
社交界に赴く度に陰口を耳にして。
当のミリアは、口さがない噂に耐えて健気に笑顔を浮かべるおとなしい令嬢を演じながら――内心ではなんとも思っていなかった。
――ヒソヒソ話しかできないわけ? 一人くらい真っ向から言ってきてもいいのにねぇ。
だってミリアがコソ泥というのは紛れもない事実。
陰口しか能のない連中に対して、『彼女は本当は心優しいんだ』なんて言う男もいるけれども、色香に惑わされただけの愚か者でしかないと思う。
「あ、そうだ」
そんなことよりも、頼まれたものを早く盗まなくては。
パーティー会場をぐるりと見回し、小さな花が生けられた壺を見つける。人の目が向いていない時を狙って壺に近寄り、こっそりと持ち上げた。
あとはドレスの中に隠して、両脚でぎゅっと挟むだけ。歩き方さえ気をつけていればそれでもう外からはわからなくなる。乙女の衣服を捲り上げるような無礼者は、ここにはいないのだ。
――防犯意識が低いと言うか治安がいいと言うか。貧民街とは比べものになんないわ。スられて当然よ。
目的は達成したことだし、適当なところで帰るとしよう。
パーティー参加者たちが未だ誰も壺の盗難に気づいていないのを見てミリアは、本当に馬鹿ね、と口元を歪ませるのだった。
ミリアの仕事は他家の宝物をくすねること。
依頼主のフォークロス伯の望み通りに、あらゆる盗みをこなしてきた。
領地運営の失敗、農作物の不作、そして嫁がせて名家との繋がりを得るために利用できたはずの娘の病死。
多くのことが重なって没落寸前になった伯爵家には、どうしても金になるものが必要だった。正当な手段でやりくりしてどうにかなる段階をとっくに通り越していたので。
しかし安値で雇える人間は腕が悪過ぎて役に立たない。そこでフォークロス伯はなんとも突飛な発想を得る。貧民ならば盗みが得意な奴がごまんといるのではないか、と。
そこで選ばれたのがミリア。
逃げ足が速いことで貧民街では凄腕と有名だった、当時は名もない孤児のコソ泥である。
ミリアと名付けられ、フォークロス伯ととある下働きとの間に生まれた庶子という設定で養女として引き取られるまでに、時間はかからなかった。
淑女に見せかけるために受けさせられた教育は窮屈ではあったが、報酬として衣食住にまるで困らない豪華な暮らしを与えられているのだから何も文句はない。
やがて、栄養不足のせいでボロキレのように痩せ細っていた小柄な体は見違えるほど美しく成長。人形のごとき令嬢の出来上がりというわけだ。
自分は間違いなく運がいいとミリアは思っていた。常に隣に死があった貧民街で生き残れたのも、こうして伯爵令嬢の肩書を持てたのも、全部全部。
だから想定外だった。もしかしたらこの、至高のコソ泥生活が終わるかも知れないくらいの無理難題を押し付けられることになるなんて。
「ミリア、お前に次なる依頼だ。皇帝陛下の初恋を奪ってこい」
「承りまし…………、いや、は?」
宝石や指輪、名画から高価な壺に至るまで。
社交界に出るようになって以降、今まで多くの品を盗めと命じられてきたミリアだが、こんな具体的ではないものを指定されるのは初めてでぽかんとしてしまった。
しかも、初恋。皇帝陛下の、初恋。
「ハリエット・ペリン公爵令嬢が皇妃に収まると都合が悪い。皇帝陛下の目が他に向かぬようにしなければならないのだ。今は亡き我が娘マリア・フォークロスは皇帝陛下の心を動かすことができなかったが、お前の美貌であれば可能だろう? 妃になれずとも、最愛の座を奪え」
――無理でしょ。
心の中で即座に答えた。
冷酷非道の血まみれ皇帝。皇家に楯突く者あらば容赦なく処断し、国内外問わず数々の戦場を紅く染めてきた実績から物騒な二つ名で知れ渡っている。
この国、否、世界中から恐れられる男に取り入るなんて、できっこない。
「少々危険過ぎるのでは? 相応の対価があるならまだしも……」
「皇帝の最愛となり、皇家から財力支援を得られれば、お前はもう盗みをせずに豪遊できる」
なるほど、条件としては悪くないのだろう。
けれど――。
「わたしとしては今のコソ泥生活で満足していますの。皇帝陛下の最愛だなんて畏れ多いもの、とてもとても」
ここ数年ですっかり板についた淑女然とした笑みを浮かべ、それ以上の条件を提示しなければ動かないと言外に示す。
「皇家の関係者として宮殿に住まうことになる。それほど己の在り方に誇りを持つなら、秘宝の一つや二つ盗んで好きにしても構わん」
「……皇家の、秘宝」
秘宝と聞いて、ミリアは思わず目を輝かせてしまう。
正体不明のそれは、太古の魔石だとか、老いてもなお美しさを失わない魔道具だとか言われている。
たかがコソ泥の分際で盗んでいい代物ではないからと狙ったことすらなかったけれども、手に入れられる可能性があるとしたら興味を抱かずにはいられなかったのだ。
それにしても、さすがに皇帝陛下の傍に赴くのはちょっと。
「この条件でもまだ嫌だと言い張るのであれば力づくでも頷かせなければならなくなるが、どうする?」
とうとう脅迫ときたか。
ミリアとフォークロス伯は実質契約関係にあるが、身分の問題でフォークロス伯の方が絶対的に有利。監禁され拷問を受けさせられたら、か弱き乙女であるミリアの心身などあっという間にズタズタになってしまうだろう。これはそういう脅しだ。
チッと舌打ちしそうになるのを堪えて、怒りを込めながら強く強く胸元の装飾を握りしめる。
でもそうしたところで何も変わらない。だからドレスの裾を摘んで頭を下げた。
下げるしかなかった。
「承りました」