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陰陽師土御門鷹一郎と生贄にされる俺、山菱哲佐の物語 ~明治幻想奇譚  作者: tempp
あけぬ夜はなし 朝を待ちわびる二人の話 明治16年秋 ←エブリスタ執筆応援「執着/独占欲」佳作

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   明けた夜

 弥治郎は夕霧の部屋に上がり、夕霧を真っ直ぐに見つめた。昨夕見た嫋やかな夕霧と同じであったのに、僅かに歯の根が震えた。極力今の夕霧を目に焼き付けようとした。けれども青山の言う通り、今朝の姿がちらりと脳裏を巡る。

 食欲はまるでなかったが、運ばれてきた粥からは上品な鰹出汁の香りと梅の酸味、紫蘇の爽やかさが漂い、その胃の締め付けをわずかにやわらげた。

 平常。

 弥治郎は奇しくも、食事という普段の営みによってそれを漸く取り戻していた。そして自らの目の前に座る夕霧が今朝までの夕霧と同じで、しかもそれを継続しうるものだと何とか思い込もうとした。


「主さん……」

 弥治郎は夕霧の涼やかな声にびくりと肩を震わせた。昨日聞いた嗄れた声とは全く違うのに、自身の頭では何故だかあの化物と同じものと認識されたからだ。夕霧は僅かに、寂しそうに表情を変えた。そして夕霧も自分を観察していたのだろうということに思い至った。

「主さん、お越しいただいてありがとうござりんす。それだけでわっちは、嬉しゅうて泣いてしまいそうでありんす」

「夕霧……」

 夕霧はいつも通り儚く微笑んだが、その目元にはいつもより強い憂いが滲んでいた。弥治郎は今朝のことは幻だ。幻覚だと更に強く刻み込む。そうすれば僅かに心は平たくなった。

 このまま幻覚だと思えば、これまでと同じ暮らしが過ごせるかもしれない。弥治郎はほんの少しだけ、そのような期待を抱いた。けれどもそれを許さなかったのは夕霧だった。


「主さん、今朝のわっちも本当のわっちでありんす。わっちはあのような化物でありんすえ」

「やはり幻覚では、ないのだな」

「あい」

「このままでは、これまでと同じ関係では、駄目なのだろうか」

「主さんがそうされんすなら、そうしておくんなんし。わっちももはや、今朝のことは申しんせん」

 けれども弥治郎が改めて夕霧の手を取ろうとすれば震えて取り落とし、その唇に口づけをしようとすれば、今朝の割れた夕霧の顎門が脳裏に浮かび、体は硬直した。

 そのような弥治郎の姿を見て、夕霧は儚くため息をついた。

「楼主様はきっと、こうなるのがおわかりでありんした」

「楼主が?」

「随分昔にもわっちを身請けしたいという方がいらしたんす」

 夕霧が言うには、その時の楼主は一言、やめておきなさい、とだけ言ったそうだ。夕霧も上手くいくはずもないと思い、素直に楼主の言う通り身請けを断った。その男は身請けできぬと知れば、蝋燭の炎が燃え尽きるように、やがて訪れぬようになった。これまで日を置かずに続いた訪れがなくなり、数ヶ月経った頃、夕霧は楼主を(なじ)ったという。


「どうせ上手くいきんせん。どうせ無理でありんしょう。けれどもそんなら、一度だけでも」

「夕霧、私は長く生きている。だから人を見る目というものは、お前よりは確かかろう。あのお客は駄目だ。決してうまくいかぬ。一縷の望みにかける余地もない」

「けれども」

「ただお前に恐怖し、あっという間にお前を化物と見切り、這々の体で逃げ出して、二度とお前の元には訪れぬ。そのように嫌悪で終わるのよりは良き思い出としたほうが双方に良かろうよ」

 その時は夕霧も何故だと思った。

 そしてその後、楼主が止めた身請けに同意した遊女は芳しくない扱いを受けていることに気がついた。そして極めて稀に、楼主が止めなかった身請けについては、その後も手紙の往来が続き、幸せにしている様が浮かびあがった。

 そうしてやはり、楼主の人を見る目というものは確かで、自分があの時身請けされればやはり上手くはいかなかったのだろうということも思い当たった。土台、人の世で日の光を浴びぬまま暮らすというのは不可能なのだ。

 そうして夕霧の胸には、身請けをすると言った男との、淡い思い出だけが残った。


「楼主様が主さんとの身請けに何も仰られんし時、ひょっとしたら上手ういくのかもしれぬと思いんした」

「夕霧」

「上手ういくはずはありんせんのに。けれども主さんはわっちの全ての姿を見せても会いに来て頂けんした。わっちはもう、それだけで心が裂けそうになるほど嬉しいんす」

 そう述べて、夕霧は儚く、けれども嬉しそうに微笑んだ。弥治郎はその瞬間、きっぱりと断裂を感じた。化物と人間の間の断裂ではない。目の前の夕霧と自分自身との間の断絶だ。夕霧は俺との将来を諦めている。

 夕霧が例え化物の姿を持っていたとしても、今目の前の人の姿の夕霧が失われるわけではない。そのように心に刻んでいたではないか。それなのに、弥治郎の目の前で遠くなりゆくのは、これまでと同じ夕霧だった。化け物ではなく。

 弥治郎にとって化物は恐ろしかったが、何より恐ろしかったのは夕霧を失うことだったと思い出した。


 弥治郎は諤々と震える腕で夕霧の肩を抱き寄せ、極限まで強張った顔でその艶やかな唇に僅かに口をつけた。

 夕霧の瞳は最大にまで見開かれ、その刹那の接吻が終わった時、夕霧からこれまで見たこともないほど幸せそうな涙がほろりと溢れた。

「夕霧、俺はお前が愛しい。生涯の伴侶と思っている」

「あい」

「けれどもお前の身請けができないことも理解した」

「あい」

「お前は今朝のお前もお前だと言っていたな。一つだけ問いたい。お前の真実の願いは俺を食うことか」


 夕霧は目を伏せ、けれどと間も無く目をあげて、僅かにまつ毛を震えさせながら真っ直ぐに弥治郎を見つめた。

「……そうでありんす。主さんにはお分かりになれんしょうけど、ひとつの血肉となり混じれば二度と離れることはありんせん。わっちにとって、ずっと一緒にいるとは、そのようなことでありんす。けれども夜の間はそんなことにはなりんせん。これまでと同じでありんす。夜がわっちの人の心を守ってくれんすから」

「……そうか。俺にはよくわからない。けれどもこれで俺とお前の間に隠し事は何もないか?」

「全てでありんす」

「そうか」

 弥治郎はそれを信じることにした。そして信じるということがどういうことか、考えることにした。

 弥治郎は未だに、夕霧の人である手のひらに触れ、軽い接吻をすることが恐怖の限界だった。だから夕霧の部屋にもう一組布団を敷いてもらい、手を繋いで眠りについた。弥治郎にとってはそれが精一杯で、けれども夕霧にとってはこれほど幸せで良いのだろうかと思う日々だった。

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