4章 コンペティションの行方
遅めの朝に新地を出た弥治郎は、カフェーに寄らず店に戻った。そして頭をかかえた。
思えば友人の、そして青山の言っていたことは本当だったのかもしれない。幽凪屋は化物楼だ。けれどもその楼主である幽凪晴夜は、それが現実だとは明言しなかった。いや、そんなことを言っても仕方がないと弥治郎は思い直す。確かに楼主は言ったのだ。夕霧は日に当たれぬ他は人と変わりない、と。
夜のみに生きる遊女を説明するのに、それ以上の言葉は不要だろう。
どのくらい時間が経ったのだろう。揚戸が開けられ番頭が打ち拉がれる弥治郎に大丈夫かと尋ね、それでも日常は回り、何名かの客が白河屋を訪れていた。
「弥治郎、それでどうするんだ?」
「どうする……?」
「その様子では夕霧の姿を見たのだろう?」
「青山様、あれは現実であったのでしょうか」
「現実?」
「確かに私は化物を見ました。けれども楼主殿は私が幻覚に見えるのであれば幻覚だと言うのです」
「それでお前は幻覚に見えたのか?」
「……それを判断しかねています」
いつも通り淡々と帳簿を捲る青山を、弥治郎はぼんやりと眺めていた。青山は何でもないようにいつも通りだ。
いつもの昼日中。夜の世界と隔絶した異常の起こるはずのない明るい往来。けれども弥治郎が見た幻覚も、日の光の中のことだった。
光の中でこそ現れる妖。こんな話、誰が信じよう。
青山はわずかに顔をあげ、呟いた。
「それほどの差異か」
「差異?」
「ああ。お前と夕霧の間にあるものは」
弥治郎はその差異という単語に混乱する。弥治郎が見たあの夕霧は、人とは、そして弥治郎自身とは決定的に隔たっていた。そのように見えたのだ。
けれども差異。自分と全く異なる存在だと思ったが、差異といえば差異だ。
「人としての暮らしは営めそうにないのか?」
「……身請けしたら私は死にます」
「なるほど。ではどうするか決まったら連絡をくれ」
「どうする、とは」
「お前が身請けをするならば、そしてお前が死ぬのならば、この店の行く末も考えなければならん」
弥治郎は絶句した。そしてやはり、青山は弥治郎の言うことを信じていないのだろうかと思った。弥治郎自身すら信じるかを決めかねているのだから、仕方がないとはいえその返答はずいぶん他人事のようで冷たく聞こえたのだ。
青山にとっては弥治郎の事情は確かに他人事には違いないとも思う。
「青山様なら現実と信じますか」
けれども自嘲するように問う弥治郎に対して、青山の答えは明朗だった。
「信じるよ」
「けれども信じたら死んでしまいます」
「差異が埋められぬのなら仕方がない。信じた上で、死にたくないのであれば今まで通り通えば良いだろう?」
「幻覚ということにして?」
青山は漸く、しっかりと顔を上げて弥治郎を見た。珍しく何か考えるように腕を組む。
「お前は幻覚ということにできるのか?」
「わかりません。それほど現実離れしています」
「そうじゃない。現実か幻覚かという問題ではないんだ。何故ならお前は見たからだ」
「見た?」
「ああ。幻覚と思えるならそれも一つの方法だとは思うが、見た以上、現実ではないかという疑念はお前を苛み続けるだろう。だから認識の可否で世界を分け隔てるべきではないだろう。これは夕霧とお前との間に現実に存在する差異を、お前自身が認められるのかという問題だ」
「存在する差異」
青山の目はじっと弥治郎を見つめていた。差異。差異とは何だ。弥治郎の頭は差異という言葉で埋め尽くされる。
「病、異形、化物。それはそのように認識するからそうなる」
「認識するから、そうなる?」
「弥治郎、病だからどうだとか、化物だからどうだとか、そう区分けすることに何の意味がある。夕霧はお前の前に現れたのだろう? ならばその夕霧を、つまりお前との差異をお前が認められるかを考えるべきだ」
夕霧との差異。
弥治郎にとって今朝方見た夕霧の姿は化け物にしか思えなかった。親愛の形すら人と違うのだ。化物とは決して分かり合えない。最終的に弥治郎が抱いた思いはそれだった。
以前、弥治郎は青山に、化物とは人と異なるものだと答えたが、あの格子の中の異形を夕霧に重ねるうちに、化物とは人に、つまり自分に理解し得なぬものだという認識を抱くようになっていた。
だから夕霧は化物で、人ではないのだ。そう思えば、今朝の惨状が思い浮かび、足がすくむ。
「弥治郎、一つ忠告をしよう」
「忠告、ですか?」
「お前はそれを幻覚だと思うことはできない。それは楼主の虚言だ」
「どういうことです?」
「お前はそれを幻覚と認められるのか? 差異が大きければ大きいほど、お前の魂に刻まれた断絶は深い。その断絶を認めなければ、夕霧に会う度にその化物の姿が必ず脳裏にちらつき、いずれその断絶に耐えきれなくなるだろう」
「そんな」
「中途半端な誤魔化しは無意味だ」
弥治郎は青山の目に茶化すような様子が全くないことに気がついた。
その夜、幽凪屋に向かう弥治郎の足取りは、頭上の曇天を映し取るように重かった。華やかな新地が闇に塗り込められたようで、ずぶりずぶりと足元が底なしの沼に沈んでいくようだ。
格子に回ればたくさんの異形が溢れていた。けれども前日と違い、弥治郎にはもはやそれが化物のようには思われなかった。その内側には何がしかの化物を潜ませる者がいるかもしれないが、その人間と変わらぬ和気藹々と仲の良さそうな様子は、夕霧との断絶が深いゆえにことさら、弥治郎にとってまだ、理解しうるもののように思われた。
そして弥治郎は格子の内に夕霧がいないことに気がついた。そして自身の訪れがいつもより随分遅かったことに気がついた。ひょっとして夕霧が他の客に買われたのか。
そう思えば、弥治郎は居ても立ってもいられずあわてて幽凪屋に駆け込んだ。
「夕霧は!」
その瞬間、四つの瞳が弥治郎に向いた。広間には楼主と、それから目の下を赤く腫らした夕霧が座っていた。
楼主が夕霧の背を撫で摩り、弥治郎のほうに押し出す。
「主さん……」
「ほら夕霧。私の言った通りだろう。お客様はちゃんとお越しになられたよ」
「楼主様、ですが」
「お前はうちの遊女だろう? お客様が来られたのだ。お相手をして差し上げねば。……けれどもどうしても調子が悪いというならば、お断り差し上げよう。お客様も無理はおっしゃるまい」
「夕霧、せめて話だけでも」
思わず弥治郎からでた言葉はそれだった。
「主さん……」
「話だけでもというならそうしてあげてはどうだい? お客様もお食事はまだのようだ。何か簡単なものを運ばせよう」
そう呟いて、楼主は煙管の煙をまじないのようにすぅと夕霧に吹きかけた。




