恐ろしい姿
夕霧が言うには、その恐ろしい姿というものは、夜闇の中でも夕霧を飲み込もうとしているのだそうだ。そしてそれを抑えているのが楼主の吸う煙管の匂いだという。それを厭うて、その恐ろしい姿は人の夕霧の内に隠れている。
弥治郎は俄には信じられなかった。けれども夕霧はようやく秘密を吐露できたというようにホッと息を吐いた。
夕霧は一度広間に降り、楼主に今日の夜明けにその姿を弥治郎に見せる了承を得た。夕霧は悲壮を滲ませながら、弥治郎にそう告げた。
「何故そんな顔をする」
「主さんはきっとわっちをお嫌いになるでありんしょう」
「そんなことはない、はずだ」
弥治郎は、そんなことはない、とは言い切れなかった。何故なら夕霧は悩みに悩んでその言葉を吐いたはずだからだ。その覚悟は安易に否定して良いもののようには思われなかった。
弥治郎は未だ見ていないその化物だという姿を想像する。脳裏で引き合いに出るのはやはりあの格子の内側だった。
夕霧の鼻が溶け落ち、痘痕が浮かぶ。けれどもそれは病だ。弥治郎は一度添い遂げると決めた。その容色が衰えたとしても、きっちりと自身が面倒を見るつもりだ。
夕霧の両腕あるいは両足が欠落する。不自由であろう。けれども生まれて後、病や事故で四肢を失う者はいる。もとより家の中に篭れば良いと思っていた。自身のいない間は女中を雇って世話をさせれば良い。
夕霧の背丈が大きく伸び、あるいは小さくなる。それがどのようなものかはいまいち想像はつかなかったものの、弥治郎はその身長によって夕霧に惚れているのではないことは間違いない。だから……おそらく問題はないだろう。
皮膚に鱗が生える。夕霧の美しく伸びる腕を眺める。鱗。魚のように鱗がつくのか。やはりいまいちピンとはこないが、あの格子の中の蛇女を思い浮かべ、夕霧の身に乗せてみる。夕霧だと思えば何故だかさほど忌避感は覚えなかった。
眼が一つであるのは些か困惑が勝つ。根源的な薄気味の悪さを感じるが、自身は夕霧の姿のみを好きなわけではない。だから……よくわからない。
この夕霧の胴からもうひとりの夕霧が生える。……それはその新しい夕霧と上手くいくかどうかという問題なのだろうか。ひょっとしたらその恐ろしい姿というものはもう一人の新しく生える夕霧なのだろうか。そこまで考えると、最早弥治郎の想像の及ぶところではなかった。
「主さん?」
「俺はお前を嫌うつもりはない。けれども俺はまだお前がその化物だという姿を見ていないのだとしたら、安易に答えるのも不誠実に思う」
「……主さん」
「お前の言う姿がどういうものかはわからないが、お前を失いたくはない。それが本心だ。だからともあれ、平常を保つことにしよう」
「それだけでわっちはもう十分でありんすえ」
そうして触れた夕霧の肌はやはりいつもと変わらず艶めかしく、それが失われるものではないということを弥治郎は念のため心に刻んだ。
(注意:以下は淡々ゴアですので、苦手な方は飛ばして下さい(飛ばしてもさして問題ない気はする)。)
そうして新しい一日の始まりに全てがざわめく時分、弥治郎と夕霧は幽凪屋の二階の普段は使われないという一室にいた。十畳程の部屋に箪笥が一棹置かれているだけの簡素な部屋だ。そこで夕霧は楼主に後ろ手に鉄条できつく縛られた。
「楼主様、何故このようなことを」
「夕霧の希望です。つまり夕霧もお客様のことを得難く思っておりますゆえ、このような真似を望むのでしょう。これでも足りぬかもしれないが、あるいは夕霧、解くかね?」
「いえ、楼主様、何卒そのままでお願いしんす。主さん、わっちの中の化け物も主さんをそれはよう慕っておりんす。ですからお会いすればどのような真似に及ぶかわかりんせん」
その鉄条という異常は、弥一郎に困惑を超えて不安をもたらす。
「……そのもう一人のお前はお前ではないのかい?」
「いいえ、それも間違いなくわっちでありんす。けれども人がお酒を召された時のように、わっちはその気持ちを抑えきれなくなりんす」
「夕霧、それで本当によいのだね」
楼主はまじまじと、そして表情のよくみえぬ顔で気遣わしげに夕霧に尋ねた。
「ええ、主さんはきっと諦めてくれんせん。今のままではわっちは主さんを謀っているも同じでありんす。それにわっちは気がとがめておりんす。それがわっちの運命なのでございんしょう」
頷いた楼主がその部屋の雨戸をわずかに開けば、陽の光とさわやかな空気がさらりと差し込み、室内の埃が光の中に舞う。それとともに、夕霧の腕が括られたまま、ずるりと2つに分かれ、4本となる。そのせいか締め付けた鉄条が食い込みギチチという音がなった。けれどもその皮膚は鉄条に食い込むでもなくガサリとまるで殻に覆われるが如くつややかに固くなり全身に広がっていく。まるで、蟷螂の、ように。
その姿に弥治郎は腰を抜かした。目の前で広がる異様はあの格子の中の誰にもまさる。その姿は正しく。
化け物。
そのあまりの姿に、先ほどまでの弥治郎の平常は既に全て吹き飛び、ガチガチと歯の根が震える音が響く。
「楼、主様、これも幻覚、なのでしょうか」
「お客様にそのように見えますならば、これは幻覚なのでしょう。朝になれば幻覚に惑わされますゆえ、これまで通り夜に夕霧の部屋に通われればよろしい。もとより夕霧はそれを望んでおりました」
「夕霧、が」
「ええ。夕霧はそのように申してはおりませんでしたか? 夕霧の不具は日の下でない限り、人とは変わりません」
けれども日の下での不具は、それは確かに夕霧の言う通り恐ろしい姿をしていた。弥治郎が思わず逃げ帰ろうとしたとき、それを引き止めたのはやはり夕霧の声だった。
「主、さん」
「夕霧?」
それは確かに、夕霧の頭部からぽつりと聞こえた。そしていつもと同じような呼びかけようだった。
おそるおそる見上げれば、確かに硬い皮膚に覆われようとも、その顔には夕霧の面影があった。そしてその姿は大分変われども、その骨格やらなにやらに、確かに夕霧の名残は存在した。思わず近寄ろうとする弥治郎を押し留めたのは、弥治郎の前に立っていた楼主の細腕だった。
「夕霧、お前はどうしたい」
「お父、さま、わっちは、主さんを、お慕いしておりんす、だからわっちは、ずっと主さんと一緒になりたいので、ありんす」
「夕霧」
記憶の中の夕霧とは似つかないけれども同じような音律を刻むガサガサとした声に、弥治郎はハッと目を見張った。それこそが、弥治郎が聞きたかった答えだったからだ。そして弥治郎はその姿に恐ろしさを感じてはいたが、これが夕霧であることもその魂のどこかで理解していた。目の前の夕霧が発する眼差しに違いはないように思われたからだ。つまり、目の前にいるのは姿形が異なれども夕霧なのだ。
近寄ろうとして、そして楼主に再びその前を遮られる。
「ああ、愛しい、主さん、どうされ、たんし?」
「夕霧、やはりお前の望みはそうなのだね。お前は私も好きだろう? お前の親愛がどういうものか、お客様にお見せしておあげ」
「お父、さま?」
「お客様は今のお前の姿をご覧になるのは初めてだ。突然のことでお困りなのだ。お前はお客様をどうしたいんだね? お示ししなさい」
楼主は困惑をわずかに浮かべる夕霧の前に出て、その頭を子どものように撫でつける。夕霧は気持ち良さげに目を細めながら弥治郎と楼主を見比べ、突然楼主の首筋にかじりついた。途端に赤黒い粘液がその首元からこぼれ落ち、楼主の着物が赤く染まる。夕霧の唇の端が蟷螂の大顎のように割れ、それが楼主の肩口に食い込み、ぱきりぺきりと鎖骨が砕かれる音がする。弥治郎の喉の奥からヒという短い音が漏れた。
それでも楼主は夕霧の頭をなで続け、濃い血の匂いと咀嚼音だけが部屋に浸透する。やがてどさりと夕霧を撫でていた腕が床に落ちた。それを拾おうともがく夕霧の腕はやはり、きつく縛られたままだった。
夕霧はその姿になれば自らを抑え切れないと言っていた。つまり、目の前にいるのは姿形が異なれども、やはり夕霧なのだ。弥治郎はその事実に最早、凍りついたように身動き一つできなかった。
「夕霧、今は眠るといいよ。話は後で聞いてやろう」
「お父、さま?」
楼主はそう述べ残った片方の腕で煙管を口に含み、細長い煙を夕霧だったものに吹きかければ、それはわずかにたじろいだ。そのすきに楼主は大量に血を滴らせながらも夕霧のそばをするりと通り過ぎ、ぴちりと僅かに開いた雨戸を閉じる。そうすると、楼主の吐く煙は開口部を失った狭い部屋の中に次第に充満していく。
そのうち夕霧はくたりとその力を失い、先程までの姿は何だったのかというように柔らかな皮膚と二本の腕を取り戻していく。ふと見れば楼主も落ちていた右腕を拾い、肩口にとりつければ、もとのように収まった。
あまりにも平常を取り戻した二人に、弥治郎は今までの光景は幻だったのかと混乱していた。床は未だ赤黒いものが広がっていたが、それは寒天のように固まって丸まり、楼主はそれを千切れたはずの右腕で拾い上げて次々と口に入れていけば、染みすらも消え失せたのだ。
「楼主様、一体何が起こったのでしょう」
「後は二人でお話しすべき事でありましょう。さて、既に夜は開けました。お客様はお帰りになられる時間です」




