化け物と病
その日の夕焼けは殊更美しかった。
わずかな筋雲がたなびく他は、憂いをはらむ未だ明るい青から地に近づくにつれて次第に赤みを増し、一面が綺麗なグラデーションを描く。夜が昼を段階的に静かに昏きに沈めている。弥治郎は店を早仕舞いし、その暮れの中を新地に向かって歩いていた。
賑やかな振興区を抜ければ旧来の街並みが続き、その奥には民家や長屋が広がっている。そこを暫く歩けば小龍川に行きあたり、川に沿って大回りに歩いて行けば揚屋が集まる新地の大門前にたどり着く。このあたりは新地ができた時に行政が新しく整えた地域だ。散らばっていた揚屋や遊女屋を集めて官製で囲ったのだ。だからその新地を囲う未だ白いその外壁が、傾きかけた陽を美しく照り返していた。
太陽は地平の上に浮かんでいたが、このあたりは既に夜を装い始めている。
「夕霧の問題とは何なのでしょう」
「単刀直入だな。まあまずは好きに飲み食いするがいい」
桔梗屋に上がると青山は既に上着を脱ぎ、首元をくつろげていた。次々と酒食が運ばれてくる。それは上等なものだったが、弥治郎の興味は夕霧のことだけだ。
「幽凪殿には夕霧のことを何と聞いている?」
「日に当たれぬとのみです。だから大門まで見送れないと」
「化物であることは?」
「化物、でしょうか」
弥治郎は眉間に皺を寄せる。確かに化物楼にいる以上、化物と呼ばれても仕方がないのかもしれない。けれども弥治郎は、夕霧が化物と呼ばれるのは許せなかった。湧き出る怒りをなんとか抑えようとする弥治郎の目を真っ直ぐ見すえ、青山は続ける。
「お前は夕霧を化物と呼ばれるのが嫌なのだな」
「勿論です」
「何故だ。あの遊女屋は化物楼と呼ばれているぞ」
「何故なら夕霧は化物ではないからです」
「ではお前にとって、夕霧以外は病者ではなく化物なのか」
「病者?」
弥治郎は言葉につまる。
弥治郎はそれについては深く考えていなかったからだ。一緒くたに考えていたことに思い至り、夕霧が化物ではない理由を改めて探し始める。
鼻が落ち、痘痕だらけの者は病だろう。瘡になればそのようになると聞く。上半身だけの女は奇形なのだろう。生まれた時から四肢や体の一部がない者は弥治郎の周りにもいた。また、成長しなくなる病があると聞くから、小人の女もそのようなものかもしれぬ。
けれども人は鱗が生えたり、体が二つにわかれたりはしないだろう。だからあの女どもは化物だ。
「全てとは言いません」
「化物と化物でないのとは、お前の中で何が異なるのだ」
「化物と? そんなものは明確です。化物とは人ではない者でしょう。例えば人に鱗は生えません」
「さて、世には癬の一種で皮膚が乾燥して鱗のようにひび割れる病があるそうだ。生まれつき目が一つであったり口が裂けている病もあるらしいな。そういう存在は人から稀に生まれるそうだよ」
「人から……?」
「人から生まれたものは人ではないのかね?」
そう言われ、弥次郎は困惑する。弥次郎にとってそれらは蛇人とか1つ目小僧とか、そういった妖怪の類、つまり化物の持ちうる兆候なのだ。
けれどもあの姿が病だというのか? 人から生まれるのであれば、それは人なのだろうか。
「それでは一つの体から二人の人間が生えた者はどうなのです。妖怪でも聞きません」
「さて、俺は医者ではないからな。けれども異人から聞いたことがあるが、腰や胸の一部が結合した者というのは昔から極稀に人から生まれるものらしい。結合したそれぞれは普通の人間と変わらぬそうだよ。腰から下が一つというものは聞いたことはないが、それも将来、何らかの病名で呼ばれるかもしれん。治療の方法も生まれるかもな」
病名? 治療の方法?
腰から下がもう一組増えるとでもいうのだろうか。
弥治郎は青山が言いたいことが理解しかねた。それでも再び思考を始める。なるほど、認識としては納得しかねるが、仮にあの格子のうちにいる者が化物ではなく不幸な病であるとする。化物ではないのに化物と呼ばれるのであればそれは憐れなことなのかもしれない。
けれどもそれが夕霧になんの関係があるというのだろう。青山の話が正しかったとしても、それはあの遊女らが日に当たれぬ夕霧と同じ立場であるというだけであって、夕霧の身請けができぬことと何か関わりがあるのだろうか。
「俺の知り合いの陰陽師は、化物や神秘というものは、そのうちそれが何だかすっかり解明されて、何でもないものに成り果ててしまうと言う。けれども俺は、少なくとも俺が生きている間はそうはならんと思う」
「青山さん。話がよく読めないのですが」
「幽凪屋の遊女のほとんどは病によってあのような姿を得ている。けれどもそうでない者もいる。例えば幽凪晴夜もその一人だ」
青山が欄干を指させば、そこには瑠璃色の美しい鳥が僅かに首を傾げて止まっていた。この近辺では見ない鳥だ。そして目を止めていれば外套を脱ぐかのように美しい羽を脱ぎ去り、その内側から30センチほどの身丈の幽凪晴夜が現れた。腰を抜かさんばかりの弥治郎の前をゆっくりと歩き、青山の前の陶磁の盃にのった干した葡萄を摘む。
「幽凪殿。お越しになられたということは、玉藻から金を受け取ったのだろう?」
「いいえ。玉藻太夫は朋輩ですから、興味本位でその御内儀のご機嫌伺いに来ただけです。けれども白河様がいらっしゃるとは騙された気分ですね」
「玉藻は何もいわなかったのか」
「ええ。お話になる前にお断りしましたから」
「あの、あなたは」
その幽凪のようなものは弥治郎の方をくるりと振り向く。
「白河様、これは幻術の類ですからお気になさらぬよう」
「幻、術?」
「ええ、私は現在も幽凪屋におりますので」
「幽凪屋に?」
「ええ、楼主というものは遊女屋が開けば広間にいるものですよ」
そのように呟く幽凪は、手元の葡萄を引きちぎり、口に入れた。弥治郎には、確かにその葡萄は目の前から消失したように見えた。
「夕霧太夫は化物なのだろう?」
「……白河様に申し上げた通りですよ」




