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陰陽師土御門鷹一郎と生贄にされる俺、山菱哲佐の物語 ~明治幻想奇譚  作者: tempp
あけぬ夜はなし 朝を待ちわびる二人の話 明治16年秋 ←エブリスタ執筆応援「執着/独占欲」佳作

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   幽凪屋の営み

 幽凪屋の広間には誰もおらず、しばらく待てば番頭が顔を出して夕霧の準備ができたと告げる。二階に上がれば、いつもどおりの夕霧が弥治郎を出迎えた。

「夕霧、先ほど楼主殿が格子の内に入っていたが、よくあることなのかい?」

「……そうでありんすね。いつもではありんせんが、月に一、二度は入られんす」

「あそこで何を?」

「何、といわれんしても、ただ三味線を弾かれたり、わっちどもと話すのでありんす。幽凪屋はあまり客がおりんせんから、広間にいても暇なのだと仰っしゃられんす」


 暇。暇と言われれば弥治郎も思い当たる。

 通常の遊女屋であれば多くの客が出入りして混み合うこともある。けれどもここでは自分の他に客を見かけたことはない。見かけるのは楼主と番頭、それから二人ほどの妓夫だけで、花車(楼主の奥方)遣り手(監督女)も見たことはない。番頭か妓夫のどちらかが入り口にいるだけのことも多い。一体どのようにして経営を成り立たせているのだろうか。弥治郎は自ら帽子店を営むからこそ、その金回りが気になった。

 そもそもこの幽凪屋は通常の遊郭と異なる部分が多い。

 遊女は全て個室を持ち、そこで客を取る。通常の遊女屋のように大部屋などもないようだから、そのような客と会うこともないのだろう。思えばこれも破格のことだ。酷い遊女屋では安い金で一晩で十人近くの客を取らされるとも聞く。だから確かに、そこらの遊女屋よりこの幽凪屋はよほど待遇はいい。夕霧の親は幽凪屋の待遇を知って、この店の前に夕霧を捨てたのかも知れぬ。

 弥治郎は夕霧のぬばたまのような黒髪をかきあげながらその白い首筋を眺めた。やはり美しく、その体を引き寄せてもどこにも不具など感じられなかった。

「夕霧、ここの暮らしが好きなのか?」

「主さん?」

「物心つく前にここに捨てられたのであれば、お前は外の世界を知らぬだろう? 外に行ってみたくはならぬか」

「いつも主さんから聞いておりんすから」

 夕霧ははにかむように微笑み、弥治郎の胸に頬を寄せた。

「百聞は一見に如かずという。いくら耳で聞いても目で見れば、その世界は全く異なるのだ。世の中はこの新地だけではないよ」

「主さんのおっしゃる通りでありんす。けれど、やはりわっちの家はこの幽凪屋でござんす。よくよく考えたでありんすが、主さんの身請けはお受けできんせん」

 待ち望んでいたはずの返答は、やはりきっぱりとした拒絶だった。夕霧は酷くもの惜しそうに、そして寂しげに微笑んだ。

「何故だ、せめて理由を教えてほしい。何か果たすべき問題があるなら俺も尽力しよう」

「……主さんをお慕いしておりんす。それゆえ、わっちはこの家を出てはいかれんせん」


 弥治郎が覗き込んだ夕霧の瞳は、強い憂いを湛えてはいたが、静かに諦めに澄み切っていた。全く変わらぬその柔らかい拒絶に、弥治郎はどうしてよいのかほとほとわからなかった。

 そして理由が明かされぬ以上、弥治郎には最早どうしようもない。けれどもそのように先が見えぬままでも時間は過ぎ、弥治郎の生活は続いていく。

 つまり、朝に幽凪屋で目覚めてカフェで朝食を取り、午前は白河屋での仕事を整えて七つ下がり(午後4時過ぎ)に白河屋か宇吉の店で打ち合わせ、その後に銭湯に寄ってから幽凪屋に向かう。

 夕飯は弁当を持ち込むか、予め連絡をしておけば幽凪屋に用意してもらって夕霧と取る。そして金はかかるとはいえ出前も出来、幽凪屋で用意した飯は仕出しほど豪勢ではないものの、まともに美味いのにその辺の定食屋より少し高いくらいに止まっている。

 よく考えればこの対応も破格なのだ。そして幽凪屋では全ての遊女が部屋を持っているとはいえ、部屋持ち女郎にしては夕霧は破格に安かった。

 夕霧に聞けば、弥治郎が夕霧を買うようになる以前も、幽凪屋の飯は同じようなものが出ていたらしい。通常の遊女屋の遊女はろくな飯が出ないと聞くのに、その飯代として遊女は高い借金を負わされるものだ。遊女の暮らしは苦海と評される。地獄のような生活の中で、若くして命を散らすのが常だ。

 けれどもこの幽凪屋の暮らしはおそらく、この新地を出られないことを除けば、そして客をとらねばならぬことを除けば、市井の暮らしより上等なのだ。だから夕霧はここを出たがらないのだろうか。


 弥治郎は再度自らの生活を振り返る。

 朝にこの幽凪屋を出て働き、幽凪屋に帰って夕霧と食事をして夜を過ごす。身請けしたとしても、その暮らしは寝床を幽凪屋から自身の家に変えただけで、それほど変わるものではないのかもしれない。

 夕霧が日にあたれぬという病を持つならば、自宅を訪れる客の対応もできぬだろう。それならば夕霧を家に置くよりは、この幽凪屋に置いておくほうが夕霧にとって快いのかも知れぬ。夕霧の考えはこのようなものだろうかと弥治郎は考えた。

 だから年季が明けて幽凪屋を出るまで、自身が毎日夕霧を買うのなら、それは通常の夫婦とさほど変わらないのかも知れないと。


 弥治郎には許せないことが二つある。

 一つは夕霧が他の男に買われることだ。これは決して許せない。既に弥治郎にとって、夕霧は一生を添い遂げるべき妻だった。夕霧がいない人生など考えられないと思うほどには、その思いは強かった。だから当然、身代が傾いても通い続けるつもりはある。

 けれども問題はもう一つだ。それは先夜、夕霧が格子の中にいる姿を改めて見て自覚したことだ。夕霧が、つまり自分の好いた人間が『化物楼の遊女』として扱われていることが許せなくなっていた。

「わっちらは家族でありんすから、七つ下がりに一緒に食べるのでありんす。今は主さんをお待ちしておりんすからお部屋でしんすが、もし主さんが来られんなら、後で簡単な食事を作ってくれんす」

 客、つまり俺がいなければ、飯は一階の奥の食堂で皆で取るという。風呂も幽凪屋内で皆で交代で入るという。この幽凪屋では女は身を売り、男はその他のすべての用事を整える。それは形は通常とは異なれど、あたかも一つの家族のように動いていた。そして自身は蚊帳の外にいる。

 確かに待遇は良いのだろう。

 けれども弥治郎にとって夕霧は特別だった。なのに夕霧はこの幽凪屋では、他の女郎と同じように、ここにいる限り他人からは化け物として扱われるのだ。それが酷く不快だった。

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