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やっぱり現実はいじわる!

「私、ディーテくんがお兄ちゃんで良かったよ」


 ニヤけないように。声がうわずらないように。努めて冷静に。淡々と。


 顔を見た途端、すべてが崩れてしまう予感がした。だから、画面に目線を貼り付けたままなんでもない素振りで言葉を紡いだ。

 横から「えっ」と息を呑む音が聞こえてくる。口から放たれた驚愕の粒が、私の頬にコツンとぶつかった。その大きな瞳が私を見つめたまま硬直しているのが、彼の気配からなんとなくわかる。


「急にどうしたの」


「急じゃないよ。映画館行ったときカフェで聞いてきたじゃん。『兄がディーテだったことどう思った?』って。その質問にいま答えた」


「いま?」


「うん。いま。だから急じゃない。訂正して」


「えー、じゃあ、急じゃないなら――遅っ?」


「そっちのほうが正しいかも」


 我ながらくだらないやり取りだと思った。でもこんな会話が通用する相手は世界中探しても一人しかいない。固まっていた兄の頬がふわりとほころぶ。その唇からふふっと噴き出された愉悦混じりの吐息が、私の鼓膜を軽やかにくすぐった。


「ありがと。ディーテが俺で申し訳なかったなって思うことがよくあったからさ、そう言ってくれてほっとしたよ」


 音が外に漏れてるんじゃないかと心配になるほど、心臓がバクバクと激しい伸縮を繰り返している。熱くなった血液が全身を駆け巡るから、比喩じゃなく本当に顔から火が出るかもしれないと不安になった。


 でも、スッキリした。やっと言えた。私がずっと大切にしまっていた言葉が、兄にとっても大切なものになってくれたらと思う。


  ◇


 人生においていちばん幸せな時間って、もしかしたら皮算用をしてるときかもしれない。


 かつてはそう思っていた私だが、いまではそれが違うんじゃないかと思うようになってきている。


 現実はいじわるだし、辛くて打ちのめされてしまうようなことは残念ながらある。

 だけどそんな現実で私は、頭のなかだけでは決して思いつかないような刺激的な出来事とこの数ヶ月でたくさん出会うことができた。

 自分の妄想の世界から飛び出し、外の世界に触れ、他者と出会い、未知のものを経験する。世界や他者が、自分の思考とはまったく別の思考で生きているからこそ、それらと触れ合える現実という場所がとても尊いものだと知った。

 たった数分後ですらなにが起きているのかも、自分がどうなっているかもわからないのだ。その不明瞭さが、なんだかプレゼントを開けるときみたいで私は好きだ。


「で、あさがお。ここからが本題なんだけど」


 兄は苦笑いを口端にのせ、それから居心地悪そうに肩をすくめた。

 申し訳なさそうにしているのはなぜなんだろう。


「あさがお、昨日のアーカイブ見た?」


「ううん。見てないよ。昨日は一日中寝てたし、今日は学校だったから」


 どうしてそんなことを聞くのかわからなかった。私の答えを聞いた兄は「そっかー」とつぶやくやいなや、目元を手で抑えた。そのへの字に曲がった唇から、苦々しいうなり声がこぼれ落ちる。

 下校中にかいた汗は、クーラーに冷やされとっくに乾いていた。なのに、判然はんぜんとしない気味の悪さが、肌の表面にまとわり付いている。喉が不自然に上下し、意味もなくスカートの裾を引っ張った。


 少しの沈黙のあと、兄は覚悟を決めたように深呼吸をした。吐き出される息の大きさに、ゾワゾワっと無意識に身震いする。嫌な予感がした。兄の口角が、拙い動きで吊り上がる。


「あのー、怒らないで聞いてほしいんだけどさ。声がぜんぶマイクに乗ってて、アーカイブに残ってるんだよね」


「なにが?」


「えーっと、あさがおが俺の部屋に飛び込んできてからの一部始終が……」


 兄の台詞に、私は首を傾げた。言っている言葉の意味がわからなかったからだ。

 しかしこちらの反応をよそに兄は「ほら」とクリック音を鳴らした。停止させていたアーカイブが、再びモニターのなかに流れ始める。


『お兄ちゃん!』


 言葉の意味を理解したときにはもう手遅れだった。スピーカーから放たれた激しい叫び声が、部屋中に響き渡る。脳が拒絶しているが、聞こえてくる声はどうしようもないほどに私の声以外のなにものでもなかった。


 悲鳴混じりの声がピタリと鳴り止んだ。緊迫した空気に漂う無音が、容赦なく私の素肌を斬りつけてくる。人差し指はいつの間にか電源ボタンを押していた。思考を待たずして反射的にパソコンに駆け寄った私が、電源を落としたようだ。

 喉を通り抜ける空気が苦しい。ついさっき感じたものとはまったく違う別の種類の熱が、ものすごい速さで体内に蓄積されていく。


「……消して」


 自分でも聞いたことない声だった。腹の奥からせぐり上がる重苦しい響きがキーボードに落ち、ドスンと物騒な音を立てる。黒くなった画面に映った私は、いまにも爆発してしまいそうなほどに膨れ上がっていた。


 しかし返ってきたのは、深刻さを微塵も含んでいない軽い声だった。声の方向をギラリとにらみつける。兄は困り顔を見せていたが、その表面にはなぜか薄い笑みが張り付いていた。


「それがさ、もうすでにこの部分だけ切り抜かれてて、リスナーの間で広まっちゃってるんだよねー。……どうしよ?」


「ど、どうしよ、じゃないよ! どうにかしてよ!」


 膨れ上がった感情が爆発し、理性が跡形もなく吹き飛ばされる。もうなにがなんだかわからなかった。心のおもむくままに、ただひたすらに兄に怒りをぶつける。

 こんなことになるなんて聞いてない! あんまりだ!


「痛い痛いっ。グーはやめて、グーは」


「やっぱりさっき言ったことわすれて! お兄ちゃんがディーテくんだったの最悪だ!」


 半泣きの声にのせて、ドコドコと小さな鈍い響きが空間に散らばっていく。


「そんなこと言われても、もうはっきりと覚えちゃったもん」


 私の拳を腕で防御している兄はニヤリと白い歯を見せると、なんとも楽しそうに声を上げて笑った。潤んでいく視界の中央で、その顔がくしゃりとゆがむ。


 なにが現実は尊いだ! だれが言ったんだそんなこと! こんなことになるなら妄想のほうがマシじゃないか!


 数分前の感情を丸めて、脳内のゴミ箱に投げつける。いつまでも耳にへばりつく朗らかな笑い声がうるさく、吐き捨てるように喉を鳴らした。


「もう! 全然おかしくないよ!」



 でも心のどこかでうっすらわかっていた。どうせ明日になれば、このどうしようもない現実がまた恋しくなっているんだろうな、と。


 そんな予感が胸をかすめているのに気づきながら、私は絶対に受け止めてくれる兄に向かって拳を振り下ろした。


次が最終話となります。

よろしくお願いします。

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