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大切にしまっていた宝物

「ただいまー」


 リビングのドアを開けると、ソイツは悠々自適にソファーの上に寝転がっていた。真上にかかげたスマホからちらりと目線を外し、「おかえりー」と覇気のない声で私を出迎える。

 部屋のなかはクーラーが効いていて、いかにも快適といった室温になっていた。その身なりが制服ではなく、部屋着なことに違和感を覚える。


 それにしてもなんなんだ。この「え、今日は初めから休日の予定でしたけど? 三連休満喫しちゃいました!」とでも言うかのようなダラけきった態度は!

 あれだけ家のなかを大騒ぎの渦に巻き込んだくせして、その自覚が当の本人からまったく感じられない。こっちはおまえのせいで丸一日なにも手がつかなかったんだぞ。これじゃ心配してた自分がバカみたいじゃないか。

 兄の元気を願っていたはずなのに、なんかイライラしてくる。ふつふつと込み上げる怒りが肺のなかに溜まっていき、そのまま兄の鼓膜に突き刺すように声を張り上げた。


「ズル休み! いまからでも学校行け!」


「ズルじゃないよ。正当な休みだよ」


 ふふっと笑みをたたえ、したり顔で兄は言った。ムッと顔に皺を寄せていると、兄はゆっくりと身体を起こした。眠たそうに身体を伸ばしている。


「ねえ、あさがお」


 荷物を部屋に置いてこようとドアに手をかけると、兄に呼び止められた。真剣な眼差しでこちらを見つめる兄が、ソファーの上で正座をしていた。

 両手はピタリと太ももに張り付き、これからお茶でもたてるのかと思うような気をつけの姿勢になっていた。


「だいぶ心配かけたみたいで。お騒がせしてすみませんでした」


 ぎこちなく頭が下がる。深々とした動きに合わせて、その黒髪がゆるりと垂れた。かしこまった兄の様子に、ふっと呆れ混じりの吐息がこぼれる。


「ほんとだよ。勘弁してほしい」


「はい。ごめんなさい。お母さんが言ってたけど、あさがおが見つけてくれたんだってね。ありがとね」


「見つけたって言ってもほら、私配信見てたからなにが起きたかすぐわかったし」


 ようやく達成した一位に感動していたところに飛び込んできたあの衝撃音。正直めちゃくちゃ焦った。吹雪に打ち付けられたような寒気が一瞬で全身を覆い、興奮していた脳みそから熱気をすべて奪った。

 なにが起きたか理解が追いつかなかった。それでもいたずらに恐怖だけが膨らみ続けた。睡魔に取り憑かれていた頭では冷静な判断などできるわけがなかった。早くなんとかしなきゃ。焦りで気持ちが空回りし、とにかく大きな声で叫んでいたことを覚えている。


 でもいま冷静になって思い起こしてみると、兄が気を失っていたのは不幸中の幸いだった。もしあんなに必死な私を兄が見ていたらと思うと、恥ずかしさでどうなってしまうかわかったもんじゃない。想像するだけでも、具合が悪くなりそうだ。


「あさがお、ちょっと来て」


 兄はソファーから軽々と腰を上げると、私の返事を待たずに自分の部屋へと駆けていった。急になんなんだ。勝手だな、とのっそりあとをついて行く。


 兄の部屋はまだ少し散らかっているが、以前来たときに比べて綺麗になっていた。壁にかかった制服を見て、なんだか優越感に似た嬉しさが込み上げてくる。ちゃんと私の言うことを聞いてくれているんだ。

 部屋が綺麗になったり、勉強をちゃんとするようになったり。兄も兄でちょっとずつ変わっていってるんだなと思った。


 部屋をぐるりと見渡していると、ふと棚の上に懐かしいものが目に入った。手に取ると、ブロンドヘアーをなびかせた女性の青い瞳と目が合う。二人で観に行った例の映画のパンフレットだ。

 この映画にはだいぶ痛い目に合わされたな。パラパラとパンフレットをめくりながら、当時のことを思い出す。


――俺は、ゴッドアフロの正体があさがおでよかったと思ったよ。


 あの日の夜、兄はこの場所でそう言ってくれた。

 そして、そのひとことで私は救われたのだ。

 確かにあのオフ会で私は絶望に落ち、恋に落ちた自分を憎み、そしてこんな偶然を生んだ兄を恨んだ。でも、私を蝕んでいた感情はそれだけじゃなかったと、兄の言葉を聞いて気がついた。

 私はあの日からずっと罪悪感を抱いていたのだ。私がリスナーだったせいで兄を傷つけてしまったんじゃないかって。だから「よかった」と言われたとき、本当に嬉しかった。暖かな感情に身体が包まれ、ぐしゃぐしゃに絡まっていた感情の糸がほどけていった。そのとき初めて、私は私を許すことができた。

 喉が震えているのがバレないように唇を固く結び、出てこようとする感情をこらえていたせいで、あのときは無視したみたいになっちゃったけれど。


 対して私は、カフェで聞かれた「俺がゲーム配信者、というかディーテだったことどう思った?」という質問をまだ自分の言葉でちゃんと返せていなかった。答えはもうずっと前から見つかってるはずなのに、いまだ取り出せずにいる。


「これ見て」


 カチャカチャと一人でパソコンを操作していた兄が、画面を指差しながらこちらを振り向く。その指先のものには覚えがあった。長時間配信のときに送った私のコメントだった。


「あさがおのこのコメントのおかげで最後勝てた。これがなかったら百パーセント負けてたし、企画も悲惨な形で終わっていたと思う。ほんと助かった。ありがとね」


 気持ちの込もったしゃべり方だった。雑味の一切ない素直な笑顔が私に向けられる。その感情を真正面から受け止めるには少々気恥ずかしく、思わず顔を伏せてしまった。

 相変わらずこの人は笑うと目がなくなるんだなと、弧を描く瞼を見て改めて思った。


 不意打ちで褒められたせいで調子が狂う。それなのに目の前のコイツは、ケロッとした表情でまたパソコンを操作し始めた。

 もうちょっと待ってて。あと一つ見せたいものがあるから。そう言われ、しぶしぶうなずく。いつの間にか兄のペースに乗せられていて、なんだかムカつく。でも、不思議と心は軽かった。


――いまなんじゃない?


 頭のなかの自分がつぶやく。その呼びかけに私は大きくうなずいた。なんだか急に緊張してきた。大切にしまっていた宝物を慎重に取り出し、私はゆっくりと喉を震わせた。


「あのさ、お兄ちゃん」


「ん?」


「私、ディーテくんがお兄ちゃんで良かったよ」


あさがおが思い出している話は「第3章 向き合わなければいけないこと」と「第3章 オフ会の終着点」に書かれています。

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