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2:30 押された背中

「わっ!」


 無から現れた人の気配に腰が砕けた。今度は足の踏ん張りが効かず、その場にぺたりと尻もちをつく。理解の範疇を超えた驚きの前では、まともに声を発することができなかった。

 「わ、わわ、わ……」と口からぽろぽろこぼれる感情の欠片が、折りたたまれた膝の上に落ちていく。


 こわごわと視線を上げていくと、地べたに座っている僕をあさがおが見下ろしていた。その瞼が満足そうに弧にゆがめられている。ドッキリ大成功と書かれたプラカードをいますぐにでも出してきそうな、眩しい笑顔だった。

 お風呂から上がってからそれほど時間が経っていないためか彼女の髪は空気をまとっていた。耳にかかった柔らかな直毛が、さらりと垂れる。視線が重なるやいなや、細められた瞳が得意げにパッと開いた。その澄んだ黒目に映り込んだ青白い顔は幽霊ではなく、魂が抜けた僕の顔だった。


「どう? びっくりした?」


 びっくりしたなんてもんじゃなかった。胸を突き破る勢いで、心臓が収縮を繰り返している。生死をさまよいかねない悪質なドッキリに、強めの語気で物申してやろうと思った。

 ふざけんな! 死ぬかと思った!

 しかし、放とうと思った言葉は寸前で飲み込むことになった。ニヤリと笑顔を作る彼女の目の下が、微かに黒ずんでいることに気づいたからだ。


「目が覚めたでしょ」


 我ながらナイスアイデアだと言わんばかりのしたり顔が、こちらに向けられている。そう言われてみれば目が覚めたような気がしなくもない。

 ただ、反動によっていろんな箇所が負傷したような気もする。


「そうだね……。でも、目が覚めたなんて次元を通り越して、そのまま永遠の眠りにつくところだった」


 なだめるように左胸をさすり、呼吸を整える。深刻な顔つきで訴えかけているはずなのに、あさがおはなんとも楽しそうに笑い声を響かせた。


「ちょっとそこで待ってて」


 唐突にあさがおはそう言って、洗面台の前でぺたん座りをしている兄をよそにどこかへ行ってしまった。


 いったいなんなんだ。彼女の自由奔放さに呆然としていると、すぐに彼女は戻ってきた。足音が鳴らないようにつま先立ちで近づいてくる。目の前で止まったふくらはぎは陶器のように白く、滑らかな曲線を描いていた。両手はなぜか後ろに回されており、彼女がなにかを隠しているのは明らかだった。


「ねえ、なんだと思う?」


「えーっと、プラカード、とか?」


「は? なに言ってんの」


 あさがおは眉をひそめるも、次の瞬間には柔らかな表情へと器用に切り替わった。

 「じゃーん」と愉快なセルフ効果音とともに両手が前に突き出され、隠していたものが露わになった。黄色の瓶と、銀色のスプーン。見覚えのあるその瓶に、遠い過去の記憶が呼び起こされる気配がした。


「これって、プリン?」


「そう。前にお兄ちゃんが美味しいって食べてたやつ」


 ぼやけていた記憶にだんだんとピントが合わさり、鮮明になっていく。あれは確か、オフ会前日の夜だっただろうか。


「覚えてない? 私が買ってきたのにお兄ちゃんが勝手に食べちゃったやつだよ」


 あはっ、変な笑いが自分から飛び出た。ごまかすときの笑い方だった。視界がぐわんぐわんと左右に揺れる。きっとあさがおから見た僕の黒目は、活発に泳いでいることだろう。

 言われて思い出した。僕はあの日の埋め合わせについて、まだなにもしていないじゃないか。彼女が寛容でいてくれるうちに、早くなんとかしないと。

 焦りに唾を飲み込んでいると、彼女は僕の目線の高さに合わせるようにしゃがみ込んだ。ショートパンツからさらされた足は折りたたまれ、お餅みたいに潰れている。ニコリとまなじりを下げ、あさがおの手のなかの瓶が僕へと手渡された。


「はい、あげる。私からの激励ってことで。糖分補給大事だと思ってさ」


「あ、ありがとう」


 真正面から向けられた彼女の素直な心根に、喉がひくついた。冷蔵庫から出してくたばかりなのかプリンは冷たく、ひんやりとした感触が手のひらに乗る。


 あれ、なにかがおかしい。

 そう自分のなかに異変を感じたその瞬間だった。ぐわっと音を立てて感情が目元にせぐり上がってきた。目頭に熱が集まり、徐々に視界がぼやけていく。慌てて顔を伏せ、水分を瞳の奥に押し込めるようにギュッと瞼を閉じた。

 きっと、何時間も起きていたせいで、身体中のネジが緩んできているのだ。そうに違いない。普段の僕ならこんなこと起きるわけがない。そう自身に言い聞かせても、感情が理性をあっという間に追い越していった。

 瞼の裏が熱い。もう自分ではどうしようもないことを悟り、限界まで大きく口を開いた。唇に手を添えて、アピールするように声を吐き出す。


「ふぁーあ」


 とっさの判断であくびのフリをする。するとつられたのか、あさがおも目尻に皺を寄せて大きく口を開いた。口元にあてがった指の奥から、いかにも眠そうな吐息が聞こえてくる。


「ねえ、伝染うつったんだけど」


 その唇がバツが悪そうに尖る。しかしこらえきれなかったのか、彼女の口はすぐさま笑顔の形になった。コロコロと奏でる愉快な音に今度は僕がつられてしまう。笑った拍子に涙がこぼれそうになり、目尻に手の甲をグッと押し当てた。


 「はい」と手を前に伸ばすと、なにも言わないままあさがおがそれをつかんだ。


「せーの」


 示しを合わせることなく、自然に二人の声が合わさる。彼女が僕の手を引くと、その力を支えにしてようやく僕は床にくっついていた腰を上げた。

 あさがおの力が加われば、軽々と立ち上がることができる。目線の高さが反対になり、今度はあさがおが下から僕を見上げていた。


「リスナーさんたち待ってるだろうし、そろそろ戻らないと。たぶんいまごろ、お兄ちゃんが本気で死んじゃったんじゃないかって心配してると思う」


「確かに。そんな気がする」


 急いで部屋に戻ろうとするも、入り口のところで足が止まった。振り返ると、こちらを見つめるあさがおが不思議そうに首を傾げた。

 帰るのを躊躇したのは、決してこの空間が名残惜しくなったとかそういう理由では断じてない。そう、断じて。


「あのー。ありがとね、あさがお。なんかいろいろと」


 感謝の言葉をしれっと自然に言えたら格好いいのだが、唇が紡いだ言葉は結局ぎこちないものになってしまった。無意識に後頭部に伸びた手が、照れを隠すように上下する。「ふふっ、いい妹でしょ」と、あさがおはドヤ顔で胸を張った。


「ねえ、お兄ちゃん。実を言うと、私結構限界だったりする。もうやばい」


 おそらくあさがおも寝ていないのだろう。彼女は目元を強くこすり、そして僕を見据えた。真剣さが垣間見えるその潤んだ眼差しは、僕を鼓舞しているようだった。


「根拠はないけど、あともう少しでいけるような気がするから見てて。プリンももらったし、天国が見えるほど驚かされて目も覚めたし、きっと大丈夫」


 プリンを片手に意気込み、微笑みかける。あさがおはふふっと、暖かな日向のような笑顔を浮かべていた。


  ◇


「遅くなったわ。ごめんごめん。ちゃんと生きてますんで」


 謝罪をしながらパソコンの前に座る。

 案の定コメント欄は、


【なかなか帰ってこないけど、もしかして死んだ?】

【寝落ちしたんじゃね】

【顔がデカすぎて、洗うのに時間がかかるんだろ】


 と、僕の生死についての心配、というより大喜利で盛り上がっていた。

 この雑な扱いに、いまさらなにか思うようなことはない。ただ、僕がいたときよりコメントが勢いよく流れているような気がするのはどうかと思い、肩をすくめた。


「君ら、もう少し心配してくれてもいいんじゃないか?」


 呆れたように告げ、頬を綻ばせる。


 リスナーにひとこと断りを入れて、プリンを手に取った。シリコン製の蓋がペリペリと音を立てて剥がれていく感触が心地よい。


「うっ、まあー!」


 ひとくち含むと、思わず感嘆の声があふれた。高級感ある滑らかな甘みが身体の隅々まで染み渡り、温泉に浸かったときのように力が抜けていく。はぁー、とため息が天に昇り、イスにかかる体重がグッと重くなった。

 長時間配信でボコボコに消耗していた内臓のへこみに黄色の流体が流れ込み、平らに修復されていく。やはり甘いものは偉大だ。


「よしっ。ここからラストスパート!」


 空になった瓶を机の端に置くと、スプーンがカラリと耳心地のいい音色を響かせた。その軽快な音を開始のゴングに見立て、広大な戦場へと再び足を踏み出した。


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