他愛のない、だけど大切なひととき
帰宅してから仮眠を取ろうと思っていたのだが、身体中を這うアドレナリンが僕を寝かそうとしなかった。結局一睡もできないまま夕ごはんの時間を迎えてしまう。
「ごはんだよー」と母親に呼ばれリビングに向かうと、なにか言いたげな面持ちのあさがおと目が合った。
母親がいる手前、お互い普段どおりの会話を交わしながら箸を進めていく。これからの配信にそなえるためにもいつもより多めに食べていると、その様子に母が微笑を浮かべた。
「今日はよく食べるね。まだ成長期なの?」
「うん。百八十センチ目指してるからね」
「夢見すぎ。お兄ちゃんの身長ってザ平均じゃん。もう無理でしょ」
「わかんないよ? もしかしたら急に伸び始めてあの俳優みたいになるかもしれないし」
そう言って僕はテレビを指差した。CM中の液晶のなかで、高身長のイケメン俳優が綺麗な顔を全面にさらけ出している。それを見た途端、あさがおの喉奥からグフッと苦しそうな音が鳴った。
「……ちょっと! ごはん食べてる最中に笑わせないでよ。想像しちゃったじゃん!」
「笑わせてるつもりは全然なかったんだけど」
料理で彩られた食卓の上に、穏やかな笑い声が飛び交う。決して特別じゃない。明日になったら忘れてしまうようなそんな他愛もない会話。だけど、このひとときがわりと好きだったりする。
「ごちそうさま」
使った食器を片付け、自分の部屋へと向かった。
配信の準備をしていると、背後のドアが叩かれた。僕が一人になるのを待っていたんだろう。僕より少しあとに夕食を食べ終えたあさがおが部屋に入ってきた。
「朝まで勉強してたみたいだけど、大丈夫なの?」
「なんとかなるでしょ」
「さっきの夕ごはんが、最後の晩餐になったりして」
「縁起でもないこと言うなよ」
そう眉をひそめると、あさがおは愉快そうにクツリと喉を鳴らした。柔らかく細められた黒曜石のような双眸の奥で、卓上の灯りがぴかぴかと反射している。
「あっ、そうだ。見てよこれ。セッティングしてみたんだけど、格好良くない?」
そう言って僕はイスを横にずらして、あさがおから机の上がよく見えるようにした。パソコンの前に鎮座している高級マイクを発見するやいなや、あさがおは飛びつくように顔を近づけた。
「なんてったって私が選んだからね」
ニヤリと得意げに口端を吊り上げると、彼女はご満悦そうに鼻を鳴らす。とはいっても、実物を見るのは彼女も初めてだったようだ。そのゴツゴツとしたフォルムを凝視しながら「なんかミサイルが飛び出しそう」とつぶやいている。
「お兄ちゃん、私はバッチリ睡眠とってきたから」
唐突に向けられた真剣な眼差しに、唾をごくりと飲み込む。その言葉の意味を理解した途端、胸の奥がくすぐられたようにむず痒くなった。安心感に似た心地よい熱が、僕の背中をそっと押す。
「でも私、普段夜更かしとかしないからパパッと決めちゃってね」
ドアノブに手をかけたあさがおが、制服のスカートを翻しながら振り向いて言った。首元の赤いリボンがぴょこんと跳ねる。
「おう。まかせて」
威勢よく発せられた声が、部屋のなかでこだまする。飛び交う反響のなかには、もう孤独の色は見えなくなっていた。
◇
アキレス腱を伸ばすと、ふくらはぎの辺りに心地よい刺激が走った。
配信に備えようとイスの上で堂々と待っていたのだが、居ても立っても居られずに柄にもなくストレッチなんか始めていた。
開始十分前。早鐘を打つ鼓動が、落ち着きをかき消していく。緊張を振り払おうと全身を熱心に動かしていたため、太ももの裏がじわりと痛い。
立ったまま机に肘をつき、配信待機場のコメント欄を見やる。そこではすでにこの配信を開いているリスナーたちによって賑わっていた。どうやらこの企画が何時間で終わるかという予想をしているようだ。
【案外、日をまたぐ前にあっさり終わって変な空気になりそう】
【今日で終わったら投げ銭送ってもいい】
【いや、コイツのこのゲームの腕前はある意味すごいから、最低でも二日はかかりそう】
【三日間かかるに五万ペリカ】
【ある程度の経験があればそれなりの時間で終わるだろうけど、ディーテに関してはまじで未知数】
あまりに好き勝手な物言いに、腹の奥底から思わず「コイツら……」と声が出てしまう。
しかし、込み上げてくる楽しさを抑えきれなかった。自ずと弧にゆがんだ唇から、愉快そうな息が漏れる。この感じだ。この雰囲気がディーテの配信だ。懐かしさを思わせる空気が、とても愛おしい。
正直、この企画は張り切りすぎたかなと不安になっていた。だが、リスナーの反応を目の当たりにして、心からやってよかったと思えた。胸の辺りにつっかえていた緊張の結晶が崩れていき、ほのかな高揚感として身体中に広がっていく。ふいに吐き出した息は、微かに熱をはらんでいた。
この企画が無事に終わったら、あさがおにちゃんとお礼しなきゃな。そう考えるとなんだか死亡フラグみたいで、その壮大さについ笑い出しそうになった。
もうそろそろ時間だ。イスに腰を下ろして頬を叩く。胸に手を当てると、鼓動が薄い皮膚の下から手のひらを押し上げた。
瞼を閉じ、深呼吸を繰り返す。そっと触れたマウスは、なんだか指の収まりがよくて嬉しい。配信開始のボタンの上にカーソルが乗ったのを確認すると、覚悟を決めたように人差し指に力を込めた。




