テストからの開放は、始まりの合図
テスト最終日。最後の教科まで無事に終わると、教室や廊下など至るところで歓喜の声が飛び交っていた。
このタイミングが生徒にとっていちばん公平で幸せな時間なのかもしれないと、騒がしい光景を見てふと思う。点数という現実がわからなければ、そこに序列は生まれない。この刹那のひとときを堪能するかのように、行き交う生徒の表情はずいぶんと晴れ晴れとしたものだった。
「よお、朝陽! テスト終わったしこのあと遊びに――って、うわっ。どうしたんだよ、その顔」
抜け殻になったみたいにぼんやりとしていると、後ろから体当たりされた。その衝撃に、身体がふらふらとよろめく。
相手の力が強かったわけじゃない。自分が想像している以上に、足の踏ん張りが効かなかったのだ。
のっそりと後ろを振り返る。僕を見るやいなや友人が怯えたように一歩退いた。
「人の顔見て『うわっ』ってなんだよ。失礼だなー」
「おまえなんでそんな死にそうな顔してるんだよ」
「寝てない。徹夜した」
テスト最終日は、結局一睡もすることなく迎えることになった。あれだけ時間をとっていたはずなのにおかしい。少しは眠れると思ったのに。
しかし、その甲斐もあってか手応えはまあまああった。テストが終わったあとに訪れるあの絶望感が、今回に限ってはまったくない。まだ結果はわからないため安心はできないが、絶望に苦しめられていない時点で勉強の成果が出たと言っていいだろう。
「おまえが、徹夜……?」
心底理解できないと、彼の目が大きく見開かれる。
「そうだよ。いままでと違って真面目になったからね」
「真面目な生徒は徹夜しないんじゃないか」
至極まっとうな言葉がお腹に突き刺さり、短くうなった。
「そう言うおまえはどうなんだよ。そんな血色いい顔してさ。――えっ、まさか余裕だったとか言わないよな?」
ゾワッと焦燥感が背筋を走る。訝しむように視線を向けると、友人は声を上げて快活に笑い出した。
「なわけないじゃん。早々に諦めたから、今日なんてバッチリ八時間も寝ちゃったわ」
まあそうだよな、と少しでも杞憂した自分にため息を落とす。その楽観的な友人の姿がなんとも腹立たしかった。とは言っても、つい先日まで僕もそちら側の人間だったのだが。
「あ、そうそう。これから遊びに行くんだっけ。行きたい気持ちはあるんだけど、このあと用事があるんだよね。だからまた今度にして。悪いね」
「ならしょうがないか。じゃ、また今度で」
じゃあな、と別れを告げると、友人は背を向けてどこかに消えていった。別の人でも誘いに行ったのだろう。
耐久配信の開始は二十時からだと、すでにSNSで告知していた。今日はテスト最終日なので午後は授業がない。それまでの時間をどうやって過ごそうかと思案しながら、バッグのなかの教材を片付けようとロッカーへ向かった。
◇
様々な大きさの教材が銀色の枠の中にびっしりと並んでいく。全て入れ終えると、その光景にようやくテストとのお別れを実感した。古びた扉を閉めた拍子に、ガチャンと年季の入った音が廊下に響いた。
置いていたバッグを持ち上げると、驚くほどの軽さに思わずふらつきそうになる。まるで天使の羽が生えたみたいだと、ここ数日ずっと重さに耐えていた肩が嬉しそうに上下した。なんだか気分がいい。
スキップでもしながら帰ろうかと思っていると、いつの間にか背後にいた委員長に呼び止められた。
「さっきの話聞こえたんだけど、寝てないんだって? ほんとに大丈夫なの? 延期したほうがいいんじゃない?」
僕だけに聞こえるように密やかに言う委員長の声色は、いつもに比べて低かった。その面持ちは僕を案じているのか、どこか深刻そうに見える。
「いや、絶対今日やるよ。もう告知もしたしね。やっとテストから解放されたんだからすぐにでもしたい」
「でもかなり疲れてるように見えるけど」
「大丈夫じゃない? ほら、耐久配信って見たことしかないけど、あれって少し苦しんでるくらいのほうが見てる人も楽しいでしょ。疲れてないって言ったら嘘になるけど、これもまた一興だよ。きっと」
心配しなくていいようにそう笑って答えると、委員長は頭を抱えた。
明日から始まる休日に向けて、予定を決める会議があちこちから聞こえてくる。テスト中の淀んだ空気が、その活力あふれる話し声たちによって窓の外へと押し流されていく。
委員長は顔を上げると、笑みが混じった吐息を吐き出した。呆れたような、それでいて覚悟を決めたようなそんな笑い方だった。
「そこまで言われちゃったならしかたないね。うん。わかった。あまりコメントできないかもしれないけど、私もちゃんと画面の前で応援してるから」
「うん。ありがと」
「でも、具合いが悪くなったりしたら、ちゃんと休憩とかするんだよ」
「了解」
別れ際、手を振ろうと上げた右手が止まった。委員長が僕に向けて親指を突き立てているのが見えた。がんばれよ。そう鼓舞されたような気がして、ふっと頬がほころぶ。
上げた手のひらを握りしめる。彼女の気持ちに答えるように、僕も負けじと力を込めて親指を立ててみせた。
教室前の窓から入り込む風は暖かく、夏の匂いがする。ガラスをすり抜けた日差しが、昇降口へと向かう廊下を光で満たしていた。足元から伸びる影が、気分よさそうに僕のすぐ後ろをピッタリついてくる。大量の教材の往復で伸びてしまっていたバッグのベルトを引き締め、すんと胸を張った。
周りから見たらいまの僕はゾンビみたいな顔をしているのかもしれない。しかし、横切った窓に映り込んだ自分の輪郭は、期待とやる気で引き締まっているように僕には見えた。




