不安を誘う提案
学校から駅へと向かう道には、帰宅部しかいない普段に比べて今日は生徒の数が多かった。テスト前ということで、部活動が停止されているからだ。
いつもより早く帰れているはずなのに、彼らからはどことなく憂鬱さがにじみ出ている。そうなっている理由は、おそらく僕と同じだ。逃れられない現実に、僕の足取りは重くなっていた。
「彩風くん、テスト勉強は順調?」
声のほうへ目線を少し下げると、隣を歩いていた委員長がこちらをのぞき込んでいた。配信の話も兼ねて一緒に帰らない? と授業終わりに声をかけられたのだった。肩から流れるおさげが、風に包まれてゆったりと揺れている。
「テスト勉強ねー。やってはいるんだけど、なんだかんだ徹夜確定かも。これまで真剣にやってこなかったツケが、いまになって降り掛かってきてる。日頃の勉強の大切さが身に沁みたよ」
ため息混じりに嘆き、肩を落とす。忌々しいテストはもう目の前まで来ていた。
早く終わらせてこの重圧から逃れたい。そう思う一方で、もっと勉強する時間が欲しいとも思う。結局はなるようにしかならないのだと、天を仰いだ。
「くれぐれも補修を受けるなんてことにはならないでね。夏休みだって企画とかいろいろやりたいし」
穏やかな眼差しが、レンズを通過して僕に釘を刺す。できる限りのことはしているつもりだが、確証はできないため返事はせずに笑ってごまかした。
「まあ、夏休みのことは置いといて、次のコラボ楽しみだなー。海底神殿行ったし次はなにしようか」
ギュッと目をつむり伸びをする委員長に、はっと脳内に刺激が走った。そういえばまだ、個人で配信したいという旨を伝えていなかった。
申し訳ないと手を合わせて、委員長を見やる。
「ごめん、委員長。コラボのことなんだけど、なしにしてくれない?」
目を眇めて告げると、そのひとことに委員長は足を止めた。急な停止に、彼女より二歩分前に出てしまう。
壊れたおもちゃのようなぎこちなさで、彼女の首が僕のほうへと回っていく。意図せずに向かい合い、視線が重なる。彼女の澄み切った水晶体の奥に、わずかな亀裂が入ったのが見えた。
落ちていく太陽を背にした彼女から、僕の足元へと影が伸びている。薄い黒が絡みついた僕のスニーカーは、地面にくっついたみたいに動かなくなった。どこからか、蝉の叫び声が聞こえてくる。さっきまで気にも留めていなかった響きが、耳のなかでいっそう強く渦巻いていた。
「全然いいよ」とか、「急だね。もしかして妹さんとデート?」とか、そんなふうに言ってくれると思っていた。しかし、それは僕の身勝手な想像にすぎなかった。
微かに震えているその唇から、か細い吐息のような声が吐き出される。
「えっ、どうして……」
熱を失い悲痛な皺が刻まれた彼女の表情に、心臓がギクリと飛び跳ねる。透明な膜を張った琥珀色の瞳に、呆然とした僕の顔が映り込んだ。すぐ後ろを歩いていた他学年の生徒が、立ち止まった僕らの横を邪魔そうに避けていく。
「なんで? 金曜日はテスト終わってるよね。もしかしてコラボするの楽しくない? もう飽きた? ねえ、彩風くん。私、なにか悪いことしたかな」
絞り出した言葉が、辺りに小さくこだまする。こわごわと弧にゆがんだ唇は、どこか怯えているようだった。普段の知的で柔らかな委員長と、目の前の彼女はあまりにかけ離れている。そのギャップに、脳が痺れたみたいに硬直していた。
痴話喧嘩かな。通りかかった誰かがつぶやく。その言葉が耳をかすめ、はっと正気に戻った。このままでは委員長を晒し者にしてしまう。早く場を収めなければと、誤解を解くために必死で釈明を試みた。
「違うよ! コラボが楽しくないわけないじゃん。恥ずかしくてあまり言いたくなかったけど、コラボに夢中になりすぎて他の事をおろそかにしてたぐらいなんだから。それに委員長に助けてもらうことが多すぎて、逆にこっちがいつも申し訳ないなって不安になることもあったのに。だからそんな悲観的にならないでよ。嫌になるわけないじゃん」
どう考えてもいまのは告白みたいだった。緊急事態と言えど、燃えるような熱が身体中を駆け巡っている。
ただ日頃の感謝を伝えただけ。そう胸に言い聞かせても、激しく鳴る心臓は僕を茶化すようにその鼓動をさらに早めていった。
「じゃあ、どうして?」
臆病に震える長い睫毛が、頭の動きに合わせてことりと傾く。これからあさがおとの会話で気づいた僕の失態について話すのだと思うと気が重くなる。
一度呼吸を整えると、苦笑いを浮かべて「それはですね……」と切り出した。
ひととおり昨日のことを説明すると、委員長は「そうなんだ」と納得したようだった。
再び並んで歩き始めると、下校中の生徒の流れはなにごともなかったかのように僕らを呑み込んだ。周囲と二人を切り離していた見えない壁が、冷気を含んだ風のなかに消えていく。隣の様子をちらりと伺うと、その視線が疲れたように地面へと落ちていった。
「ごめんなさい。なんか私、早とちりしちゃって。急に大きな声出して引いたよね」
「ううん。引いてないよ」
「うそ。顔がひきつってるもん」
「いや、ほんとほんと。ちょっとびっくりしちゃっただけ」
「なんか前にも彩風くんに引かれたことがあるような気がする」
そういえば、委員長と渋谷で会ったときの帰りの電車で、そんなこと言ってたなと思い出す。
「そんなことあったっけ? 覚えてないや」
笑ってごまかしてみるもかなりの大根役者だったらしく、委員長はすねたように唇を尖らせた。その様子を見るに、委員長の調子はいつもどおりに戻りつつあるようだった。
「だいたい、彩風くんが言葉足らずなのがいけないんじゃない? なに? 『なしにして』って。『延期させて』とか『個人配信挟みたい』とかでいいじゃん」
「え、逆ギレ?」
「逆じゃない。順当ギレ」
普段は白い頬がうっすらと紅潮しているのを発見して、つい口角が上がりそうになってしまう。おそらく委員長の頭のなかではいままさにさっきの言動が蘇り、恥ずかしさが押し寄せているのだろう。
年相応な一面を見ることができて嬉しかったが、可愛そうなのでこれ以上の追求は控えることにした。
「それで、個人で配信したいってなにするの?」
気を取り直した委員長が問いかける。
「あー、それね。ちょっと前に流行ってたバトルロワイヤルのゲームあるでしょ? 小さな島のなかに百人入れられて、そこで戦ったり隠れたりしながら最後の一人を目指すゲーム。それで、一位をとるまで終われない耐久配信しようかなって」
「えっ……、本気?」
「うん。もちろん本気」
おかしなことなんて言っていないだろうと、堂々と胸を張って答える。
しかし、委員長の眉間に寄った皺は、さらに深さを増していく。
「彩風くんそのゲーム、配信で何回やったっけ」
「えーっと、二回くらいやったかな」
「そうだよね、うん。私もその二回アーカイブで見たことあるよ……」
鼻の根元を指で摘み、委員長は目を強くつむりながらぽつりと言う。唇の隙間から漏れているうなりのような声は、なにか悪い夢でも見ているかのようだった。
「本当にやるの?」
「やるけど、どうして?」
「えーっと、」
委員長は嘆くと、その口元が悩ましげに真一文字に結ばれた。どうしたのだろうとのぞき込むと、長い睫毛に縁取られた双眸が僕を突き刺した。そこに浮かんだ表情は、困惑と呆れと心配が入り混じったような重たい色をしていた。
「彩風くんって確か、あのゲーム、かなり苦手だった、よね?」
言葉を選んでいるのかどこかたどたどしい。そうね。そう言ってうなずくと、委員長は意を決したように僕に告げた。
「大丈夫? ほんとに終わらなくなっちゃうよ?」




