リスナーから、ディーテへ
「お兄ちゃん。テスト終わったらでいいんだけどさ、」
――ピンポーン。
張り詰めた空気のなかに突如現れた音が、あさがおの言葉を遮った。インターホンが来客を知らせたのだ。
相手のタイミングをまったく考慮しないその無粋な響きは、まるで異世界から届いたのかと思うほどこの空間と乖離していた。
緊張の糸がぷつりと切れる。息を吸うと、酸素が巡っていくのがわかる。その呼吸の深さに、自分が我を失っていたことに気づかされた。さっきまでの神妙な空気は、いったいなんだったのだろう。
「あっ、今日か。たぶん私だ」
そう言ってあさがおは、小走りでドアの奥へと向かっていった。玄関から声が聞こえてくる。会話の内容から察するに、おそらく相手は配達員だ。なにか注文したんだろうなと予想していると、案の定彼女はダンボールを両手に抱えてリビングに戻ってきた。
「ずいぶん大きいねそれ。なに買ったの?」
「へへっ」
肩にのしかかっていた重みがいくらか和らぐ。身軽になった上半身を向けて問いかけると、茶色の箱の上に見えた彼女の顔がニヤリと笑みをつくった。込み上げた嬉しさが、さっきまでの彼女の憂いた表情を柔らかく緩和している。
きっとその大層な箱のなかには、欲しかったものが入ってるんだろうな。そう思って眺めていたが、その予想は一瞬にして外れることになった。
「はいっ、どうぞ!」
「……え?」
意味がわからず、思わず眉間に皺が寄った。ダンボールが顔の前を横切り、あさがおの手から僕の太ももの上に置かれる。
予想外の行動に驚愕していると、傍らに立った彼女は予想どおりといった表情で僕を見下ろしていた。Tシャツから通された華奢な白い腕が、堂々と腰に当てられている。そこに浮かんだ面持ちは、なんとも見事なドヤ顔だった。
「な、なにこれ」
「なんだと思う? いいよ、開けて」
「いや、中身を聞いてるんじゃなくて、なんで俺にって」
「いいからいいから。とりあえず開けてみなって」
狼狽えながら、ダンボールとあさがおを交互に見る。動揺が皮膚から漏れ、箱の表面に触れた手がじっとりと汗ばんできた。
彼女の意図はわからない。だけど、このなかになにが入っているのか気になっているのもまた事実だった。彼女の表情をちらちらと訝しげに伺いながら、恐る恐るテープを剥いでいく。
「えっ、これって……」
箱のなかには入っていたのはマイクだった。それも、有名配信者が使っているような明らかに高級そうなものが。
中身が判明したというのに、さらに状況が飲み込めなくなってしまった。目で捉え、手で触れているのにも関わらず、それを現実にあるものとして脳が認識していない。確かに実態があるのに、幻のようだ。
なぜあさがおがマイクを? なんのために? どうして僕に? ひっきりなしに湧く疑問が頭のなかに広がっていく。思考できるほどの余白は脳内に残されておらず、なに一つ言葉が出てこなかった。
そんな僕をよそに、あさがおはやや興奮ぎみに喉を鳴らした。とっておきのネタばらしをするみたいに、その人差し指がピンと箱へと向けられる。
「はいっ。それ私からのプレゼント」
「ぷ、プレゼント?」
「お兄ちゃん気づいてないだろうけど、実はお兄ちゃんのマイクの音質結構ヒドいよ」
突きつけられたあさがおの言葉に、自分の机の上の光景が思い起こされる。マグカップと同じ背丈のあのスタンドマイクは、三年前に配信を始めるために千円ほどで買ったものだった。
「いままではお兄ちゃん一人で配信してたから私も気にしたことはなかったんだけど、あてなちゃんとコラボするようになって初めて気づいた。音質全然違う! もはやノイズじゃん! って。一回気になるとずっと違和感がついてくるくらいにはヒドいよ」
「……全然知らなかった」
「まあお兄ちゃんは配信者側だからね。リスナーじゃないと気づかないかも。それであてなちゃんとの初コラボのときに、私部屋に行ったでしょ。そのときにマイクを確認したんだけど、お兄ちゃん見るからに安物のやつを使ってるんだもん。どうりでこんなに音質に差があるわけだって納得しちゃった」
ダンボールに梱包されていた、光沢感のあるシンプルなデザインの箱。その中央には「これが入っています!」と存在を主張するようにマイクの写真がでかでかと印刷されていた。
ゴツゴツと黒光りしているそれは、ロボットの武器と言われても信じてしまいそうなほどの威圧感を醸し出していた。マイクから視線を上げ、あさがおを見やる。
「あのマイク、たぶん配信を始めたときから使ってるでしょ。ずーっと同じ音質だったもん。だからね、もうそろそろ新しいマイクに替えてもいいんじゃないかなーって思って買ったの。これからもコラボするよね。だったら声がクリアなほうがコラボ映えするよ」
あっ、ちゃんと下調べしていいやつ選んだから安心して。そう声を弾ませるあさがおの表情は、心なしかうっすらと朱を帯びていた。高揚がほとばしるその眼差しの透明さに、僕のなかの脆い部分があばかれる。
プレゼントなのだから、もっと素直に喜んでもいいはずだった。ありがとう! 前から欲しかったんだよね! と、そんなふうに。
だが、得体の知れない後ろめたさが気持ちを覆い尽くしているせいで、そんな言葉すら言えなかった。インターホンが鳴る直前のあさがおの表情。その温度のない眼差しが脳裏にちらつき、そわそわと心臓の奥が窮屈にうずいている。
「ありがたいけど、どうして急に。というか、これいくらしたの? 絶対に簡単に買えるようなものじゃないよね。金魚すくいみたいのついてるしさ。配信の不備はこっちの責任なんだから、あさがおが大金出してまでこんなことする必要ないのに」
「お金のことは気にしなくていいよ」
「なんで」
「だってそのお金はお兄ちゃんが私に返してくれた、例の、あのー、投げ銭のお金、だから。あれは私にとってはすでに手放した、あってないようなお金だったし、躊躇せず使っちゃった。それに全部使い切ったわけじゃないから安心して」
あの日のことはいまだに恥ずかしいのか、言葉を詰まらせながら早口で答える。彼女の手振りは、あたふたと一段と大きくなっていた。
「あとその金魚すくいみたいなあみあみは、ポップガードっていうんだよ。お兄ちゃんのマイクの高いか安いかの判断基準ってそこなんだね」
クツクツと愉快げに喉を鳴らすあさがおに、箱を持つ手にギュッと力が入った。逃れるように顔を伏せ、ギシリと小さな悲鳴を漏らしたそれに視線を落とす。
あさがおに言われるまで音質のことなんて考えたこともなかった。なにも問題ないだろうとのうのうと配信を続けていたが、実はそうではなかった。
きっと、違和感を感じていたリスナーはあさがお以外にもいるんだと思う。リスナーたちは、僕自身が知らない僕のことをちゃんと見ていてくれた。それと同じ熱量で僕はリスナーのことを見ているのだろうか。
「それでね、お兄ちゃん」
いつの間にかあさがおは、もといた二人がけのソファーに座っていた。その視線は、投げ出した自身の足元へと落とされている。さらされた彼女の素足が、なにかをこらえるようにギュッと空気を掴んだ。太ももの上で固く結ばれた白い指は、力んでいるのか少し赤色がにじんでいる。
「さっきの話の続きなんだけど」
「なにか言おうとしてたね」
うん。小さく開かれたその唇が、そっと息を吸い込んだ。
「テスト終わったらでいいからさ、また、個人配信いっぱいほしいなって」
初コラボでマイクを確認するあさがおは「第6章 ネコは無邪気に部屋動き回り、ネズミは袋で丸くなる」に書かれています。気になる人は見てみてください。




