居座る理由
リビングのドアを開けると、先客が目に入った。
スプーンをくわえたあさがおが、二人がけのソファーに座ってテレビを見ている。僕が入ってきたことに気づくと、目だけをこちらに向けてキッチンの奥のほうに指を差した。
「お母さんからプリンのこと聞いた? 冷蔵庫にお兄ちゃんの分あるよ」
「ほんと? ちょうど甘いもの食べたいと思ってたんだよね」
まるで僕の行動を見透かしているかのような母の気まぐれに、血の繋がりをしみじみと感じる。プリンとスプーンを取り出すと、テーブル脇の一人がけのソファーに腰を下ろした。なんとなく冗談であさがおの隣に座ってみようかと思ったが、やっぱりやめた。どんな罵倒が飛んでくるかわかったもんじゃない。
リビングにはクーラーがついていた。除湿が効いていて、僕の部屋より空気が軽い。あさがおは肌寒いのか、ふかふかの青いブランケットを肩にかけていた。
「寒いならクーラー消せばいいのに」
「なに言ってんの。クーラーつけて暖かい格好するのがいいんじゃん」
「あー、確かに」
灰色だけで統一された空が、背丈より長いレースのカーテン越しに見える。あれほどの雨雲に覆われてしまえば、太陽の光も地面に届くころには微かなものになってしまう。テレビが放つ光が、薄暗い部屋にちかちかと瞬く。電気をつけようかと思ったが、一度下ろした腰を再び上げるのは億劫だった。プリンを食べ終えたらすぐに自室に戻るのだから、このままでもいい。
「テスト勉強は順調? 結構がんばってるみたいだけど」
プリンがまだ半分残ってる容器をテーブルに置くと、あさがおはこちらに顔を向けた。
「正直なめてた。いつもより早めに取りかかれば余裕だと思ってたけど、全然そんなことなかった。暗記系の科目だったらまだなんとかなりそうだけど、数学みたいに前回の範囲から繋がっている教科は結構やばいかも。日々の勉強の大切さをいまになって実感してる」
「自業自得だよね。だってお兄ちゃんって常に配信優先だったもん。いまになってわかったけど、お兄ちゃんテスト前日でも普通に配信やってたよね。そりゃこうなるよ」
容赦ない正論に、プリンの蓋を開けようとしていた手が固まる。もう少し慈悲があってもいいんじゃないだろうか。
あさがおは心配する素振りをまったく見せず、むしろ揶揄するような笑みを浮かべていた。兄が困っているというのに、笑うと目がなくなるのは相変わらずだった。
「いやー、他人事だからって冷たい妹だこと。でもあさがおさん、そんなこと言ってるけど、テスト前日に配信してたことを知ってるってことはなんだかんだその配信も見てたんでしょ? なら、テストより配信を優先したのは、リスナーからしてみれば嬉しかったんじゃないの」
長い睫毛に縁取られた大きな双眸が、さらに大きく見開かれる。痛いところを突いたようだ。こちらも負けじと、したり顔を彼女に見せつけてみる。しかしすぐさま目を逸らされ、不発に終わってしまった。
あさがおはプリンを頬張ると、おいしー!とわざとらしく大きな歓喜の声を上げた。そのけろっとした表情から、直前までの会話が彼女のなかで存在しなかったことになっているのが見て取れた。
「このプリン美味しいよ! お兄ちゃんも早く食べてみなよ」
「ごまかした」
「ほれっ、早く早く」
僕のほうへと伸びた彼女のスプーンが、顎をしゃくるように、ひょい、ひょいと生意気に上下する。微笑をたたえてはいるが、その弧にゆがんだ双眸からはこれ以上の追求を許さない意思がのぞき見えた。
どうも腑に落ちない。そう思いながらも、急かされるままにプリンを口へと運ぶ。
「あっ、ほんとだ。おいしい」
舌に溶けていく滑らかな感触に、思わず舌鼓を鳴らした。口のなかいっぱいに広がる芳醇な甘さが、胃ではなく頭で消化されていくのがわかる。
勉強で砂漠みたいにカラカラになった脳みそを、糖分がじわりと潤していく。突如降り注いだ卵と牛乳の雨に、へばっていた脳細胞たちが両手を天に掲げて喜びの舞を踊っていた。「でっしょー」とあさがおが頬をほころばせる。
「私が甘いもの食べたいなーって思うと、なぜかいつもお母さんがこういうの買ってきてくれてるんだよね。なんでかわかんないけど、さすがお母さんって感じ」
どこかで聞いたことあるような台詞を感心したようにつぶやきながら、あさがおはスプーンを口に入れた。
「ところでさあ、次の配信はいつなの?」
求めれば求めるほどに、プリンとの別れが近づいていく。ちまちまと惜しむように味わっていると、先に食べ終えたあさがおがふいに口を開いた。
たったいま思いついたような口調だった。だけど、なんとなくその台詞はずっと前から用意していて、言うタイミングを見計らっていたようにも聞こえた。
初めはちょうどよかった室温が、居座ったせいで徐々に冷たく感じてくる。腕を交差させ、二の腕をさする。鳥肌の感触が、手のひらにざらりとまとわりつく。あさがおの前に置かれた空の容器のなかに、青白い空気が渦巻いていた。
「とりあえず決まってるのは、テストが終わった次の日の土曜日のコラボかな」
「今回はテスト前に配信しないんだ」
「それは無理だね。テストに間に合わなくなっちゃう」
期待させるのもよくないと、間髪入れずにはっきり答える。
「まあ、勉強は学生の本分だからね。しょうがないか」
テレビに視線を向けたまま、あさがおは薄く目を細める。そうだね。そう同意しようと思ったけれど、言葉がすんでのところで喉に詰まった。あさがおの台詞が僕ではなく、彼女自身に言い聞かせているように聞こえたからだ。
言いそびれた言葉が、声帯の裏であてがなさそうに棒立ちしている。ここから見るあさがおの横顔は、白を超えて青みがかっていた。その輪郭線はおぼろげで、いまにも光に溶けてしまいそうだ。整った顔立ちに張り付いている微笑は、なにか別の感情があふれてこないようにするための蓋に見えた。
会話が終わり、リビングがひっそりと静まり返る。テレビの映像を視界は確かに捉えているのに、その音声はなんだか遠くから聞こえているみたいだ。僕らを囲む透明な壁が、日常と二人を隔てている。スプーンが容器に当たる音すら憚れるようで、底に残ったプリンを慎重に掬った。
最後のひとくちを堪能すると同時に、ここに居座る理由はなくなった。なのに、不思議と身体が動かなかった。
なんとなくいまここを離れてはいけないような気がすると、本能が胴体をソファーに縛り付けている。惰性でテレビを見てみるも、頭が動かないせいで映像が脳まで届かない。肺はじっとりと重たく、冷ややかな空気が身体の内側を蝕んでいる。
いま僕はここに居座ることで、いったいなにを待っているのだろう。
「あのさぁ、」
静謐に放たれたあさがおの声に、無表情の裏側で動揺が走る。その微かな声にはらむ覚悟を決めたような意思の強さに、内臓がびくりと強張った。
ごくり。固唾を飲む音が、鼓膜の裏をなぞる。あさがおは自身の足元に視線を落とす。その眼差しはどこかそこではない虚空を見つめているようだった。視線の先の彼女から息を吸い込む音が聞こえ、僕は身構えた。
「お兄ちゃん。テスト終わったらでいいんだけどさ、」
――ピンポーン。




