この違和感はどこから
「じゃあ今回の配信はここまで。今日で準備が整ったから次回は海底神殿に突入かな。次の配信はこっちの都合で結構空くかもだけど、やるときは告知するよ。それじゃ、おつー」
定番の別れの挨拶を告げると、こだまするようにコメント欄にも【おつ】があふれ出してきた。こうして同じ言葉が上から下まで連なっていると、なんだか龍の鱗のように見えてくる。
コラボ中はコメントを読めていなかったが、この流れの速さを見るに今回もたくさんのリスナーが来てくれたんだと実感する。配信が完全に切れたことを確認すると、背もたれに体重を預けて息を吐き出した。
興奮の余韻なのか、喉を通った空気の塊がほんのり熱っぽい。もはや定番枠になっているコラボ配信は、今日も大盛況に終わった。配信中に何度かコメント欄を見たが、【www】【草】【あてなちゃんかわいい!】といった反応が多かったあたり、リスナーにも好評だったのだろう。
やっぱりコラボは楽しい。ふくろうさんたちも喜んでくれているし、なにより自分たちがやっていて楽しい。テストがなければ毎日でもやりたいと思うほどだ。まあ、織部あてなにも自分の配信の都合があるからそれは無理な願望だろうけど。たったいまコラボが終わったばかりなのに、もう次が待ち遠しくなっていた。
でも、
でも、なにかがお腹の奥につっかえている。
正体を掴むことのできない不穏な影が、戯れに僕のなかをなぞる。気づかないほど小さく、だけど一度見つけてしまうと無視できないような違和感。痛くも苦しくもないそんななにかが、確かにそこに存在している。
この後ろ髪を引かれるような気持ちはなんだろう。
僕の心は、僕になにを伝えようとしているのだろう。
視線を正面に向けると、机の上は配信中の状態のままだった。僕の顔を照らすモニターには、いまだマイクリのタイトル画面が表示されている。もう配信が終わったというのに、手元に佇む安物のマイクは僕に向かって伸びている。コラボの熱気の残滓が漂っているこの場では、鬱々とした自分が場違いのように思えた。
マイクやキーボードを机の奥に押しのけると、開いたスペースに腕を置いて顔を埋めた。吐き出した息が、僕の顔に跳ね返ってくる。その吐息には温度がなく、すっかり冷たくなっていた。
伏せた顔をそのまま横に向けると、ベッドの上に散らばった勉強道具が視界に入った。配信をするからと、勉強を中断して一時的に避難させていたものだ。テキストもノートも開きっぱなしで、その周辺に色ペンが投げられている。赤や青に、緑や黄色。カラフルに装飾されている白いシーツを見て、あぁ、と僕は納得した。
もしかしたら僕は、焦っているのかもしれない。テストが迫ってきているというのに、配信に時間を割いていることを。
だとしたらお腹につっかえているこの感覚は、きっと罪悪感や焦燥感が入り混じった心残りだ。やらなきゃいけない宿題がまだ残っているのに友人と遊んでいるときに感じたあのしこりに似ているような気がする。
原因がわかれば、やるべきことは自ずと定まる。勢いをつけて立ち上がると、頬を叩いて気合いを入れた。
「さて、勉強がんばりますか」
勉強道具一式をベッドから机の上に戻す。ペンを握った右手には、いつも以上に力がこもっていた。
◇
ノートに突き立てたシャーペンの動きが止まる。黒鉛の香りと湿っぽい空気が混じった鈍い匂いが、鼻孔をくすぐった。
今日は目を覚ましたときから雨が降っていた。音を立てて窓に突撃してくる雨粒が、外の景色の輪郭をぼやけさせる。空気は圧縮したかのように重く、そして中途半端に暑い。クーラーに頼るまでとはいかない気候と解けない問題によって、僕の集中力はじりじりと削られていた。
準備回の配信から一週間が経った昨日のコラボでは、僕らは予定どおりマイクリの海底神殿に向かった。多少のハプニングはあったけれど、先週のうちに準備しておいた甲斐もあり楽しんで攻略することができた。
委員長と話し合った結果、次のコラボはテストが終わるまでやらないことになった。テスト範囲はあらかた理解しているからと、彼女はテスト前も通常どおりに配信するみたいなので、つまりこの空白期間は僕のためのものだった。そうお膳立てされてしまえば、赤点回避のために勉強に集中せざるをえない。
そして今日はテスト前最後の休日の日曜日。テストは水木金の三日間なので一応まだ月火と残っているが、丸一日勉強に費やせるのは今日だけ。そのため今日のうちにある程度は出題範囲の勉強を終わらせておきたいと、僕は朝から机に向かっていた。
しかし、これまでのテストを蔑ろにしていたせいで、まったく勉強が捗っていなかった。特に数学なんかは期末の範囲だけの勉強では理解ができず、結局中間のところから見直すはめになっている。
余裕を持って普段より早いうちに勉強を始めていたはずだ。それなのに、なんだかんだ今回も直前まで慌てていそうな気配がすでに漂っている。
テキストとにらめっこしていると、自然と顔のパーツが中央に寄ってくる。皺だらけになった表情は、さぞ苦痛に満ちていることだろう。
光沢のあるページに印刷された黒い数字たちは、見つめているうちにウネウネと動き始めた。もはや文字として認識できなくなった無数の黒い線が、イモムシのようにテキストの上を這いずり回っている。
「あー! もーダメだ! ぜんっぜん集中できない」
キャパシティを超えたフラストレーションに、思わず怒号をぶちまけた。勉強なんて慣れないことを続けていた僕の脳みそはもう限界だった。
「よしっ、糖分でも補給しよ!」
誰が見ているわけでもないのに、釈明するように宙に向かって独りごちる。これは負けたんじゃない、勝つための戦略的撤退なのだ。イスから立ち上がり、自分に言い聞かせる。
机の上の勉強道具たちにきっぱり別れを告げると、そのまま振り返ることなく胸を張って部屋から出ていった。
◇
リビングのドアを開けると、先客が目に入った。




