表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/88

雨と無知

「だ、だだいま……」


 喉奥から鳴った声は、自分でも驚くほどひどく重苦しかった。身体のすべてが信じられないほどに疲弊している。帰路はいつも以上に長く感じ、このまま力尽きてしまうかもしれないと何度思ったことか。

 激痛に悲鳴を上げている肩からバッグが滑り落ち、ガツンとフローリングを打ち鳴らす。その物々しい音に、ソファで横になっていたあさがおが、なにごとか! と身体を起こした。


「なにそのカバン。そんなに膨らんでなにが入ってるの?」


「ああ、これ? これは勉強道具だよ。もう少しで期末があるから、土日に勉強しておこうかなって」


「えぇ、めずらしっ。どうしたの急に。大丈夫?」


 労るように肩をさする僕に、心底理解できないといった様子であさがおは眉間に皺を寄せた。細められた瞼からのぞく視線が、僕の頭を心配しているように見えるのは気のせいだと願いたい。


「至って健康だよ。テスト期間中もコラボ配信したいし、赤点取って夏休みに補修を受けるなんてこともしたくないから、今回は早めに勉強しておこうと持って帰ってきたの」


「へぇー。いっつもテスト直前になって慌ててたのに。織部あてな様様だね」


「ほんとにそうだね。この件に限らず、織部あてなのおかげでいろんなことが変わったもん。登録者数とかびっくりするほど伸びてるし、感謝してもしきれないね」


 コラボをしてから慌ただしく流れていく日々のなかで、いちばん大きく変化したのはなんといっても身の回りの数字だった。チャンネル登録者、同時視聴人数、SNSのフォロワー数など、目に映るすべての数字のどれもが確実に増えていった。委員長に言うと謙遜しそうだが、これは完全に織部あてなの影響力によるものだった。


「勉強するってことは、コラボ以外の配信は少なくなるの?」


「そうなるかなー。でも勉強に余裕ができたら雑談配信くらいならちょっとはやるかも」


「雑談配信って。ここ最近コラボ以外はずっと雑談配信じゃん。そんなにやってたらもう話すことなくなっちゃうよ」


 心配そうにあさがおは微笑みかけた。横になっていたせいで彼女のプリーツスカートは崩れていた。それを彼女は握り込み、格子柄の布地にぎゅっと皺が寄った。いくつもできた溝に薄い影がたまる。


 以前はゲームのタイトルが大半を占めていた配信履歴は、いつしか「雑談」の二文字がほとんどになってきていた。コラボ配信とコラボ配信の隙間。暇を潰すためだけに突発的に行われた、短時間で中身のないアーカイブが、低頻度でぽつぽつと連なっている。


 別に個人でのゲーム配信をやりたくないわけじゃない。やりたいゲームはまだいくつも残っているし、考えていた企画もあった。

 しかし、いまはそれ以上にコラボのことで頭のなかが埋め尽くされていた。コラボを始めてからの日々は本当に刺激的だった。知らなかった世界は触れるものすべてが新鮮で、まるで配信始めたてのときみたいな高揚が常に僕の隣にいる。

 そして、自分が楽しいというのもあるが、なによりリスナーからの反応がよかった。最初は怯えていたふくろうさんからの反応も、蓋を開けてみれば暖かいメッセージがほとんどだった。


【初めて知ったけど面白かった】

【次もたのしみにしてます、師匠】

【チャンネル登録しました!】


 リスナーと配信者は似る、という言葉を聞いたことがある。

 織部あてなの配信を見ずとも、彼女の配信がどんな雰囲気なのか、どんなふうにリスナーと接しているのか、このふくろうさんたちからの優しさあふれる文面だけで容易に想像できた。


 人気に執着していたわけじゃないけれど、こうして高評価や数字が伸びたりすると、やはりモチベーションがあがる。コラボに向けて一歩踏み出すことすら臆病になっていた足先も、いまや駆け出すくらいには活力に満ちていた。

 僕もリスナーもコラボを楽しんでいる。ならば、いまはコラボに力を入れるのがいちばんいい選択ではないかと思った。個人での時間を掛けた配信はまた今度でいいだろう。


「雑談配信についてはまた考えるとして、とりあえず明日はコラボだから楽しみにしててよ」


 腰に手を当てて得意げに言うと、あさがおは「うん」と静かな反応を返した。


「あてなちゃんって、お兄ちゃんのことかなり気に入ってるよね。じゃなきゃあれだけのVチューバーがずっとコラボなんてしてくれないよ」


「うーん、そうかな。気に入ってるわけではないと思うけど」


 織部あてなが頻繁にコラボを行ってくれるわけは、なかの人である委員長と僕がクラスメイトという一点に尽きると思う。

 あの日偶然ハチ公前で出会わなければ、いま起きていることはすべてなかったに違いない。そう思うと、ふと喪失感に似た悲しみが口内に冷たく広がっていった。あの日の不運に、いまの幸福を感謝しなければいけない。あさがおには織部あてなの正体を隠している以上、やんわりとごまかした。


「ねえ、お兄ちゃん」


「ん?」


「コラボ楽しい?」


 形のよい唇がぽつりと言葉を紡ぐ。小さく首を傾げると、癖のない黒髪が音もなく垂れ下がった。


「めちゃくちゃ楽しいよ! ゲームにも慣れてきたし、見てくれる人も増えてきたしで、いまはやる気しかないね。ふくろうさんたちからも【楽しかった】【またやって】なんてメッセージが来るようになってさ――あっ、「ふくろうさん」っていうのは織部あてなのファンの呼称ね」


「……知ってるけど」


「ともかくコラボがこんなに楽しいものだと思わなかった。テストもあるし当分はコラボ一本でいいかなー」


「そーなんだ。声かけてもらってほんとよかったね」


 あさがおは薄い笑顔を形づくると短く息を吐き、膝を抱えたままコテンと達磨のようにソファーの上に転がった。横顔を彼女の髪が覆い隠し、その表情はここからでは見えない。

 誰かさんによる初回のハプニングがまるで遠い昔のようだよ。そう意地悪げに言い放つも、無気力に丸まった彼女からはなんの反応も返ってこなかった。前髪の隙間から見える目の表面に、テレビから放たれたカラフルな光が張り付いている。うっすらと透明な膜が貼った瞳は、どこか憂いを帯びているようだった。


「どうかした? 寝起きだった?」


 不思議がる僕に、あさがおは再び起き上がり大きく伸びをした。うーん、と間延びした声が室内に充満する。

 彼女は僕を視界に捉えた途端、その瞼をニヤリと細めた。無気力げな表情は幻のように消え、見慣れたしたり顔を浮かべている。


「いや? お兄ちゃんって建築のセンスないなーってふと思ってさ。――あっ、そうだ。明日コラボあるなら、また私が部屋に行って教えてあげようか?」


「それだけはもう絶対やめて! もしまた入ってきたら……」


「入ってきたら?」


「――えーっと、まあ、とりあえず絶対来ないで。心臓に悪いから」


「仕返し思いつかなかったんだ」


 あさがおは思わずといった様子で、クスッと吹き出した。図星を突かれた僕はバツが悪く、唇を尖らせる。


「あのときは奇跡的にやりすごせたからよかったけど、本当だったらコラボが崩壊しててもおかしくなかったんだからね。わかってます? あさがおさん」


 真剣な忠告も、「はーい。わかってまーす」と緊張感のない声に流されていく。

 本当にわかっているのだろうか。説得力に欠ける彼女の態度に少し不安を感じたが、これ以上言うのはやめた。こんな様子だが彼女は僕よりよっぽど大人だ。心配しなくても大丈夫だろう。


 キッチンの奥から漂ってくる夕ごはんの匂いが一段と濃くなってきた。食欲をそそる香りが鼻孔をくすぐり、空っぽのお腹を刺激する。そろそろ夕食の時間だ。

 床に置いていたバッグを部屋に持っていこうと持ち上げると、その重さに思わずよろめいた。よくこんな塊を学校から家まで運んできたなと、自分に感心する。


 肩に食い込むバッグのベルトに悶ながらドアに向かうと、背後から呼び止められた。


「ねえ」


 振り返った先、足をそろえて姿勢よくソファーに座っているあさがおの双眸が、僕を突き刺す。


「ん?」


 ドアにかけていた手を下ろす。返事をするも、彼女はなぜか固まっていた。

 時間を煮詰めたような沈黙が、じっとりと身体にからみつく。半開きのままの口はなにかを言おうとしているようだったが、その呼吸音が言葉に変わることはなかった。

 なんだろうと見つめていると、僕の視線から逃れるようにふっと彼女は顔を伏せた。


「……やっぱなんでもない」


「なにそれ。気になるじゃん」


「いまはいいや。ていうかそれ重そうだね」


 あさがおは音もなく頬を緩ませ、パンパンになった僕のバッグを指さした。笑うと目が消える、いつもどおりの笑顔だった。


「重いなんてもんじゃないよ。階段を上がるのすら億劫。一回持ってみる? びっくりするよ」


 バッグをあさがおのほうへと押し出してみるも、「それは遠慮しとく」とすぐさま断られた。


「コラボさ、楽しみにしとくね」


「おう。期待してて」


 リビングの外はすっかり暗くなっていた。廊下の空気は夜色に塗りつぶされている。水をこぼしたみたいにドアのすりガラスから漏れた曖昧な灯りが、静けさをより際立たせていた。


「あれ?」


 耳をすますと、ぽつぽつと屋根を打つリズミカルな音が聞こえてきた。いつの間にか雨が降り始めていたようだ。もう少し帰ってくるのが遅かったら危なかったなと安堵する。

 きっと僕の姿が見えなくなるまで、神様が雨を降らすのを我慢してくれていたに違いない。そんな馬鹿げた自身の妄想にふっと頬が緩む。

 今日はなんだか機嫌がいい。コラボのおかげだろうか。


 バッグを肩にかけ直すと、筋肉がギシリと強張った。ただ、その痛みにはさっきまでのような不快感は不思議と感じなかった。

 明日はコラボ配信だ。ふくろうさんや僕のリスナーたち、それにあさがおが楽しみにしてくれている。そう思うと自然と気合いが膨れ上がり、胸が弾んだ。

 足を大きく上げて階段を踏みつける。内側から吹き出す高揚を原動力に、一段飛ばしで一気に二階まで駆け上がっていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ