忘れていた本分
「彩風くん。もうすぐ期末テストがあるけど大丈夫なの? 勉強してる?」
「あっ……」
「ほらやっぱり忘れてた。彩風くん、中間で赤点取ったって言ってなかったっけ」
「……はい。数学がちょっと」
呆れ混じりに吐き出された吐息は鋭利で、きまりが悪そうに収縮している僕の内臓を貫く。
目が怖いよ、委員長。苦笑いを口端にのせて指摘すると、唇を尖らせた委員長はさらに大げさに僕を睨みつけた。ぎゅっと皺が寄り不自然に震えている眉間からは、微かな愉悦が見え隠れしている。彼女は僕の反応を楽しんでいた。
委員長はパッと表情を元に戻して、まじめな口調で言う。
「ただでさえ夏休みは委員会の仕事で何日か学校に行かなきゃいけないのに、加えて赤点補修まであったら配信する時間なくなっちゃうよ。夏休みはリスナーだって休みの人が多い分、配信者にとってはがんばりどきなんだから」
「そ、そのとおりだと思います」
「そうと決まれば、ほらっ」
委員長は僕のバッグのベルトに手を伸ばして強引に引っ張った。うわっ、と急な引力に足がもつれる。バンザイをしながら身体をひねり、ベルトをくぐり抜ける。その光景は、まるで子供がお母さんに服を脱がせてもらっているみたいだった。
バッグはあっさりと奪われてしまい、満足げな笑みをたたえた彼女が机の上に置いた。
「コラボも大事だけど、明日から休みなんだから勉強道具持って帰ろう」
穏やかな声色から感じ取れるプレッシャーに、すぐさま僕は首を縦に振った。圧に屈したというのは確かだが、それ以上に委員長の言ったことは正しいと思った。目先のことばかり優先して、あとで大きな損をしてしまったら元も子もない。
それに、配信に集中しすぎて忘れかけていたが、学生生活を送る上で赤点を取り続けるのは単純によくない。
「委員長はテスト大丈夫なの?」
机のなかから取り出した教材をバッグに詰め込みながら、ふと問いかける。
「私は授業だけで事足りてるから、家での勉強はそこまでがんばらなくても大丈夫かな」
「うそっ……。授業だけでテストいけるって、そんな人間ほんとに実在したんだ」
思わず手が固まった。人は自分の理解の範疇を超えると動きが停止することを、身をもって実感する。
未知の領域に触れ、険しい表情を浮かべていると委員長がクスッと口元に手を当てた。動いた拍子に、彼女の双眸を覆う銀色のメタルフレームが控えめにきらめいた。白い蛍光灯の安っぽい光が、湿度の高い空気を真上から照らしている。
「冗談だよ。テスト勉強に時間を拘束されたくないから、毎日少しずつ勉強を進めてただけだよ。テストを言い訳に配信頻度が減るのはよくないかなー、って思ったからそうしてるの。ほら、テストが来るたびに配信しなかったら、あてなちゃんから私の生活感が透けちゃうでしょ」
プロだ! とそう思った。委員長の思考の一端に触れて、まがりなりにも同じ配信者として情けなさを感じる。
ロールプレイをほどほどにして自分のことを自分の担当するVチューバーのこととしてさらけ出す人も珍しくない。それなのに、きっちりと線引きをしている委員長のどこまでも律儀な姿に胸を打たれた。
「委員長ってやっぱりまじめだよね。なんか格好いい」
ぼそりとつぶやくと、傍らで息を呑む音が聞こえた。彼女の喉の奥で、心情がせぐり上がる。半端につり上がっていた口端は、慌てたように弧の形に書き換えられた。ははっ、と小さくこぼれた笑い声はなにかを隠しているようだった。
委員長越しに見える窓の外は、ずっしりと淀んでいる。日の入りまでまだ時間があるというのに雨雲のせいですっかり暗くなっていた。
「そんな、私なんてできることをやってるだけだよ……。あっでも、配信のためにコツコツ勉強するようになったら、前より授業に対する集中力が深まったんだよね。だからその部分は尊敬してもらってもいいかもね。彩風くんも配信のためを思って真似してみたらいいよ」
そうは言っても、委員長は織部あてなになる前から成績優秀だったじゃないかと口内で独りごちる。
ひとけがなくなった放課後の教室に、どこからか楽器の音が漂ってくる。吹奏楽部が、合奏前のチューニングをしているのだろう。高音に低音、激しく鳴る打楽器の振動。無秩序に奏でられるいくつもの音は、なにかの始まりを予感させた。
数学の教材をバッグに入れようとするも、すでになかはぎゅうぎゅうに詰まっていた。スペースをつくるために、一度入れた教材をもう一度机の上に並べる。全部使うわけじゃないことはわかっているのに、もしかしたらとつい欲張ってしまう。
「まあ、勉強しろって言っておきながらこんなこと言うのもあれだけど、明日はよろしくね」
「うん。楽しみにしてる」
「勉強もがんばってね。それじゃ」
そう言って委員長は小さく手のひらを揺らして、背を向けた。
教材の位置を変えながらパズルみたいにはめ込むと、なんとか全部入れることができた。パンパンに膨れ上がったバッグを見て、自分が勉強大好きな優等生になったような気分になる。だが、優等生はこんなことしないかと即座に己を否定し鼻で笑った。
なかなか閉まらないファスナーを力を込めて慎重に引っ張っていく。ジ、ジ、ジ、と気の抜けた音が雨を予感させる空気に染み出し、つかんだ手のなかに細かな振動が伝わった。




