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ネコは無邪気に部屋動き回り、ネズミは袋で丸くなる

 山の頂上で太陽を眺めていたら、背後でガチャッとドアが開いた気配がした。なんだろうと、振り返るとそこにあさがおが立っていたのだ。その両手には小さな折りたたみ式のイスが抱えられていて、イヤホンが刺さったその顔はなぜか無表情だった。その姿が幻ではないことを認識した瞬間、気づいたら僕は絶叫を上げていた。

 偶然ゲーム内にもモンスターが現れていたのは不幸中の幸いだった。僕がビビったのはそいつに対してだと、織部あてなとリスナーたちが勘違いしてくれたおかげで最悪な事態は免れている。

 ただ、いまだに続くこの窮地では安心なんてできるわけがなかった。耳が覆われているせいだろうか、ドクドクと鼓膜の裏に張り付いている鼓動の音がいつにも増してやかましい。


 唖然としている兄なんてお構いなしに、あさがおはズカズカと部屋に侵入してきた。抱えていたイスを僕の隣に置く。その背もたれに手をかけると、彼女は机の上の配信機材を物珍しそうにジロジロと凝視し始めた。


『早く帰れ!』


 マイクを訝しげに観察しているあさがおに、唇だけを動かしながら何回も力強くドアに向かって人差し指を突きつけた。帰れ。戻れ。お願いだから。いますぐ。

 必死のジェスチャーに気づき、前かがみになっていた彼女の黒目がぬるりとマイクから僕のほうに移動する。上にカーブを描く長い睫毛がパチリと瞬く。なに言ってるの? そんな面持ちで彼女はとぼけたように小首を傾げた。

 その淡々とした表情は人形のようで、ただでさえ端正な顔立ちがさらに際立っている。だが真一文字に結ばれた唇がさっきからむずむずと震えている辺り、笑いをこらえているのがすぐにわかった。

 バレていないと思って無表情を演じ続けている彼女の傲慢さを、粉々に打ち砕いてやりたい。すぐ隣で無防備にさらしている華奢な脇腹に指を突き刺せば、その固く閉じたもろそうな唇も、一瞬で崩壊して白い歯を見せるだろう。

 ただ、いま彼女の声をマイクに乗せるのはもっとも避けるべきことだった。


「あれ、師匠。返事ないですけど大丈夫ですか? もしかして失神しちゃいました?」


 織部あてなの声に、はっと意識が配信に戻る。ゲームのなかのアバターは放置していたせいで完全に動きが止まっていた。硬直している視界の中央で、織部あてなのアバターが画面の向こうから心配そうに僕をのぞき込んでいる。


「ご、ごめんなさい。モンスターなんていると思わなくて、つい」


 ははっ。苦し紛れに吐き出した笑い声はなんとも乾いた響きをしていた。これがもし個人の配信だったら、配信を止めてあさがおを追い払っていた。

 だが、これはコラボなのだ。しかも初めての。当然中断なんて簡単にできないし、これ以上意識を配信から逸してしまえばやる気がないと思われてしまいかねなかった。

 つまり僕はあさがおがうろつこうとも配信を続行しなければいけない状況に知らず知らずのうちに閉じ込められていたのだ。そしておそらくあさがおはそこまで理解した上でここに突撃してきている。視界の端で無邪気に動き回るモンスターに怯える僕は、まさに袋のネズミだった。


 あさがおはいつの間にかベッドの上に移動していた。我が物顔でベッドに寝転がりながら、僕の漫画を読んでいる。


「師匠、この世界には山だけじゃなくもっといろんな場所があるんで案内してあげますね。ついてきてください」


「あ、ありがとう!」


 山を下っていく織部あてなに慌ててついて行く。平静を心がけようとするあまり、逆にぎこちない反応になってしまった。授業中に居眠りを指摘されたときのように声がうわずる。


 移動しながらあさがおの動向をちらりと確認する。寝転がっているその耳には、この部屋に来てからずっとイヤホンがついたままだった。ポケットに入っていて見えないが、たぶんあのコードの先はこの配信を開いたスマホに繋がっているんだろう。確信に近い予想にどっと身体が重くなる。横に放置されたきり空席のイスが、ご主人を求めて寂しそうに僕を見上げていた。


 干渉してくる気配がないので、ひとまず配信に集中することを心がける。


「海につきましたよ、師匠」


「うわ、まさに『海』って感じだね。もしかして魚とかもいるの?」


「もちろんいますし、釣りもできますよ」


「ほんとなんでもできるね」


「なんなら海底神殿とかもあったりしますからね。今度一緒にいきましょう」


 その後も織部あてなは、僕をいろいろな場所へと連れて行ってくれた。砂漠や雪山に、人が住んでいる村。そこで見た風景はどれも目新しく、没入感の高さにどんどんゲームの世界にのめり込んでいった。

 解説する彼女は水を得た魚のようにいきいきとしていた。よくクラスメイトに勉強を教えている姿を見かけるが、案外こういうのが好きなのかもしれない。楽しそうに語気を弾ませるから、その都度僕の好奇心はそわそわとくすぐられた。


 ただ、どうも気持ちが乗り切れなかった。コラボは順調に進み、最初の緊張を忘れてしまうほど楽しんでいる。それなのに、意識の半分が配信の外を向いているせいで、テンションが何割か抑え込まれていた。理由は考えるまでもない。ヤツのせいだ。

 彼女は一応マイクに音が乗らないように気を使ってくれているようだが、その圧倒的な存在感は無視できるものではなかった。現状はおとなしくしてはいるものの、いつ接触してくるかわからない恐怖はいまも僕の隣で息を潜めている。


 諸悪の根源は漫画に飽きたのか、ベッドの上で退屈そうに伸びをしていた。僕の身体がちょうど収まるサイズのベッドは、小柄な彼女が寝ているとものすごく大きなものに見える。ゴロゴロと身じろぎしている様子はまさにネコだった。

 仰向けになった頭部から、風呂上がりの乾いた黒髪が扇状にさらさらと広がっている。無防備にさらされたその真っ白なおでこは、照明の光をきめ細やかに跳ね返していた。


 僕の視線に気づいたあさがおはキョトンと目を丸くした。薄桃色の唇をパクパクと上下させる。


『ほれ、前を向け。集中しろ』


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