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彩風劇場 最前列 特等席

「それにしてもほんとひどいよね。彩風くん、ぜんっぜん私のこと気づかないんだもん。確かにあの日は髪を結んでなかったし、メガネじゃなくてコンタクトだったよ。でも同じクラスで話したこともあるんだよ? そんなことある?」


 委員長の言葉は確実に僕を責め立てていた。その憂いを含んだ響きに、胸が締め付けられていくのを感じる。まっとうすぎる彼女の正論に、僕は謝ることしかできない。


「……ごめんなさい」


「というか今日だって、ほら見てよ。私、あのときと同じ服装で来たのに彩風くん全然気づいてくれないじゃん。今日は天気がいいからみんな半袖になってるっていうのに、わざわざ長袖を着てきたんだよ。道中すっごく暑かったんだから」


 委員長は不服そうに口を尖らせると、イスから立ち上がり「ほら!」と身体を左右に揺らして、その服装を僕に見せつけてきた。

 くるぶしまである青のスカートが彼女の動きを追いかけてふわりと翻る。ご丁寧にメガネまで外し、「どう、思い出した?」と彼女はずいと顔を近づけてきた。日差しを身にまとったすらりとした風貌は、髪型は違えど明らかに僕が間違えて声をかけた女性その人でしかなかった。

 自分の不甲斐なさに心が折られ、もう謝罪の言葉すら出てこない。コーヒーのものとは違う苦味が、口のなかに込み上げてくる。

 委員長の眉根に強く刻まれた皺から、呆れたような怒りを感じる。それはただ単に視力が悪いせいで目を細めているのだと願いたい。

 しかし、メガネをかけ直してもその皺は伸びることなく、僕は逃げるように顔を伏せた。


「髪もほどいてあげようか? 学校以外では基本髪は結ばないけど、今日は結んできたんだよね。彩風くんが気づくように」


「いや、大丈夫です。思い出しました」


「それはよかった。私だけが覚えてるなんてなんか不公平だもん」


 そう言って委員長は再びイスに腰を下ろし、ふっと息を吐き出した。だけど、とその唇が微かに動く。


「まあ、あのとき彩風くんはオフ会の直前だったから気づかないのも無理はないよね。特別に許すよ」


「どうも」


 いま思えば確かにあのときの僕は、人の顔をしっかり判別できるほどの余裕はなかった。

 だとしても、僕は人の顔と名前を覚えるくらいにはもっと他人に関心を持つべきだった。今回のことだけじゃなく、映画館での佐藤さんの件もそうだ。これからはリスナーを大切にするのと同じくらいに、リアルの人との交流も大切にしなきゃいけないと心に刻む。

 人のために、そしてなにより自分が困らないためにも。


 それにしても、と咥えていたストローを離して、委員長は込み上げる感情を噛みしめるようにつぶやいた。


「すごい現場に居合わせたなー私。あんな修羅場生きててなかなか見れるもんじゃないよ」


「ねえ、それもしかして僕ら兄妹の話してる?」


「うん。それ以外ないでしょ」


 吐息混じりに吐き出された声は、まるで楽しかった思い出を振り返るような幸福感で満たされていた。

 委員長は顎に手を添えると、僕のはるか上に目を向けた。虚空を見つめる彼女の頭のなかでは、あの日の僕ら兄妹の映像が再生されているのだろう。実話に基づくエンタメとして。

 しかし、その出来事は僕にとっては思い出したくない苦いものだった。


「蒸し返さないでよ。やーっと仲直りができて普段どおりに戻ったんだから」


「でもそれって私のアドバイスのおかげでもあるでしょ? 本人からちゃんと感謝してくれてもいいと思うなー」


 チラッ、チラッと向けられる委員長の視線が、僕からの感謝の言葉を催促している。

 オフ会の事件を経てあさがおとの関係に悩んでいた僕に、救いを与えてくれたのは委員長だった。彼女のアドバイスはあまりにも的確で、神のお告げのように聞こえたのをいまでもはっきりと覚えている。

 しかし、タネが明かされてしまえばなんてことなかった。彼女はあの場にいたのだ。しかも最前列の特等席で。だから、彼女は事前に僕がどんなことで悩んでいたのか全部知った上で相談に乗っていたのだ。明かされたチープなトリックに肩から力が抜けていく。


「委員長すごい! まるでなにからなにまで全部見てきたみたいに的確だ! って、素直に感心してた僕の気持ちを返してほしい」


「ごめんごめん。相談されたときにネタばらしするわけにもいかなかったからさ」


「それもそうね。まあでも、」


 喉の奥から飛び出てきた言葉は完全に無意識だった。自分がなにを言おうとしたのか気づき、思わず言葉が詰まる。

 でも? と委員長の顔が不思議そうに傾き、長い睫毛がパチリと上下した。キョトンと見開いた茶褐色の双眸がレンズ越しに僕を貫き、心臓がドキリと跳ね上がる。

 彼女はテーブルに突いていた肘を下ろすと両手を太ももの上に乗せ、少しだけ前のめりになった。聞く準備はバッチリといった様子で、僕をまっすぐに視界の中央に捉えている。

 一度言葉を切り出してしまったのが運の尽きだった。もう後戻りができる空気じゃないことを悟ると、どうにでもなれ! と意を決して口を開いた。


「全部見てたとか見てなかったとか関係なしに、助けられたことは事実だから、まあ、――ありがと」


 言い切ると、委員長のほうに顔を向けることができなかった。お腹の底から湧き出したマグマが体内に満ちていき、あっという間に頭のてっぺんまで到達する。顔の内側を駆け巡る熱は、自分ではもうどうしようもなかった。

 テーブルの上を這っていた目線が、飲みかけのアイスコーヒーにたどり着く。その黒い水面から僕をのぞき込む視線が気に入らず、ストローを避けて一気に喉に流し込んだ。乾ききった口内に、冷たい感覚だけが広がっていく。

 ドン、と空になったグラスをテーブルに叩きつけると、前方からふふっと軽快な笑い声が聞こえてきた。逸していた目がつい反射的に彼女のほうへ向かう。


「どういたしまして」


 そう言って、委員長はくしゃっと相好を崩した。耳の奥に染み込む、揶揄を一切含まない素直な声音。純度の高い喜びが、むき出しの状態で目の前にさらされる。僕だけに向けられた感情の塊に、心臓がキューっと縮み上がるのがわかった。

 彼女の言葉に内包していた甘酸っぱい香りが、僕の小さな自尊心をこしょこしょとくすぐっていく。のぼせるほどの熱が頭に充満していて、理性の輪郭はいまにも溶けそうだった。熱を排出しようと吐き出した息が細かく震えている。

 このままこの空気に包まれていたらまずい。きっと僕のなかのなにかが壊れてしまう。掴んだままになっていたグラスの底。溶けて水が滴っている氷が、照明の光できらびやかに着飾っている。大きく開いた口にそれらを全部入れると、気を紛らわすように一心不乱に噛み砕いた。

 ゴリゴリと騒々しい音が二人の間に流れていく。委員長のすらりと伸びた白い喉が微かに震える。薄い唇からこぼれた愉快げな吐息は温かく、冷たさによる痛さに悶える僕の頭のなかにじわりと浸透していった。


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