引き分け
「もうよくないか!」
咄嗟に喉から飛び出た叫びは懇願に近かった。このままだと死んでしまいそうで無意識のうちに遮っていた。酸素をかき込むように呼吸を繰り返す。
ずっとイスに座っていたのに、なんで息が切れるなんてことが起きているのだろう。ティッシュを一枚引き抜き額に押し当てるも、汗の多さですぐにぐしゃぐしゃになってしまった。
悲しいのはあさがおが言ってることがすべて紛れもない真実だということだ。自分の行動の罪悪感と、それをネットにさらされた羞恥心が全身を飲み込み、それ以外の感情が見つからない。
奇妙な沈黙が通り過ぎていく。コメントの煽りを燃料とする暴走機関車と化していたあさがおも、速度をゆるめたようだ。彼女は咳払いを一つ落とし、平静を取り繕った声でなにごともなかったかのように話を続けた。
「私のお兄ちゃんの話なのになんでディーテくんがそんなに焦ってるんですか?」
「い、いやー、そんなに言われたらゴッドアフロさんのお兄ちゃん可愛そうだなーって思って」
「そうですか。わかりました。では本題なんですけど、どうしたらお兄ちゃんはお兄ちゃんらしくなってくれるんでしょうか。ディーテくんに教えてほしいです」
甘えた声が脳のなかにじわりと溶け込んでいく。あさがおの質問が、答えを求めて僕の脳内を駆け回っている。
しかし思考回路はとうに限界を超えていた。もう答えをつかみ取る気力は残っていない。フリーズした脳内にいる僕は足を投げて地べたに座り込み、その質問を呆然と眺めていた。卓上を照らす蛍光灯の白い光がいまの僕には眩しすぎて、静かに目を細める。マグカップにほんの少し残っていた水で乾いた口内を潤すと、疲労混じりに声を吐き出した。
「……きっと、もう大丈夫ですよ」
「え?」
「たぶんゴッドアフロさんの気持ちはすでにあなたのお兄ちゃんには届いてるような気がします。なんせ熱量がすごかったですし。なので、もう大丈夫だと思いますよ」
「ほんとですかねー」
「うん。二度としないと思います。なんでかわかんないけど、なんとなくそんな気がします……」
「うーん、いまいちピンと来ないですけど、ディーテくんがそう言うならお兄ちゃんを信じてみようかなと思います」
「そう言ってもらえてよかった」
「話を聞いてもらえてなんか身体がスッキリしました。今日はホントありがとうございました!」
「うん。こちらこそ、来てくれてありがとね」
通話が切れた瞬間、顎が机にピタリと張り付いた。まだ配信中だというのに身体がイスの上に溶け出してく。両腕が重力に抵抗することなくするりと下へと落ちていき、振り子のように揺れていた。
目だけを動かして画面に視線を向けると、
【いまのなんやねんw 相談の答えになってないやん】
とあまりにも的確すぎるツッコミが上に流れていくのを確認した。
◇
久しぶりの凸待ち配信が無事? に終わりよろよろとリビングに向かう。言われていたとおり確かにそれはソファーの上に投げかけられていた。物音一つない空間でだらりと垂れ下がっている袖がついさっきの自分の姿と重なり、うっすらと親近感を覚えた。
「あっ、お兄ちゃん」
リビングから出ると二階から降りてきたあさがおにちょうど出くわした。長い睫毛に縁取られたくりっとした瞳が、僕を捉えた途端に大きな丸を描く。
そのハッとした表情は偶然を装っているつもりなのだろうが、僕の様子を見るためにわざわざ降りてきたのは明らかだった。笑いそうになるのを無理に抑えようとしているせいか、薄桃色の唇がぎこちなく歪んでいる。
「わっ、お兄ちゃんが制服片付けてる! めずらし。なんかあったの?」
なんとも白々しい。ムッとして睨みを利かせてみると、彼女は「ん?」とおどけるように小首を傾げた。視線を跳ね返すように僕をまっすぐに見つめ返す。夜色をした黒目の奥に散らばる光の粒が、なんとも嬉しそうにパチパチと弾けている。
「まあね。散々だったよ」
顔をしかめながら、濁点をふんだんに交えて吐き捨てる。僕の反応にあさがおはなぜか満足げで、ふへへっと愉悦混じりの吐息をこぼした。輪郭に沿って整えられた黒髪が動きに合わせてさらりと揺れる。大きな瞳は瞼の裏に隠れてしまい、ニヤリと幸せそうな弧を描いた。
いま兄は不機嫌ですよ。怒ってますよ。そう表情で訴えているはずなのに、なぜかまったく伝わらない。いったい彼女の目には僕はどう映っているのだろう。
「へーえ、大変だったんだね。なにがあったか知らないけどー」
なんか、悔しい。
凸で言っていたことは全部僕が悪い。それは理解している。
だが、ここまで好き放題やられているのはどうも癪だった。彼女はもはや感情を隠そうともしなくなった。その緩みきった顔に向けて、ふと反撃を試みたくなる。
「あっ、そういえば」
「ん? なに?」
「あさがおさん、俺の配信内で『ゴッドアフロさんはお兄ちゃんが大好きな人』ってイメージがついちゃったけど、大丈夫なの?」
挑発に似た笑みを浮かべてあさがおに言葉を投げかける。すると、直後に右胸の辺りに可愛げのある重みが降ってきた。飛びかかってきたあさがおが僕を叩いたのだ。
僕とあさがおの間にあった空間が一瞬でなくなる。胸に衝撃を受けるたびに彼女の黒髪は揺らぎ、僕と同じシャンプーの甘い匂いが鼻先をくすぐった。手が小さいせいで握りしめた拳がとても鋭利なものに感じる。叩き慣れていないのか、小槌を振るように上下する拳からはポコポコと軽快な音が聞こえてきそうだった。
「う、うるさいよ! 一緒に映画見に行くくらい普通でしょ。リスナーさんたちがおかしいんだよ!」
狙ったとおり痛いところを突いたみたいだった。顔を真っ赤に染めたあさがおの叫び声が周囲に弾け飛んで乱反射している。
夜の静まり返った廊下は、二人が思っていた以上に音が反響した。ハッとしたあさがおが両手で自身の口を押さえる。いつまでも余韻が残るほどの声の大きさにびっくりした僕らは、思わず黙り込んでしまった。
やば、騒ぎすぎたかも。
辺りにキョロキョロと視線を這わせる。
声の残滓が消えたあとに訪れた静寂はなんとも滑稽だった。驚きで見開かれたお互いの視線が数秒間重なる。
二人のあいだを天使が通り過ぎていく。その瞬間、わけもわからない楽しさが込み上げてきて、どちらからともなく静かに笑い出した。
これにて第4章おわり。ここまで読み続けてる人っているんですかね? もしよかったらなんでもいいのでコメントしてくれたら嬉しいです。とくに書くことがなかったら挨拶とか今日の晩ごはんでもいいです。
4章は、正体バレ、けんか、仲直りと紆余曲折を経て新たな関係になった彩風兄妹の日常の話でしたが、5章からは新キャラが登場して話が一気に動き出します。今日と同じくらいの時間に投稿しますので、楽しみにしていただけたらなと。




