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電波の向こうは扉の向こう

――ゴッドアフロ。


 同じ家にいるからわざわざ凸する意味ない。あのときそう言われて感じたのは確かに寂しさだった。あさがおから凸されることはもうないんだろうなと思った。

 しかしこうして実際に、そして不意打ちで来られるとそこに嬉しいなんて感情はなかった。あるのは頭をフルスイングで殴られたような衝撃と、なにをされるのかわからない恐怖だけだった。寂しいって、僕はなんて呑気なことを考えていたのだろう。

 いったいなにをするつもりなんだ。

 あさがおは世界で唯一ディーテの正体を知っている。それはリスナーが知るはずもない裏の情報、つまり彩風あやかぜ朝陽あさひの情報を知っているということを意味していた。だからこそ彼女の発言一つでディーテという人物も、この配信も崩壊する可能性があった。

 凸なんて可愛いものじゃなくまさに突撃だった。いつの間にか彼女の手のひらの上にディーテの未来が乗っかっている。


「どうかしました?――あれ? 私の環境が悪いのかなー。あ、あー。あー、もしもーし。聞こえてますかー」


 この馴染み深くも聞き慣れない可愛さを詰め込んだ若い声。この声を聞くのは二人で映画館に行ったときの佐藤さんとの会話以来だった。

 つまりネットの向こう、そして数メートル先の扉の向こうにいるあさがおは気づいているのだ。返事がないのは決して回線が悪いのではなく、自分の登場に僕が動揺して声が出なくなっていることを。独り言でも地声に戻ることなく余所行きの猫なで声を徹底しているのが証拠だ。自分の声が僕や他のリスナーにしっかり届いていることを彼女はわかっている。


 また通話を切ろうかと思ったが、今回は一つ前の凸とはまったく状況が違っていた。さっきの意地の悪いリスナーに対して、あさがおは視聴者から見ればごくごく平和な凸をやっているにすぎないのだ。仮にこのまま一方的に切ってしまったら、女の子の声に湧いているリスナーがどうなるか想像したくもない。きっと僕は生きて帰れないだろう。命のためにいまは状況を受け入れるしかなかった。


「あ、ああ。大丈夫ですよ。聞こえてます。聞こえてます。大丈夫です」


 なんとかして声を絞り出す。無理やり声色を通常通りに立て直すも、思考は依然としてぐちゃぐちゃのままだった。


【コメント欄でよく見る人じゃん】

【さっきみたいなことはマジでやめろよな】

【ゴッドアフロって女だったんだ】

【おまえは女の子と話せていいよなあ!】


 ちらりと見たコメント欄は、僕の心情とは裏腹に普段と変わらないものだった。

 それもそのはず。この通話でなにが起きているのか理解しているのはこの世に二人しかいないのだから。

 ひとまずよかった。当たり前だが誰にも気づかれていなくてほっと胸をなで下ろす。


 あさがおの様子を見るに彼女はただのいちリスナーであることを徹底しているようだった。さすがにディーテの正体をバラすなんてことはしないようだ。

 このあとの通話で変な疑いをかけられないようにするには、僕が動揺を隠せるかどうかに掛かっていた。


「ホントですか。大丈夫そうで安心しました!」


 とは言ってもそんな簡単に切り替えられたのなら苦労はしない。今の状況をなんとか受け入れようとするも、それは僕にとって手に余るほどの大きさだった。飲み込むことができないままずっと口のなかに残っている。

 そんな僕に対して、あさがおのこの態度だ。なぜ彼女はこんなにも平然と凸ができているのだろう。彼女の豹変具合に圧倒され、ただただ言葉が出てこない。立ち尽くしている僕をよそに、彼女はマイペースに前へと進んでいく。


「あのー、先日はホントにごめんなさい。オフ会、ドタキャンしてしまって」


「あ、オフ会、ですか。いえいえ、そういうときは誰にでもありますから気にしないでください。で、今回はどういった内容ですか?」


 必要以上にかしこまってしまう。僕はリスナーとどんなふうに話していたっけ。さっきまで数時間も凸待ちをしていたのにも関わらず、思考がぐらつき、もとの立ち位置がわからなくなる。


「はいっ、ディーテくんに相談があって凸しました!」


 僕の質問にあさがおの余所行き声が更に大きく張り上げられた。光をまぶしたように明るく、だけど微かな不穏が混じったそんな声。まるでこのときを待ってましたと言わんばかりに感情の入った声色だった。

 画面左端に表示された視聴者数は三百近くなっている。そのなかの一人は、いままさにニヤニヤと口角を上げていることだろう。悪巧みを思いついたいたずらっ子みたいな笑みが、マイク越し、あるいは扉越しに伝わってくる。

 相談は黒歴史なんじゃなかったのかよ。行く意味ないなんて言っていたが、あれは僕を驚かせるための嘘だったのだ。落ちそうになる頭を手で支えながら、なんとか声を絞り出す。


「相談、ですか。はい、なんでしょう」


「私、二つ上のお兄ちゃんがいるんですけど、」


 台詞を最後まで聞き終える前に、太ももの上に張り付いていた右手が獲物を狩るようにマウスに飛びつく。考えるよりも先に本能がカーソルを通話停止のボタンへと一直線に運んでいった。

 もうリスナーに叩かれようがどうだっていい。早くこの危険な通話を切らなけれ――


「あれ? いまマウスの音が。あっ、もしかしてなんかの作業中でした?」


「ヒエッ」


 喉が締め上がった。引きつった声帯を通って声にならない悲鳴が漏れる。情けない響きが目の前に弱々しく広がっていく。恐る恐る背後を確認するも、当然そこには誰もいなかった。カーソルが通話停止のボタンの上で固まっている。

 クリックできなかったのは、まるですべてを見透かしているかのようなあさがおの牽制から「絶対切るなよ」という圧力を感じたからだ。どうかしました? そうつぶやいた声音は僕には脅迫のように聞こえた。

 ヘッドホンから伝わる柔らかな振動が、しっとりと僕の恐怖心をなぞっていく。マウスからおとなしく手を放し、最後まで付き合うしか道がないことを悟った。


「いえ、なんでもないですよ。続けてどうぞ」


「はい。私二つ上のお兄ちゃんがいるんですけど、そのお兄ちゃんがどーしようもなくだらしなくて困ってるんですよ」


「うっ……」


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