最後の凸者
最初の凸者を皮切りにそれ以降も順調に凸待ちは進んでいった。
好きなアニメやゲームを勧めてくるリスナー、この前の配信でやったゲームが面白かったからまたやってほしいと嬉しい言葉をくれるリスナー、新しい環境に馴染めないと悩んでいるリスナー。凸するリスナーによって話の内容は多種多様だった。
なかには彼女ができないと嘆くリスナーがいたが、そんな相談は逆に僕がしたいくらいだと、色恋沙汰とは無縁の男同士で傷を舐め合ったりもした。
学校と家の往復だけじゃこんなにもいろんな人と触れ合えることなんてきっとなかったんだろうなと思う。凸してくる人たちは性別も年齢も違えば、好きなものも悩みもなに一つとして同じものはなかった。そんななにもかもバラバラな人たちがいままさにこの配信に集まってきている。
これってもしかして結構すごいことなんじゃないか。そう理解すると、急にこの場所がとても尊いものに思えてきた。舐められることが多いけれど、一応ここの責任者として誇らしくもあり、少し照れくさかった。
ふいに唾を飲み込んだ拍子に喉の奥にズキリと痛みが走った。久しぶりの凸待ちということもあり、喉が枯れるほど張り切ってしまったみたいだ。それほど楽しかったんだなと、そっと触れた喉に頬を緩めた。
「もう結構な時間やったし、次の凸でラストにするわ」
時刻はすでに二十三時を回っていた。もう二時間以上もやっていたのかと時間の流れの速さに驚かされる。
ありがたいことにコメント欄には【もう終わりかよ】【あと二時間はいけるだろ】【まだ通話とられてない!】と終わりを惜しむような声がいくつもあった。それはつまりリスナーにとってもいい配信だったということだ。幸せに似た感情の塊が、身体の奥から満ちていくのを感じる。
ありがと、またいつかやる。力みのない台詞がするりと喉を通り抜けていき、LEDの光が充満した部屋のなかに溶け込んでいった。
複数の通話の申請が画面のなかに連なっている。そのうちの一つをクリックすると、もしもしと笑いを含んだ愉快そうな声音が耳にまとわりついた。
「はい、もしもし。まずはあなたのお名前を教えて下さい」
「はい! 非モテネクラマンと申します。本日は相談があって来ました。へへっ」
この男性リスナーも彼女ができないとかそういう相談に来たのだろうか。ネガティブが詰め込まれた名前にそんな予想をする。
しかし、飲み込めないほどの違和感が喉に引っかかった。リスナーの声が、非モテネクラマンという名前にしては、あまりにもテンションが高い。不穏と呼ぶには至らないほどの予感が舌の上にざらりとした感触を残す。相手のニヤリとした表情が画面越しに頭によぎる。
いや、きっと気のせいだ。そう自分に言い聞かせ、振り払うように朗々《ろうろう》とした声をマイクに向けた。
「はい、いいですよ! 精一杯答えるよ」
「ありがとうございます。あのー、ボクー、めっちゃかわいい彼女がいるんですけどー」
ん?
「その子、ボクのことが好きすぎるみたいでー」
あれ? これはもしや?
「休日だろうが夜中だろうがすぐに会いたい会いたい言ってきて、めっちゃ束縛してきて困ってるん――」
「ノロケじゃねーか! なーにが相談じゃ、ふざけんな!」
膨れ上がっていた不安がそのまま怒りに変換され、身体の奥で音を立てて破裂した。内臓を突き破るほどの勢いで声帯を貫いた感情は、相手のそれ以上の言葉を遮った。かけてきてくれたのはありがたいと思いつつも、一切の躊躇もなく通話を切断する。
電話じゃなくて、ネット通話で良かった。もし受話器を持っていたら、きっと地面に叩きつけていたに違いない。
ヘッドホンの向こうから音が消え去る。残ったのは、屈辱に心が折れた人間の荒々しい呼吸の音だけだった。
やられた。完全に優越感のエサにされてしまった。
机の上を凝視していた頭を上げる。画面を確認すると、コメント欄は今日いちばんの盛り上がりを見せていた。文字の残像が見えるかと思うほどに瞬間的にコメントが湧き上がっている。その内容はとてもじゃないが人様に見せられるようなものではなかった。
黒字で流れる口に出してはいけないひどい言葉を、思わず読んでしまいそうになる。そのくらい僕も冷静さを失っていた。
「ぐぬぬ」
ぐぬぬ、なんてセリフはアニメや漫画のなかだけのものだと思っていたが、現実にもあるということを身を以て体験する。喉を通る空気が怒りに震えている。握りっぱなしだった拳を開くと、皺に沿ってうっすらと湿っぽくなっていた。
いまの凸者は始めから相談する気なんてなかったのだ。ただ非モテであふれるこの空間に爆弾を落として、その反応を楽しみに来ただけなのだ。
まんまとやられてしまった。おそらくいまごろはこの嘆きと憤怒の叫びが広がる地上の様子を、空の上から満足気に眺めていることだろう。無性に腹立たしい。噛み締めていた下唇を、このまま食いちぎってしまいそうだった。
「いまのはナシ! ノーカンノーカン!」
両手を横に振り、ついさっきの騒動を過去へと追いやるように声を張り上げた。
いまの凸が最後だったらいろいろまずい。配信を閉じ、この暴徒と化してしまったリスナーを野に放ってしまったらなにが起こるかわかったもんじゃない。それはもちろん僕も例外ではなかった。最後、という言葉を咄嗟になかったことにする。
「なんなんだいまの害悪リスナーは。もうさ、僕らは僕らで強く生きていこ。彼女がいるからなんだってんだよ。あんな自虐風自慢のマウントに屈したらそれこそ負けだよ。だからいまのことはもう忘れよ。みじめになるだけだから特定とかしたりしないようにな。さすがにいまの凸で終わるのも後味悪いから、気を取り直して次の凸者で最後にするわ」
自分にも言い聞かせながら、気持ちを切り替えていく。胸に手を当てて大きく息を吸うと、貧相な胸筋がゆるりと上下した。
コメントも少しばかり落ち着きを取り戻しつつあるようだった。【僕ら、ってなんだよ。おまえだけだろ】と、いつもどおりのコメントが流れている。本当にやかましいと思った。
凸者を募ったことで再び複数件の通話申請が集まってきていた。その一つひとつが自分を主張するようにチカチカと光を放っている。
凸待ちを続けると言っておきながらさきほどの戦いのせいで体力は底につきかけていた。思考は鈍り、視界がぼやけている。街灯に誘われる虫のように、その光に向かってよろよろとカーソルを動かしていった。
もう変なやつじゃなきゃ誰でもいいや。そんな願いを込めて投げやりな操作で通話をとった。
「ふぅー。はい、もしもし。えーっと……あぁ、お名前。お名前を教えて下さい」
「やーっと繋がった。はいっ、――」
その名を聞いた瞬間、世界の空気がピタリと止まった。だらけきっていた身体中の筋肉が、一瞬で石化する。手足が動かない。まるで神経が切り離されたようで、そこまで意識が届かない。
動かし方を忘れてしまった身体に反して、心臓だけがバクンバクンと最大出力で血液を送り込んでいる。
配信の終わりへと向かう穏やかな心を切り裂くようにそれは突如現れた。呼吸が停止した口はパクパクと空気を甘噛みするだけで、なんの言葉も出てこない。恐る恐る画面へと焦点を合わせていく。
どうか気のせいでありますように。
しかし、そこに映し出されていた名前が、僕の聞き間違いじゃなかったことをあっさりと証明した。
――ゴッドアフロ。




